バグダードのレコード屋さん/通訳者へのオビチュアリー
2002年の9月に開始されたSalam Paxのウェブログを私が知ったのは,確か2002年の11月か12月だったけれども,イラクについて,またバグダードについて何も知らない私は,彼が頻繁に英国などのバンドの名前に言及するのを見て,「なんだ,普通じゃん」と驚いたりしていた――この,「『普通』だと『驚く』」という状態のおかしさを嘲笑していただければと思う。
※Salam Paxのウェブログは谷崎ケイさんの翻訳で書籍化されています。→『サラーム・パックス――バグダッドからの日記』(ソニーマガジンズ,2003年)
が,彼が「普通」っぽく書いている彼のウェブログは実は「普通」ではなく(第一,同じ母語を共有する友人との交換日記みたいなウェブログが,母語ではない言語で書かれているという段階から「普通」ではない――それは,当時blogger.comは1バイト文字しか使えなかったからなのだが),彼は「ごく普通のイラク人」ではなかったのだが(欧州に住んでいた経験が,アイデンティティ・クライシスに陥るくらいたっぷりある,など),少なくともバグダードには,Aphex Twinとかビョークとかいった音が入っているということは確かなことだった。
その「普通」っぷりが,無知な私には衝撃だった。
Salam PaxがCDを持っていたのか,ネットで聞いていたのか,ダウンロードしていたのか,あるいは衛星テレビやラジオで聞いていたのかわからなかったけれど,「・・・Aphex Twinかよ」と思ったとき,少なくともモニタの前の私にとって,距離が一気に縮まったことは確かだ。私の手の届くところに置いてあるCDのケースに入っている,あの眼球振動みたいな音を思い出しながら。
昨年6月にElectronic Iraqに掲載されていた記事に,METALLICAと書かれた壁の前の2人の青年の写真を添えた記事があった。シャギーとスクービーというこの2人の青年の部屋は,「メタリカだのエミネムだのといった落書きで飾り立てられ」ているのだそうだが,メタリカだのエミネムだのという文字列を,壁に書くだけではあるまい。つまり,どっからか彼らは,それらアメリカの音を手に入れていたはずだ。
通じている窓口がある――そのことは,Aphex Twinやエミネムが当たり前にある英語圏の人たちにとってよりも,そういった音楽が「洋楽」として別立てになってるうちらにとっての方が,その意味するところがよりはっきりわかることだ。そういった音楽は,求めようとすれば自分から意識的に動かねばならない何かなのだけれども,その「窓口」からは確実に流れ込んでくる。
バグダードのRiverbendのウェブログ,2006年1月12日の記事に,そういった「窓口」のひとつについて説明がある。
原文:Riverbendのウェブログ,2006年1月12日の記事
〈ここまで略〉
みなが彼のことを単に「アラン」,つまりイラクのアラビア語で言えば「エリン」と呼んでいた。戦争の前,彼はバグダードのアラサット地区でレコード店をやっていた。アラブの音楽や器楽曲なんかも少しは置いていたけれど,彼の店には常連客が――外国の音楽が大好きな,西洋化されたイラク人たちがいた。ロックやお子ちゃま向けじゃないオルタナティヴ,ジャズなどを聴いている私たちにとっては,彼のところほどのレコード店はなかった。
彼はブートCDやカセットテープ,DVDを売っていた。彼の店はただのレコード店ではなかった。避難場所だった。ここにある音楽がどんだけ現実とは違うどっかに連れてってくれることになるんだろうとドキドキしながら,CDやテープを持って彼の店を後にするあのときのあの気持ちは,ほかでは感じがたいものだった。彼の店にはアバからマリリン・マンソンまで何でもあった。ほんとうに何でも出してくれた。店に行って,「ねぇアラン,ラジオですっごいいい曲がかかってたんだけど,探してよ」って言うだけで,誰が歌ってた? わかんないのか,そっかー,で,男だった? 女だった? うーん,そっかー,じゃあ歌詞はどうよ?・・・なんてこっちに付き合ってくれて,そしてたいがいは私の知りたいその曲を彼は前に聴いたことがあって,歌詞もちょっと知ってたりした。
経済制裁の間,イラクは事実上,外部の世界から隔絶されていた。地域のテレビ局は4局か5局あったと思うけど,インターネットが一般的になってきたのはもっと後の時代のことだ。(経済制裁のころ)アランは外部の世界とこっちをつなぐリンクのひとつだった。アランの店に入っていくことは,一瞬しか存在しない外部世界に入っていくことのようなもので,店に入っていけば必ずすごくいい音楽ががんがんかかってて,彼と店員のムハンマドは,ジョー・サトリアーニとスティーヴ・ヴァイのどっちがすごいか,なんてことで熱くなってたりした。
彼は店のドアのそばに最新のビルボードのヒットチャートを書いた紙を貼り付けて,自分の好きな曲を何曲か集めて「俺の選曲」のCDを作ったりもしていた。あるいは,自分の趣味とかとは別に,グラミー賞やアメリカン・ミュージック・アウォードやアカデミー賞の授賞式の録音をしていたこともあった。2度彼の店に行けば,3度目までには,この人はこういうのが好きだからということを覚えていて,こんなのも好きなんじゃないかな,という音楽を見つけておいてくれる。
「西洋化された日本人」で音楽好きなら,こういう状況は非常によくわかるだろう。例えば西新宿とかにいくつも点在する小さな輸入レコード店に行けば(タワレコとかじゃなくて),客がカウンターに張り付いて店員にあれこれ聞いているという光景は,よくある。で,何度か通ってるうちに店員と顔なじみになって,「最近こんなの入ったんッスけど,聴いてみます?」なんて聴かせてもらったりする。「今回入荷分のイチオシ」みたいなのがあったり,どこそこのどのシーンでは今どれが熱いとかいう情報があったり,何ていうか,レコ屋がただの物の売り買いの場というだけでなくなってたりもする。
東京だけじゃない。大阪にも名古屋にもロンドンにもノッティンガムにもマンチェスターにもシアトルにもサンフランシスコにもDCにもニューヨークにも,こういう場はある。
そういう場が,経済制裁下のイラクのバグダードに,小規模(で,しかもブート屋)ながら,あった。多分いくつかあったことだろう。そしてそのひとつが,Riverbendが通ってたアランの店だった。
Riverbendの記事(原文)の続き:
彼は電気技師だったけど,本気だったのは音楽だった。彼の夢は音楽のプロデューサーになることだった。ありがちなボーイバンド(インシンクとかバックストリート・ボーイズとか)はクソミソにけなしていたくせに,Unknown to No One(知らない人は誰もいない)というイラクのボーイバンドを,僕が発掘したんだって売り出そうとしてたりした。「いやー,彼らはすごいよ,ほんとマジで才能あるんだって」と彼は言ったものだ。私の弟のEが「えー,ダメダメじゃん」と言うと,アランは,いつものごとくイラク人らしく胸を張って,そのボーイバンドがいかにすごいかについて滔々と語るのだ――だってこの子たちはイラク人なんだから,と。
彼はバスラ出身のクリスチャンで,彼のことを深く愛しているかわいい奥さんがいた――Fさんという。私たちは,アランってば結婚して家族とか持っちゃたら音楽なんかどうでもよくなるんじゃないの~,なんて彼をいじめたものだ。そんなことにはならなかった。ピンク・フロイドやジミ・ヘンドリクスについてのアランとの会話はその後も続いた。でも話の中には奥さんのFや娘さんのM,小さい坊やが出てくるようになった。今,奥さんや子供たちのことを思うと,胸が痛みます・・・。
店に入っていくと,カウンターがお留守になってることもあった。みんな別の部屋でプレステでFIFAワールド・サッカー(ゲーム)をやってたりするわけだ。このヴァージョンじゃなければあのヴァージョンって感じで。彼は古いレコード,つまり「アナログ盤」も集めていた。古ければ古いほどよいものであるっていってね。音楽関連の新しいテクノロジーをどんどん取り入れる一方で,彼はいつも,ヴィンテージのアナログ盤の音質に敵うものはないよ,と言っていた。
アランの店に行くのはただ音楽を買うためだけじゃなかった。行けば必ず友だちのところに遊びに行ったようになり,まあ座んなよとか,最近これがきてると思うんだけどどうよとか,何か飲む?とかいうふうになるのだ。その次は今一番話題の噂話――そういうのを彼は何でも知っていた。今一番いけてるパーティはどこでやってるとか,一番いいDJは誰だとか,誰が結婚したとか離婚したとか。地元ネタも知ってたし,外国のゴシップも知っていた。でもアランがそういう話をするとき,悪意はまったくなくって,いつもおもしろおかしくあははと笑っていられた。
そして何より,アランは絶対に他人をがっかりさせない人だった。絶対に。その人が求めているものが何であれ,それを手に入れるために彼は最大限がんばる人だった。友達になると,音楽でつながってるだけじゃなく,困っているときにはいつでもすっと手を貸してくれた――アドバイスをしてくれたり,あるいは,あれこれあってほんとに大変な1週間の後,こっちの言うことにじっと耳を傾けてくれたりも。
戦争の後,彼の店があったアラサット地区はひどいことになってしまった。自動車爆弾や銃撃戦が頻発し,バドル旅団があの地域の家を何軒か占拠してしまった。あまりに危険になってしまい,人々がアラサット地区に足を向ける頻度も激減してしまった。彼の店は営業していることより閉店していることの方が多くなった。そして,殺すぞと脅迫されて店の窓から手榴弾を投げ込まれた後,完全に店じまいしてしまった。あるとき車がカージャクに遭って彼をめがけて銃弾が撃ち込まれ,それから彼は,お父さんのトヨタのクレシダに乗るようになった。ボロボロのポンコツで,後部の窓にシスタニの写真を貼り付けてあった。「宗教バカを寄せ付けないようにね」と彼はウィンクしてニヤっと笑った。
戦争の後,彼が店を閉めてしまう前に,弟と私は店に寄ったことがあった。電気もなく発電機もなく,店の中は石油か何かのランプがともったきりで薄暗く,アランはカウンターの向こうに座ってCDの整理をしていた。私たちの顔を見ると彼はものすごく喜んでくれた。(電気がないから)音楽をかけるなんてことができるわけもなく,彼と弟はふたりの好きな曲を何曲か,ときどき歌詞でつっかえては適当にでっち上げつつ,通して歌った。それからあれこれ着メロを聴いたり,今日最も話題のジョークを教えあったりした。ふと気づくと2時間が経過し,店の外の世界のことなどすっかり忘れていた。ときどき聞こえる爆発が,私たちを現実に引き戻した。
アランの店が避難場所――問題や悩みを忘れられる場所――だったのは,音楽があるからではなく,アラン自身がそこにいてくれるからなんだ,ということが,そのとき私にはっきりわかった。
Riverbendはこのあと,アランが好きなピンク・フロイドのGoodbye Blue Skyの歌詞を引用している(アルバム"The Wall"収録。これは基本的に「人」と「人」との「間」の可能性と不可能性についての作品)。
いいねぇ,アラン。新宿レコード屋街に連れて行きたいねぇ。で,家電量販店のテレビ売り場あたりで日本の「ボーイズバンド」が偶然目に入るのだ。V6とか嵐とかKAT-TUNとか。
不可能だが。
この「アランのメロディ」という名前の店のフレンドリーなおにいちゃんは,米国のCSM(Christian Science Monitor)紙記者のJill Carrollの通訳担当として,彼女の取材に同行していた。1月8日,記者と通訳者はバグダード西部で何者かに襲撃された。記者は拉致された。通訳者は銃で撃たれて死んだ。Riverbendが聞いたところでは,即死ではなく,警察の聴取を受けて,それから死んだという。
BBC記事から,事件の説明の部分を引用:
She and her translator were on their way to meet Adnan al Dulaimi, the head of a prominent Sunni coalition, when they were ambushed.
The newspaper quotes the journalist's driver, who survived the attack, saying gunmen stopped the car, dragged him out and drove off with Ms Carroll and her translator.
The body of the interpreter was recovered that day, along with identity papers. He has been named by the newspaper as Allan Enwiyah, 32.
No-one has claimed responsibility for the abduction.
ジル・キャロルと通訳者はスンニ派連合のアドナン・アル=ドゥレイミ氏に会いに行く途中で襲われた。CMSは,襲撃されたが命に別状はなかった車の運転手の話として,銃を持った男たちが車を止め,3人は引きずり出された,としている。
通訳者の遺体は身元を示す書類とともにその日のうちに発見された。CMSによれば,死亡した通訳はアラン・エンウィヤーさん(32歳)。
拉致の犯行声明はまだ誰からも出ていない。
このニュースを知り,Riverbendは2日間泣いていたとウェブログに書いている。
私はRiverbendのウェブログでこれを読んでから2日間かけて「知ってしまったこと」をどう消化しようかと考えていた。それからまた2日間かけて,何とか形にしようとしていた。
形にしなければ伝えられない。
しかし,文字にするとあまりに軽くなってしまう,あまりにも悲しい,「通訳者」の死。
アランが殺されたことが,彼が「通訳者」だったことと関係がないとは,私には考えられない。
そして,アランがあちらとこちらの間に橋を架けることをしてきた人であるということが,私にはあまりにも悲しい。
どうしてこの人は「通訳」をするようになったんだろう。“洋楽”が好きで歌詞とか知りたくて,そっから英語を知ったんだろうか。あるいは高校や大学で一生懸命勉強したんだろうか。その両方とか,あるいは他に何か要因があったんだろうか。Salam Paxのように,かつて欧州に住んでいたとか?
いずれにしても,最初に英語の読み書きと会話ができるようになったとき,彼は,自分が越境するためにその知識と技術を習得したに違いない。
英国のマイケル・ウィンターボトムっていう映画作家の作品にIn This Worldっていうのがある(リンク先ではDVDの抜粋の視聴可能)。クエッタの市場で商売をするために英語を使えるようにした少年が,従兄が密かに英国に行く計画をしたときに「あんたは英語ができない。だから俺がついていく」って口実で,ちゃっかり自分も「この世界」から出てしまう。
アランもきっと,「この世界」からどこかに出るために英語を使えるようにして(あるいは,英語が使えるようになって),その結果,彼自身が「この世界」から出ただけではなく,他の人たちが「この世界」から「あの世界」に行く窓口になってたんじゃなかろうか。
このことは忘れずにいたいと思う。
Will the wind ever remember
The names it has blown in the past?
-- Jimi Hendrix, The Wind Cries Mary (1967)
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Riverbendは「2日間泣いていた」と書いているが,喪失はそれをはるかに上回るものであるに違いない。常のごとくかっちりと書かれた文章の向こうにある彼女の喪失感は,書くという作業によって少しはおさまりのよい場所に落ち着くだろうか。そうであることを私は願うのみである。(喪失は,埋めることはできない。喪失感は,それはそれとして,場所を見つけてやらねばならない。)
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And it's true we are immune
When fact is fiction and tv reality
And today the millions cry
We eat and drink while tomorrow they die
-- U2, Sunday Bloody Sunday (1983)
Black and blue
And who knows which is which and who is who.
Up and down.
But in the end it's only round and round.
-- Pink Floyd, Us and Them (1973)
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草稿作成日:1月13日
Riverbendのこの文は,バグダード・バーニング 日本語版や,細井明美さんのブログで,全文が翻訳されています。
投稿者:いけだ
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