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2005/10/23

イラク憲法国民投票について (3)

憲法についてのレファレンダムの結果も確定していないうちに、イラクからのニュースといえばサダム・フセイン特別法廷に差しかわってしまいました。そのことについてのガーディアン記事と、イラクのブロガーたちの書いてることを。

――憲法草案レファレンダムについての過去記事、その1その2

22日昼間の時点では、日本語での記事は、Yahoo! Japanのトピックスで見る限りでは、憲法のレファレンダムについての記事は、18日の共同通信のものが現時点(22日)で最新のようですね。しかも投票の結果そのものについては、次のような短い記述があるのみ。

 各州選管によると、スンニ派が多い4州のうち、中西部アンバル州と中部サラハディン州では反対票が8割前後に達したもよう。


その前に、こんな記事(共同通信)もありますが。。。

イラク新憲法案の国民投票で選挙管理委員会は17日、開票結果が賛成や反対に極端に偏った州の報告を検査するとの声明を発表した。当初は17日に開票の中間発表を行う予定だったが、発表はなかった。


レファレンダムでは、3つの州で反対が総投票数の3分の2になれば憲法草案はお蔵入りということになっていたので、アンバール(ラマディ、ファルージャなどがある州)とサラハディン(サマラ、ティクリートなどがある州)で反対票が8割前後ということは、あと1つ、3分の2が反対した州があれば、憲法草案お蔵入りということになります。

以下の記事は、この点を中心に書かれたものです。また、12日(だったと思う)にメディアに出た「ザワヒリからザルカウィへの手紙」と、19日のサダム・フセイン特別法廷の初公判の1週間の流れの中で、15日のレファレンダムを見ると……という視点で書かれた記事でもあります。

Saddam's trial is merely a political sideshow
Jonathan Steele
Friday October 21, 2005
The Guardian
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1597318,00.html

※概要:

ニネヴェ(Nineveh)という名前は、夢の彼方の古代都市というイメージを呼び起こす。ニネヴェはアッシリア帝国の最後の首都で、バビロン軍に徹底的に破壊され、歴史に埋もれていった。聖書では二ムロッドが建設した町とされている。

この歴史ロマンあふれる名前は、現在は、イラクの18の地方のひとつの名称である。【注:Ninevehは現在の表記ではNinawaに転じているらしいが、以下原文に即すよう「ニネヴェ」と表記する。ニナワの州都はモスル。】多くの文化的背景を持つ住民が暮らすニネヴェ州は、先週土曜日(15日)に行われた憲法草案についてのレファレンダム(国民投票)の行方を占う州であった。

レファレンダムのことを覚えておいでだろうか? 先週末全世界のニュースが、数百万人が投票所に足を運んで「反乱勢力にノーをつきつけた」、と盛んに言い立てたあれだ。そう言った次に盛んに流れたのは、まだ仮のものではあるが「確実な情報に基づく」予測として、草案は通ったという声だった。北部と南東部のクルド人とシーア派の過半が熱心に支持しており、反対票が多いと考えられるスンニ派の地域があっても否決には至らないであろう、と。

このレファレンダムは、18の地方のうち3つで3分の2が反対すれば、憲法草案は否決されるというものだった。実際に、ファルージャやラマディ、ティクリートを含む反米色の濃い地方2つ【注:アンバール州とサラハディン州のこと】では、反対票が3分の2を超えた。あと1つの州で反対票が3分の2となれば草案は否決されることになる。そのキーとなったのがニネヴェだ。

しかしスンニ派(アラブ人)とクルド人とキリスト教徒が暮らすニネヴェでの反対票は、十分な数ではなかった。

そして一息入れる間もなくビッグ・イベントが行われた――サダム・フセインの特別法廷だ。この裁判は、迫害を生き抜いてきた数十万もの存命者にとっては気持ちの浄化(カタルシス)として重要であるが、今でもサダムを支持しているイラク人がごく少数である以上は、政治的な意味はほとんどない。むろん、サダムが法廷で不当な、あるいは強引な扱いを受ければ、アメリカ人にとっては手痛いしっぺ返しとなるだろう。そうなれば、より広い範囲のイラク人やアラブ諸国の人々にとって、サダムは傷つけられた国家のプライドの象徴となるかもしれない。2003年12月に身柄が拘束された直後に歯科医の診察を受けている様子の写真をワシントンが公開した直後にそういう存在になったように。

裁判の時期が調整されたというのは本当の話である。どうして突如、今週だったのか? 2週間前にロンドンのチャタム・ハウス【注:the Royal Institute of International Affairsのこと】では、イラクのタラバニ大統領が、特別法廷が開かれるのはいつになるのかはわからないと述べていた。それから数日のうちに日時が決定されたのだ。そして都合のよいことに、これで記者たちの注意はレファレンダムの票の集計から逸らされてしまった。

憲法草案の問題がスポットライトを浴びなくなってしまったとなると、憲法は可決したという公式な結果が今日にも発表されても、つまらないニュースとして扱われることになるだろう。なぜなら、私たちはそのことを既に「知っている」のだから。先週末には、米国務長官や英外相、イラク政府がリークしていたのだから。

なぜ彼らは、票の集計作業が終わってもいないのに、確信できたのだろうか? 票の集計がおかしな具合になるということを、彼らは事実として知っていたのだろうか? 特別法廷は、新聞の見出しに票の集計がおかしな具合だということが載らないようにするための政治的な発明なのだろうか?

月曜日(17日)、イラクの選挙関係者は、大きな不正が見つかったと言い始めていた。クルド人の投票率が疑わしいほどに高く、場所によっては95パーセントを超えている、と。サダム・フセインの裁判の陰で、ますます多くの問題が浮上していたのだ。ナジャフなどの都市における投票率は、当初出された45パーセントという数字の倍になった。ニネヴェやディヤラ(スンニ派アラブ人が多数である:地図を参照)では、当初の関係者の話では、驚くべきことに賛成票が70パーセントであるとのことだった。しかし後になって、彼らはニネヴェの数字を変更し、反対票がまさっていたと述べた――しかしまさっていたとはいってもわずか55パーセントで、反対を決定する66パーセントには遠く及ばない、と。

IPS(Inter Press Service)のために厳密な分析をおこなった米国人学者のガレス・ポーター氏は、その数字すら疑問視している。ポーター氏によれば、その数字は、スンニ派の信じられないくらいの低投票率に基づいているという。またそれは、事前に憲法草案への反対を明言していたニネヴェのキリスト教徒たちが、当日突然気持ちを変えたということを暗示している。ポーター氏は、かつて現地で米軍の渉外担当を勤めていた人物の言を引き、ニネヴェの主要都市であるモスルの主導権を長く競ってきたクルド人上層部が人口を水増しした、1月の選挙のときにも不正投票をおこなったが、今回もまた同じことをした可能性があるのではないかと述べている。

さて、これが重要なことだろうか? いずれにせよ、憲法は可決したと宣言されるだろう。ブッシュ政権が憲法を可決させたがっているのだから。それは12月の選挙へ向けての道を開く。そして、12月の選挙は、イラクが徐々に民主化してきていることの更なる証であると喧伝されるであろう。

しかしそれは高くつくはずだ。ブッシュ政権は口ではスンニ派を政治的プロセスに関わらせようとしているのだと主張している。その一方で、スンニ派を欺くことが、分別のあるポリシーであるわけがない。

先週(のレファレンダムで)スンニ派の人々が多く票を投じたという事実は、彼らが武装抵抗を支持しなくなったという意味ではない。ファルージャでは、投票に足を運んだ人々が、票を投じる一方で、反乱(insurgency)を支持すると語ったとのことだ。これは十分につじつまの合う話である。1月の選挙の法的正当性を疑問視したイラク人は、ボイコットする以外に選択の余地がなかった。しかし、憲法の法的正当性を疑問視する人々は、もっと多くの選択肢を有する。ムスリム法学者協会やレジスタンス(resistance)に近い集団が提言したようにボイコットすることもできた。あるいは反対票を投じることもできた。これはつじつまが合うばかりでなく、プラグマティックでもある――ただし、票の集計が公平なものであるならば、だ。

反乱勢力側では、標的についてが議論になっているようだ。つまり、一般市民への自動車爆弾攻撃は政治的にまずいのではないかということだ。ワシントンのスパイは最近、アルカーイダのナンバー2であるアイマン・アル=ザワヒリから傍受した手紙を公表した。ザワヒリはイラクにいる自陣の者に対し、シーア派や一般市民への攻撃をやめるよう、強く要請していた。そんなことをすれば支持を得られる人々からも見放されるからという理由だった。あの手紙は、アル=カーイダに対し、米軍が撤退したらイラクにスンニ派のイスラム国家を築き――「おそらくわれわれが想像するよりも早期に」――、ジハードを「イラクの宗教的でない地域」にまで拡大するよう呼びかける内容だった。この手紙は、イラク人だけでなくシリア人も脅かすつもりもあって捏造されたものかもしれない。

この手紙が捏造であろうとなかろうと、標的の問題がイラクで反響を呼んでいることは確かだ。レジスタンスは主にナショナリズムに基づいており、また、都市攻撃の際に米軍がめちゃくちゃに狙うので一般市民が殺されたり、米軍が拘束した人々を虐待(拷問)したりしていることへの怒りに基づいている。自爆については、ほとんどのイラク人が、正当な報復ではなく、外国人ジハディストの仕業だと非難している。

ブッシュはイラクにあまりに多くのテロリズムを引き起こしてしまった。そのため、アル=カーイダ追随者たちの過激なやり方を緩和するために、アル=カーイダ幹部の手紙を利用しなければならない。ブッシュの不毛なイラクに対する戦争は、意図せざるアイロニーを多く生んできた。これもそのひとつだろう。


記事を書いたジョナサン・スティールという人はときどき唖然としてしまうようなシニシズムを示すのですが、この記事もそういう感じですね。。。正直、読んでるうちにだんだん、何が言いたいのかわからなくなった箇所がありまして、私の内容把握は間違っているかもしれません。

サダム・フセインがメディアに姿を現すことについては、ジョナサン・スティールの記事だとちょっと弱いかもしれません。

私の場合、イラクには行ったこともないしアラビア語も読めないしで、しっかりした裏があって思ってるわけではないのですが、サダムがあれば、ほかのニュースなど話のネタとして入り込む余地もないくらいになるのではないか、と思います。

映画『露出不足』のなかで新聞売りの男がサダムの身柄拘束のニュースが1面に載った新聞の束をかかえて、「この大きな写真1枚と、あとは長たらしい記事だよ。みんな写真だけ見て、新聞を買わない」としゃべっていた場面があったのですが、それは記事など読まなくても、「見たかあの写真」「見た見た」をきっかけにして、「こんなひどいことがあった」「あんなひどいことがあった」と、何時間でも人としゃべっていられるからではないかと思いました。つまり、イラクでは「サダム・フセイン」を新聞の1面に出しておけば、人々の関心も注目もそれだけに集まる、ということではないか、と。

モスルでいんちきな投票が行われていたことが事実であるとすれば、それは民主主義であるとかないとか、押し付けであるとかないとか、法的正当性があるとかないとか以前に、ありえないデタラメです。本当にそれが事実だとしたら、それがメディア(イラクは玉石混交だそうですが、印刷メディアは発達しているそうです)に出そうな日から数日間、新聞の1面を占拠できるネタは、デタラメを仕掛けた側はどうしてもほしいはずです。ジョナサン・スティールの記事はこういった前提で書かれているものだと思います。

なお、ジョナサン・スティールは30年も40年も前から海外特派員としてガーディアンで書いてるベテラン記者で、冷戦期のポーランドやソ連からのレポートもしていた人です。検索してみたら、1964年の米ミシシッピ州のFreedom Summerに参加した数少ない外国人の一人だったそうです。昨年にはロンドンのペンクラブで、ロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ対談しています。当ウェブログでは、今年4月のダール・ジャマイルとの連名記事などがあります。

さて、このような次第で、なんだかとんでもないことになっているらしいモスル辺りについては、15日にRiverbendがこんなことを書いています。

 1月に戻ったような気がする。あの時も、モスルなどスンニ派地域の人々は、投票所がないとか、投票箱が集計センターまで届かなかったと訴えていた。

――バグダード・バーニング日本語版(翻訳は池田真里さん)


モスルのブロガーのTruth tellerさん(A Star From Mosulの高校生ブロガー、Aunt Najimaのお父さん)は、13日にこんなことを書いています。

投票まであと2日なのに、モスルではまだ誰も、全戸に配られるという憲法草案の印刷物を見ていない。さらに、私たちも近所の人たちも、どこで投票するのかまったく知らない。12日の午後10時から17日の午前5時まであらゆる車両は通行禁止になるため、投票所は前もって知らされる必要があるというのに。12日の夜から17日の朝までは、市内では誰も車で移動することができないし、小中学校も大学も、行政関係もすべて、この4日間は休みとなる。
――Thursday, October 13, 2005, We and the Constitution


彼らの投票所はモスクだったようです。(<娘さんのウェブログより。)

ほか、モスルに関係のあるブロガーでは、liminalは相当怒っていることがわかりました。

また、 Truth About Iraqisというウェブログでは:

 アンバールとディヤラが「ノー」のようだ。ディヤラについてはまだ確定ではないが。ディヤラは「イエス」だろうとほとんどの人が考えていた。後ほど情報が入り次第。今入った情報によると、ディヤラは「イエス」が70パーセント、「ノー」が20パーセント、10パーセントが無効票。
 ニネヴァは「イエス」に行きそうだが、ちょっとごたごたしている。クルド人がモスルで大量投票をしたとかしないとかいったことになっているらしい。昨日書いたが、モスルの3つの地区では有権者が投票を許されていない。
 ニネヴァは「ノー」だろうと考える人がほとんどだった。スンニ派アラブ人が大多数だからだ。ここについても、後ほど情報が入り次第。
 サラハディンも「ノー」に行きそうだ。今入った情報、AFPがサラハディンは71パーセントが「ノー」だと伝えている。

――Sunday, October 16, 2005, Iraq violence (unreported items surface)


現在イラク国外にいるので今回は投票できないKhalidは、あれこれ情報が入ってきていたそうで、

 スンニ派のエリアでは投票所が何度も場所を変更になって、人々はわけわかんなくなってどこに投票に行けばいいわけ?という状態になっていた。さらに、多くの投票所では、投票に行ったのに投票を許されない人が出た。名前が名簿に記載されていなかったとのこと。一方で1人に2度以上投票させる投票所もあった。例の指につけるインクをつけてなかったとのこと。正午前に選挙の監督者が姿を消してしまったところもあった。警官や国家警備隊が大勢出動していたとか、男たちを満載したバドル旅団のバスが投票所に押しかけて、あとはこちらでやりますのでと監督者に立ち去るようにと言ったとか、というのが、バグダードのザアファラニヤ地区のアシャウィ小学校の投票所の監督者をしていた1人、ハタム・アブ・アハメドの話だ。
 キルクークの警察は、ほとんどの政党の代表や投票センターの役人に対する逮捕状を出していたが、これは明らかに選挙のプロセスに違反している。クルディスタンからキルクークに大量に人を輸送して投票させたとか、南部からバグダードに人を運んで投票させたとかいう話もある。アンバールのセンターとして数えられることになっている投票センターは、実際にはバグダードにある。マンスール地区【バグダードの裕福なエリア】の「女性教諭協会」の投票所には、警察車両に警護された南部から来た車が次々とやってきて、イエスと連呼し、その投票所で投票を済ませた。バグダード大学が待ち合わせ場所になっていて、車は走行禁止になっているのに、護衛つきで車に乗って去っていったという。以上、Iraqi Rabita(アラビア語ブログ)に書いてあったこと。
 モスルの"Iraqi independent front"(英訳はKhalidによる)のAbd Arrazaq al Jobooriは、80~85パーセントが「ノー」の票を投じたと言う。それもオルーバ地区のオサマ・ビン・ザイド投票所では6000人が投票し、うち5000人が「ノー」だった、といったように具体的に数字をあげて。モスルではこのほかの投票所でもこんな感じだった。投票の結果が捏造されるなら、モスルの人々はあらゆる法的手段を講じる気であると、彼は言っている。今回の投票の行方を決めるのばモスルだ。アンバールとサラヒディンは間違いなく「ノー」だから。Najimaのブログ(a star from Mosul)にもそれは書いてある。
 アルジャジーラによれば、選挙委員会の役人は、アンバールとサラヒディンはノーが多数で、当初はサマラでも95パーセントがノーということだった。サマラもまたスンニ派多数の地域だ。
 バグダードでもノーとなるチャンスは十分にある。サドルがもうちょっと堂々として、「ノーと投票しなさい」と支持者にはっきり命令していれば。サドルはハウザ(ナジャフのシーア派の指導部でシスタニがトップ)にあんまり反抗者と見られたくないが、憲法には反対しているから、大アヤトラ・アル=ハイリのご意見を伺いなさいと指示している。で、それは、僕の翻訳では「この憲法にイエスと投票するくらいなら、八つ裂きにされた方がまし」ということだった。アル=ハイリはこの憲法はムスリムを分断し、占領を強化するとも言っていた。サドル支持者は、特にナシリヤで、ハイリのファトゥワを印刷したものを配布した。サドル支持者がアリファイ市のサドル事務所でそうしているところにイタリア軍が来て、事務所から出て行きなさいと言われたが拒絶したため、イタリア軍が発砲し、サドル支持者が反撃した。
 ラマダンの断食の中、きつい日差しのもと、人々は投票するために並んでいた――憲法を否決するために。


バグダードのAysは「ジャファリは何をしようとしてるんだ」と、シーア派とスンニ派という枠にはまって激怒。(その前に、数ヶ月ぶりで更新されてたエントリが「先週、友人が車に乗っていて、米兵に頭を撃たれて死んだ。米兵は『申し訳ない』と言った」。)Aysは、ずいぶん前になるけれど、アンバール州で弟の友人夫妻(イラク国家防衛隊に医薬品を納入していた業者さん)を、ザルカウィの組織に斬首されています。

今年3月でほぼ更新停止してたzayedは、1月の選挙では投票したとウェブログに書いているけれども、今回はI voted against.と1行のエントリ。

というようにいろいろあるのですが、イラク人の書いた詳しい記述を読むより直感的にわかりやすいのは、「2000年のフロリダを思い出す」というMad Canuck(在米カナダ人)の記述かもしれません。


投稿者:いけだ