土井敏邦さんのドキュメンタリー,『ファルージャ2004年4月』
自分の子の頭にあいた穴から,自分の子の脳を見た母親。「でも私に何ができるだろう。何が言えるだろう。神にお祈りするのみです。」
米軍の爆撃で肉片みたいになった幼い姉妹2人のお人形さんは,きれいなワンピースを着ていて,白い肌をしていて,金髪だ。
椰子の木に囲まれた農家。夜中の1時から米軍はこの農家を取り囲んで戦車や火器で攻撃した。米軍兵士は家族を殺し,また負傷させ,そして家に入ってきて,戸棚から弟の財布を取り,中に入っていた現金とIDを持ち去った。
米兵は,I'm sorryと言ったのだという。
――破壊された人間の身体を前に,それを破壊した人間は,I'm sorryと言えるのだろうか。
――それを言うとき,人の心はどのくらい破壊されているだろう。聞かされるときは。
土井敏邦さんのドキュメンタリー,『ファルージャ2004年4月』を試写会で見てきた。(当ウェブログ過去記事を参照。)
2004年4月,米軍は25日にわたって,バグダードの西およそ60キロの場所に位置する歴史ある地方都市,ファルージャに包囲攻撃を加えた。
包囲攻撃の間,ファルージャにいたジャーナリストはひとりだけ――アルジャジーラの記者だけだった。
「停戦」となった直後の5月1日,日本からもジャーナリストがファルージャに入った。ひとりは朝日新聞の川上記者。そしてもうひとりが,昨年殺された小川功太郎さんだった。
5月9日にイラクに入った土井敏邦さんは,バグダードのホテルでたまたま小川さんに会った。そして話をした。
小川さんはその後もイラクで取材を続け,そして帰ってこなかった。
小川さんは,包囲攻撃後のファルージャに入った最初の日本の映像ジャーナリストだった。
小川さんのファルージャ取材の文章は,『月刊現代』2004年6月号に掲載されている。映像は,地上波テレビでは放送されなかったようだ。
地元の有力者が「ひとりで動くのは危ない」とコーディネーターを手配し,土井さんはファルージャに入った。しかし,取材を続けること1週間で,土井さんはファルージャを去らねばならなくなった。土井さんだけでなく,すべてのジャーナリストがファルージャにいられなくなった。当時ファルージャをコントロールしていたムジャヒディーンが,一切のジャーナリストの立ち入りを禁止するとのお達しを出した――ジャーナリストとして入ってくる者の中に,スパイ活動をする者がいるというのが理由だった。
土井さんが今回発表された映像『ファルージャ2004年4月』は,その1週間の取材で撮影された素材を55分にまとめたものである。
55分もあったとは思えなかった。ただただ圧倒された。
「これは『作品』としては考えていません」と,上映前に土井さんはおっしゃった。「ファルージャで何が起こったのかを歴史的証言として残すことが目的です。」
そしてそれは確かに「証言」だった。人の顔,人の声,人のしぐさ。破壊された家屋,めちゃくちゃになった家具。
ナレーションもなく(字幕を使用),効果のための音楽もない,それは「記録」。
そこには「ザルカウィ」はいない――いねぇよそりゃ。私が英BBCで確認したところ,「ザルカウィ」がファルージャと関連付けられて語られたのは,2004年6月が最初だ(当ウェブログ過去記事)。そして今,「ザルカウィ」はラマディに現れたりしているらしいが,同じ頃,ラマディからずっと離れたアル=カーイムでは「ザルカウィ掃討作戦」が行なわれていた。
米軍の「精密な爆弾」は,家1軒をむちゃくちゃにする程度に精密。中で寝ていたお母さんや子どもを肉片にする程度に精密。
「停戦」後に撃たれたらしい男の子の横たわるベッドの頭の方,壁についているコンセントは,英国のコンセントと同じ形状だ。
墓地と化したサッカーグラウンド,「〈女の子の名前〉の腕」と書かれた墓標――この子の“形”は腕だけだった。
人々はお墓にまんべんなくきっちりと水をかけている――日本のお墓参りと同じように,彼らは墓に水をかける。
病院のベッドに横たわる男の子は,バチバチのまつげに縁取られたとても大きな美しい目をしている。まつげの長い陰の下,くっきりとした黒い瞳は左右に動く。まばたきをするけれども,彼には声も言葉も,動作もない。彼の脳にはたくさんの破片が埋まっている(レントゲン写真)。彼の傍らで母親が話をする。「まばたきはしますがそれだけです。この子は眠っているのです。」
その声は彼には聞こえているだろうか。
アウトプットを奪われた少年。言語も声も,動作すら奪われて。
お母さんに「聞こえているよ」と伝えることもできずに。
その少年は,DVDのパッケージの裏面にいる。
まだ少し,私には言語化できないことがある。
いけだ
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