選挙:ベトナムとイラク
米国、ベトナムでの投票状況に勇気づけられる
ラフール・マハジャン
2005年1月31日
Empire Notes 原文
とても貴重なので皆さんにもお知らせしたい。ダイリー・コスのブロガーの一人が1967年9月4日付ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された「U.S. Encouraged by Vietnam Vote: Officials Cite 83% Turnout Despite Vietcong Terror(米国、ベトナムでの投票状況に勇気づけられる:公式筋によると、ベトコンのテロにもかかわらず83%が投票した)」というお宝記事を発掘してくれた(事実を確認したい人たちのために言っておくと、Lexis-Nexisデータベースはこの頃の記事までカバーしていないが、ProQuestで入手することができる)。
次のような内容である。
米国、ベトナムでの投票状況に勇気づけられる:
公式筋によると、ベトコンのテロにもかかわらず83%が投票した
ピーター・グロース、ニューヨーク・タイムズ紙特約
1967年9月4日 二面
ワシントン発9月3日-米国政府筋は、投票を妨害しようとするベトコンのテロ・キャンペーンにもかかわらず南ベトナムの大統領選挙に多数の人が投票したことに驚くと同時に感動した。
サイゴンからの報告によると、585万人の登録有権者の83%が昨日投票を行なった。その多くはベトコンからの報復の危険を犯して投票したものである。
民衆の投票規模とベトコンが投票設備を破壊できなかったことから、まだ完全な結果はわかっていないもののこの選挙の初期評価に関する目立った事実である。
より詳細な報告を待っているため、国務省もホワイトハウスも投票いついてはコメントしていないし、軍の候補グエン・ヴァン・チュー中将と副大統領候補グエン・カオ・キ首相の勝利についてコメントはしていない。
選挙の成功は以前から、南ベトナムで立憲プロセスの発展を奨励しようというジョンソン米大統領の中核政策と見られてきた。この選挙は1966年1月に始まった立憲政治発展の頂点であり、ジョンソン大統領はキ首相と国家主席チュー将軍にハワイで2月に合ったときにそのために個人的に尽力すると約束していた。
投票の目的はサイゴン政府に正当性を与えることにあった。サイゴン政府はゴ・ディン・ジェムが軍事臨時政府により追放された1963年11月にクーデターと権力闘争の中で設立されたものだった。
当時の軍事臨時政府のメンバーはほとんど残っていない。大多数はその後の権力の推移によって追放されるか亡命に追いやられた。
米国政府の見解によれば、有権者がこの2年間南ベトナムを支配してきた将軍たちを支持したという事実は、今回の選挙という立憲プロセスの重要性を減ずるものではない。
南ベトナムの政治に長い間欠けていた自信と正当性を新政府は活用できるのではないかという期待がかけられている。この期待は少ない投票者数により消える可能性もあった。立憲プロセスの展開に対する無関心やベトコンによる投票妨害によって。
米国関係者は80%の投票率を期待していた。9月の立憲議会の投票率が80%だったのである。この春には、地方選挙の投票に78%の有権者が参加した。
大統領選挙の結果が明らかになる前に、米国政府関係者は、1年前の選挙と比べて投票所が2時間から3時間短い間しか開いていないので投票率は80%以下になるかも知れないと述べていた。83%の投票率は歓迎すべき驚きだった。1964年の米国大統領選挙の投票率は62%だった。
押収された文書と尋問から得た情報によると、先週、ベトコンの指導者たちの間でこの選挙を無意味なものとするために努力をつぎ込むことが必要だと認められていたことがわかる。その試みは、サイゴンの報告から判断する限り、成功しなかったようだ。
これは面白いが、むろん、類似は部分的なものである。類似点としては:
- ベトナムの民族解放軍(NLF:南ベトナムに米国が据え付けた傀儡独裁政権に対して戦っていた解放軍)はこれらの選挙に参加することを許されなかった。同様に、イラクでもレジスタンスを代表するグループはない。南ベトナムのケースでは、自由な選挙ではNLFが大勝利を収める見通しが強かった(そして1954年のジュネーブ協定にしたがって1956年に選挙が行われていたら、解放勢力のベトミンが圧倒的な勝利を収めていた可能性が高かった)。一方、大多数のイラク人は占領に反対しているが、レジスタンスを代表する政党があったとして、それがどれだけの票を得ていたかは不明確である。
- グエン・ヴァン・チューとグエン・カオ・キという「選出」された二人はクーデターによって既に権力を掌握し、南ベトナムの米軍の支援を受けまたこれと協力して軍事独裁体制を敷いていた。アヤッド・アラウィは米国の属州総督たるポール・ブレマーに拾い上げられ選挙のときまで独裁者として据えられた。また、SCIRIやダワ、KDP、PUKを含む投票を得そうな主要政治家は全員が米国により統治評議会に拾い上げられた人々でそれ以来米国の占領軍に支援されまたそれと協力していた。
さて、米国メディアがこれほどまでに賞賛した南ベトナムの選挙は徹底的なイカサマだった。チューとキは投票操作で自分たちの望むような得票結果になるようにしていた。公式の数字は実際の投票をまったく反映していなかった。国はチュー&キ政権と米軍による残虐な対ゲリラ作戦のさなかにあった。実際の支持者を有している人は誰も立候補できなかった。想像しうる限り最大限のイカサマ選挙だった。
ベトナムのときよりは少しマシかも知れない点がある。投票が正確に集計されないだろうことをはっきり示すものはない。諸政党は、南ベトナムよりも多少-とはいえ多くではない-自由にキャンペーンを行えた。イラクの場合は、キャンペーンに自由がなかったのは米国やアラウィ政府によるもの以上にレジスタンスによるものだった(とはいえアラウィは自分の権力を使って自分が常に好意的に報道されるようメディアを操作していたが)。
一方、今回の選挙は、独裁者が支配している国で市議会議員を選ぶ程度の重要性しかない。新政府は米国の意向に反対することなど実質的に何も許されていない。米国が気にしない些細な領域でわずかな自治を得るだけである。
ベトナム戦争を忘れている方のために補足。1954年のジュネーブ協定では、ベトナムを南北の軍事地域(政治体・国ではありません)に分けた上で、1956年に統一総選挙を行うことになっていました。選挙が行われると圧倒的にベトミンが勝利するとの諜報報告を受けた米国は1955年から南ベトナムでゴ・ディン・ジェム軍の訓練を開始。北ベトナム側の呼びかけを拒否し56年に軍事体制下でイカサマの「制憲議会選挙」を南だけで強行します(アイゼンハワー大統領は54年に選挙を行えば8割の人がホーチミンに投票するだろうと述べていたと記憶しています)。
その後北側による再度の全国選挙提案が拒絶され、北側が南の人々の武装抵抗支持を表明し、60年には南ベトナム民族解放戦線が結成され、米軍のアドバイスを受けた南ベトナム「政府」により「戦略村」(集中キャンプ)に人々が押し込められ、米国が軍事顧問としてではなく直接戦闘に参加しはじめ(1962年には米軍の「顧問」は4000人以上になっており、直接の戦闘行為に参加していました)、米軍とその傀儡による占領・軍事独裁体制が南で成立していました。この野蛮さに抵抗して仏教徒が抗議行動を起こし、クアン・ドク師が抗議の焼身自殺を遂げたことは当時大きく報じられたそうです(私はずっと後にそれを聞いたのですが)。
今でも、ベトナム戦争をめぐる安価に手に入る手頃な本は、本多勝一『戦場の村』(朝日文庫)だと思います。そういえば、日本の佐藤首相が、日米共同声明で、米軍によるベトナムでの大量殺害作戦に支持を表明していたはずです。
投稿者:益岡
2005-02-01 22:43:41
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