.comment-link {margin-left:.6em;}

teanotwar - mirror/archive (Japanese fonts required)

Official mirror site of our blog, for those who can't access it, http://teanotwar.blogtribe.org, due to the technical problems, firewall setups, etc. http://teanotwar.blogtribe.org/のミラーリングを目的としています。記事部分に何も表示されていない場合は下までスクロールしてください。個別記事へのリンクは,記事の投稿時間のところをクリックすれば表示されます。

2005/04/20

「この街は、絶望の記録者を求めている」――映画『露出不足(Underexposure)』

4月24日まで東京・赤坂で開催中の「アラブ映画祭2005」で、『忘却のバグダッド』(→記事)に続き、『露出不足(Underexposure)』を見てきました(4月19日)。

非常に密な映画でした。シンボリックな映画なので、人それぞれで解釈が異なるだろうと思いますが、私は「距離の把握」についてを目の前で見せられたような気がしています。

劇映画ですが、ドラマは静かに進行します。ドラマをドラマとして(ドラマチックに)描くことを主題とする映画とは文法が異なっています。かといって、いわゆる「アート系の難解さ」は微塵もありません。

これにどう向き合うべきかはわからないのですが、1000円の入場料で大きな何かを示してもらったような感覚を覚えています。それは自分の中で形を成していませんが、日常的に読んでいるニュース記事や告発の文章などとは別な光が、という感じです。

以下、上映中に手元の手帳に書き付けていたメモを基に、ストーリーを書いておきます。

今回の「アラブ映画祭2005」での上映は昨日(19日)が最後でしたので、ネタバレもネタバレ、おおいにネタバレで書きます。もとより完全なメモではないので、ちょっと間違ってるところもあるかもしれません。また、多少小うるさい箇所があると思います。

その前にまず、映画祭の公式サイトから、この映画についての説明を引用しておきます。
『露出不足』
2005年/74分/カラー/イラク=独/35ミリ
監督:ウダイ・ラシード
イラク戦争後のバグダッドで撮影された、初の長編劇映画。フセイン政権崩壊後の混沌とした社会状況を背景に、癌に蝕まれながらも映画に情熱を傾ける男性や、初めて友情を知るホームレス男性の姿などを通し、戦後イラクの新たなリアリティを探る意欲作。題名は、数十年の間、世界から隔絶されてきたイラクの人々のことをさす。


----------------------------
2003年3月、ある若い映画監督が、仲間2人とともに、引き出しの中に入っていた20年前の有効期限の切れたフィルムを入れた古いカメラを持って、街に出ます。映画の脚本(スクリプト)は、彼の頭の中に茫漠と浮かんではいるかもしれないけれども、書かれてはいないようです。彼らはカメラを携えてそこにあるものを映してゆきます。それはおそらく「記録のため」であって、「表現のため」ではないでしょう。(そしてその「記録のための記録」を「表現」する、この映画の監督が存在しているわけです。重層。)

この映画は、その映画監督を主役とした、劇映画です。

映画のオープニング・シークエンスでは、カメラに向かってひげの男が語っています。「まったくどうかしてると思ったよ、映画を作るだなんて……」「いちいち露出を計っていた」。このひげの男は、映画制作チームのひとりであることがすぐに明示されます。

冒頭、映画の主役(映画監督)が、バグダードの街角に座りこみ、そこに独白が重なります。

「またひとつ、戦争が終わる」
「何を書こう? どんな思想を、どんな文体で?」

カメラはオレンジ色の夕日に照らされたバグダードの街角を、逆光でとらえています。その画面の陰影が舞台装置のようで、極めて「演劇的」に思われました。

冒頭の「映画監督の独白」のシーンには、葬列の映像も重なります。細い路地を、男たちが弔いの歌のようなものを歌いながら、3つの棺を担いで進んでゆきます。

この葬列が現実であったのかどうかもわからない、と映画監督は独白します。

次のシークエンス。建物の崩れた瓦礫の上に、ひとりの坊主頭の男が崩れ落ちます。左のわき腹を押さえ、うめき声を上げています。男は上着を脱いで白い半そでTシャツだけになり、そのまま脚を前に投げ出したかたちで座ってどす黒く血のにじんだわき腹を押さえ、ぐったりと動かなくなります。(光と影で斜めに2分割された画面が、ここでもまた、舞台装置のようです。)

そこに、髪の毛がぼうぼうに伸びてガリガリに痩せた男がやってきます。彼は道に落ちているビニールを拾い集めながらそこまで歩いてきたのですが、怪我をした男を見つけ、「おい、兵隊さん、大丈夫か」と声をかけます。返事をしないその兵士を、痩せた男はかつぎ上げ、路地を進んでゆきます。(この痩せた男が、「ホームレス男性」です。)

痩せた男が川べりの「家」(掘っ立て小屋)にたどり着くと、黒いアバヤを着た母親が「どうしてそんなのを連れてくるのさ」と怒ります。痩せた男は「軍服を脱いでいたんだ。ほっておけないじゃないか」と抗議します。母親は「その兵隊の軍服は黒だったか茶色だったか」と尋ねます。痩せた男が「茶色だよ」と答えると、母親は「それは味方だ、手当てしてやらなければ」と言い、家に運び入れます。

彼らの家のところには、白髪頭の男性がいて、じっとラジオを耳にくっつけています。「博物館が大変なことになっている」。

映像が切り替わり、バグダードの街角に映画監督の独白が重なります。

「街は、絶望の記録者を、求めている」

「これは何だ? 誰が誰を壊している?」

映画制作チームの3人は、燃える車が数台ある中を、撮影しながら進んでゆきます。ミサイルが落ちてきた場所のようです。煤けた白い車体にオレンジ色の炎と、黒い煙。息子の死体を掘り出している父親と、死んだ息子の兄弟らしき人がいます。彼らはカメラに向かって「撮るな」と怒鳴ります。監督は諦めたように、カメラのレンズに手をかぶせて撮影を止めます。

映画制作チームが撮影を始めることにした経緯がここで語られます。監督の部屋の棚の引き出しに鍵をかけてしまってあった古いフィルムを、彼らは確認します。「20年前のものだ」「有効期限が切れている」「露出不足になる」……。

監督はひっきりなしに煙草に火をつけています。その煙草は、ダンヒルです。部屋の壁には、アンディ・ウォーホールの自画像が掛かっています。

監督のその部屋は、賑やかな通りに面しています。英国の街によくある「サークル(Circle)」というか、ラウンドアバウトのような通りです。多くの車が始終走っています。

これらが、露出アンダーの暗い映像で、オレンジというか砂色というか、そういう色の諧調を基本に、スクリーンに映し出されます。

監督と一緒に写真におさまっている若い女が、ベッドでひとり横たわっています。女と監督との会話で、ふたりが結婚していることが明示されます。女は監督を「どうして家にいてくれないの、私は家を出ることもできないのに、私のことはどうでもいいの」となじります。そして監督に言います。

「あなたに何ができるというの」

この映画は、「ここは“何”なのか」「これは“何”なのか」を自身に問いかけている映画です。そして、「ここ」と「自分」の距離がわからなくなってしまった人の映画です。

主な登場人物は、74分という尺の割には、多いです。映画監督、その仲間2人、そして新聞売りの青年(ここまでが監督の部屋に集まる男たち)、監督の妻(監督の自宅)、負傷した兵士を助けた痩せた男(「ホームレス」)、その母親、ラジオに耳をくっつけている老人、病気のために痩せ衰えて自力で歩けない男(「癌に蝕まれながらも映画に情熱を傾ける男性」……「癌」であることは明示されません)。

さらに、監督のカメラに向かって語る証人たちがいます――彼らの「証言」は、映画の途中まで、「証言者1」「証言者2」というように示されてゆきます。病気の男もカメラに向かって語ります。

病気の男の話には、西洋の音楽用語がたくさん出てきます。フォーカスの半分合ったその手は細長く繊細です。後で言葉で語られるのですが、この男はチェロ奏者でした。

ラジオに耳をくっつけている老人が――頭にぴったりとはりつく小さな帽子をかぶっているのですが、後の方で彼、「アブ・シャケル」は、クルド人であることが語られます――「ただの戦争なら前にもあった。だが今のは新しい内戦だ」と語ります。「誰もが新しい指導者を待ち望んでいる」。

「この国は、誰のためにある?」

老人の言葉のバックグラウンドに、イラクにおけるこれまでの数々の政変と、人々の行きかう市場の映像。

「国の美化には多くのものが必要だろう」

監督の独白。

「俺も逃げ出したい。だがどこへ?」
「どの友達も突然いなくなって、思い出になる」
「人々は過去を語る。それも近い過去のことを」

「バグダードは概念だ。街ではない」

車でいっぱいの通りの脇に、「LG」や「サムスン」の真新しい看板が林立しています。

監督が使っているカメラ(映画用ではなく普通の一眼レフ)は、ASAHI PENTAXです――1970年ごろのものでしょう。

監督が使っているマグカップは、「ネスカフェ」の宣伝用の写真が印刷されたものです。

兵士を助けた痩せた男は、自分の暮らす掘っ立て小屋の骨組みのあちこちに、拾い集めたビニールを結び付けています。(それを映した映像は明らかに露出オーバーでした。)薄暗い部屋の中、兵士は目を開けてはいるものの、顔には蝿が貼り付いています。

「バグダードは概念だ。街ではない」のまま、映画監督の作業は進みません。

ある夜、病気の男が、映画監督に「僕の足になって歩く気はある?」と尋ねます。映画監督は病気の男を背負って夜の細い路地を巡ります。緑色のボトルを2人で回し飲みしながら、大騒ぎをして。

道路は石で舗装されていて、中央が窪んでいます――20世紀初めの雨水の排水溝の作りです。おそらく英国の技術でしょう。

監督と病気の男が(おそらく酔っ払って)声をかけたフェンスの裏から、痩せた男が顔を出します。痩せた男は激怒してどなりちらし、部屋に戻ります。怪我をした兵士が横たわっています。痩せた男は兵士の口に水を含ませます。それから、まったく動かない兵士を痩せた男は背負って、川へ向かいます。

兵士がアマーラの出身であることは、少し前に、痩せた男と母親の会話に出てきていました。痩せた男は兵士を川に入れ、「アマーラは南だ、下流だよ」と語りかけます。死んだ兵士は、夜の川を、ゆっくりと流れてゆきます。

白昼、痩せた男は一心不乱にビニールを集めています。バグダードのどこかの路地、Y字路になったところで、左側に映画監督、右側に痩せた男。ふたりはそこでは交わることなく、別々の方向に進んでゆきます。

痩せた男は川にビニールを投げ入れます。カラフルなビニールが川面に浮かびます。その中へ、男も入ってゆきます。

痩せた男の死が、母親の嘆きで語られます。病気の男も、陽の当たるベランダの椅子に掛けて死んでいました。痩せた男の母親は、この病気の男の世話をしていたのですが、小さな台車のようなものに家財道具を乗せて、町を出てゆきます。黒いアバヤが砂埃の中をひらひらと揺れて遠ざかってゆきます。

監督の妻は、家に戻ってきていた監督と向かい合い、白い光の中で、「独身時代のあの部屋にいてばかり」の夫と会話をします。彼女は彼女の空虚を抱えています。夫は「あの部屋からはバグダードがよく見えるんだ」と言います。

再び出て行こうとする夫に、妻は「私だって外に出たい」と言います。何を馬鹿なことをと言う夫に、妻は「学校に戻りたい。子どもたちだって待っている」と言います。20代半ばに見えるこのメイスーンという女性は、学校の先生のようです。でも彼女は家から一歩も出られない。

監督の部屋から見下ろされるバグダードの町には、一般の車両にまじって、武装した米軍の車両が通っています。

銃を持った米兵もいる街路で遊んでいる子どもたちのひとりが着ているシャツは、胸のあたりに大きく「O2」というロゴの入った赤×白のサッカーシャツです――イングランドのアーセナルのレプリカ・ユニフォームです。

2003年12月、監督がアパートの階段に座り込んでいると、新聞売りの青年が上がってきます。彼の抱えている新聞には、米軍に拘束されたときのサダム・フセインの顔のアップ。「この大きな写真1枚と、あとは長たらしい記事だよ。みんな写真だけ見て、新聞を買わない」と新聞売りの青年は饒舌にしゃべりまくります。

「まるで別人だ。この目を見ろ、まるで善人の目、『私は何もしていない』という目じゃないか」

川。ラジオを聞いている老人が「日本の軍隊が来るそうだ」と言い、「メイド・イン・ジャパン」だ、と言って、楽しそうにへっへっへと笑います。

老人が耳に押し当てている携帯型ラジオは、SONY製品なのかもしれません。(はっきりとはわかりません。ただ相当古いものであることは映像からわかりましたが。)

映画を締めくくるのは、映画監督の独白です。破壊された建物と床一面に散らばった映画のフィルムの中、映画制作チームの3人の青年が立っています。

「これは映画ではない。夢や記憶の断片だ」

そして"Dedicated to Furat, the woman, Tigris, the river"という文字で、エンドロールが始まります。
------------------------------
「あっちだ、あっちだ」と口々に言う子どもたちのクローズアップ・ショット、破壊されたままの巨大な建造物の映像が、「ドラマ」の進行、つまり主要な登場人物たちの会話や行動とは別に、スクリーンに映し出されます。それはバグダードです。米軍が張り巡らせた有刺鉄線も、頭上を飛ぶヘリも、主要な登場人物が歩き、語り合い、撮影しているのと同じ、バグダードです。

攻撃、爆発、そういったものについての「5W1H」的説明は、映画の中にはありません。ミサイルが命中するようなシーンもありません。具体性をそぎ落とされた現象として、炎や煙、瓦礫が映し出されます。

それらは「背景」なのか? そうであるはずがなく。
------------------------------

映画の公式サイトで、シノプシス、キャスト・スタッフ一覧、スチール写真などが掲載されています。(英語。)
http://www.underexposurethemovie.com/index.html

■補足■
映画関連記事(どのような状況下で撮影されたかなどの情報を含む):
* http://www.filmfestivalrotterdam.com/en/film/30517.html
=2005年ロッテルダム国際映画祭(オランダ)。映画の概要。

* http://hnn.us/blogs/entries/10462.html
=2005年2月、Mark A. LeVine(USA)による投稿。映画についての評論&解説(主に「イラク映画」という文脈で)、ウダイ・ラシード監督についての記述など。

* http://www.laweekly.com/ink/04/08/film-ciezadlo.php
=2004年1月、LAウィークリー(USA)。オーソドックスな映画紹介記事。監督インタビューを含む。

* http://www.moviem.com/news.php?p=1163&more=1
=2003年11月。監督インタビューなどのまとめ的記述。映画完成前の構想(完成形は少し違ってきているように思える)、影響を受けた映画監督など。

* http://www.videoageinternational.com/2004/articles/Nov/iraqi.htm
=2004年11月。イラクの映画監督たちについての紹介の文章。コンテクストがわかります。お勧め記事。

※米メディアの記事では「タランティーノ」が言及されていることがとても多いのですが、私としては、ある点ではパゾリーニ(ちょっとだけ)、ある点ではニコラス・ローグ(ちょっとだけ)、という連想がありました。あとは、単純な連想であればファスビンダーとかいくつか。要は、リアリズムであるよりむしろ、ある程度のシンボリズムということなのですが。演劇的な空間ということも合わせて。

いけだ