Marla Ruzicka (1976 - 2005)
CPTのジャスティン・アレクサンダーさんのウェブログに詳報があるのですが、しばらくは信じられずにいました。
ジャスティンさんは"The Innocent Victim"と書いているのですが、彼女はただの統計(数字)にされてしまいつつある死者たちに名前や年齢や住所という「顔」をつけていく作業を、そしてその先の「金銭的補償」への筋道をつける作業を、ものすごいパワーで行なっていた人です。その実現のために、何をどう味方につけるかという点では、正直なところ、個人的には、すべてをそのまま肯定することはできませんでした――というか、そうするしかないのかという疑問を経て、そうするしかないのだという消極的な肯定をせざるを得なかったことが、私には、本当に間接的にではあるけれども、ある。(左のリンク先にはすべては書いていない。というか、書いてないことは書いてある分量の4倍くらいある。)参戦国の人間として、いかに当事者であるか(当事者であることをいかに“利用”するか)について、彼女は鮮やかに示してくれ、私はそれを、一抹の失望と落胆を以て受け止めたのです。
しかし、そんなことはともかく、よりによって彼女が、死んで/殺されていいはずがない。
間違いであってほしいと思いました――たとえそれが間違いであっても、人が死んでいることに変わりはないので、実は何の解決にもならないのですが、彼女だけは、という気持ちはどうにもならない。
19日付けでエレクロトニック・イラクに記事が出て、また英ガーディアンにオビチュアリが出ているのを見て、やっぱりこれは本当のことなのだということを、どこか不思議に淡々とした気持ちで、受け止めています。ですがまだ、消化できていません。
書きたいことはたくさんあります。ですが、言葉になりようもありません。とにかくは、ジャスティンさんの記述を。
犠牲になる理由などなかった犠牲者
The Innocent Victim
Sunday, April 17
http://www.justinalexander.net/2005/04/innocent-victim.htm
昨晩、ハムラ・ホテルへ行った。ここはバグダードで活動している外国のジャーナリストのほとんどが滞在しているホテルだ。マーラ・ルジカのパーティがあったので、それに出るためだった。マーラからの連絡では夜8時半ということだった。けれども、彼女の部屋にもホテル内のどこにも、彼女がいる気配はない。電話もつながらない。ホテルのプールサイドに座っているジャーナリストたちの姿を認めて、僕はあのうと声をかけた。「どなたか、マーラを知ってます?」ジャーナリストたちはこちらを向いて大笑いした。「当たり前でしょう。マーラのことは知ってますよ、誰もがね!」 けれども誰一人として彼女の姿を見た者はいなかった。
夜が更けるにつれ、遅れてごめんね~的な事態は、ひどく心配になる事態となっていった。マーラの姿が最後に目撃されたのは、昼日中、グリーンゾーンでのことだった。それから彼女は、大怪我をした子どもがいるイラク人の家庭に向かったという。深夜1時、恐ろしい知らせ。彼女が殺された。第一報は混乱したもので、僕は誰かれ構わず情報はないかと訊いてまわり、それから彼女の連絡先の電話番号やメールアドレスを探し始めた。米国の彼女の友人や同僚たちに知らせるために。ほとんどの人は就寝してしまっていて、僕はひとりでワシントン・ポストの部屋で作業をしていた。彼らは米国への電話をかけるために、部屋の電話を使わせてくれたのだ。コリンという人がマーラの部屋からPalmPilotを取ってきていて、家族に連絡を入れてあった。家族のところには既に、国務省から連絡が行っていた。4時半に僕はソファで仮眠を取りに行った。彼女の死についての詳細な状況もわからず、イラク人同僚のファイーズがどうなったかについてもわからなかった。
今朝9時、ヘイ・アル=アディル地区の近く、エアポート・ロードで、昨日午後4時に自動車爆弾があったことを知った。どうやらそれがマーラを殺したらしい。その攻撃の標的となった私営のセキュリティ会社の車列にいた人と話をして、その話が確実なものであることがわかった。その人は、マーラはメルセデスに乗っていたといったが、それはファイーズの車の特徴と一致していた。そしてその車は、爆発で完全に燃えてしまった。即死だったのがせめてもの恵みだ。友人のひとりがグリーンゾーンの病院を訪れ、僕が看護士長と話をする渡りをつけてくれた。病院にはひどく焼けた遺体が2体届いているというが、2体ともIDを身に着けていない。僕が確認をしようかと思ったが、遺体は既に、生検やDNA検査をするためにどこかに移送された後だった。ほかの誰かが遺体の身元を確認し、今から数時間前に米国大使館がプレスリリースを出して、この情報をコンファームした。
僕がマーラとメールのやり取りを始めたのは2003年6月だった。彼女が先陣を切ってやり始めた仕事、戦争の民間人犠牲者を特定し、家族に安全なサポートをすることについて、知ったときのことだった。2003年、僕は彼女とバグダードで会った。彼女のエネルギー、暖かい心、彼女のカリスマは、彼女から漂っていた。
このパワフルな27歳のカリフォルニア人は、2002年にアフガニスタンで仕事をしていたときに、Campaign for Innocent Victims in Conflict (CIVIC) を立ち上げた。イラクに入ったのはバグダード陥落直後のことだった。そしてすぐに、僕の友人のRaedとともに、民間人犠牲者調査を組織立てて開始した。特定の犠牲者についてそれぞれの特定のデータを集めようとした試みとしては、この調査ほどに詳細なものは今のところほかにはない。そして、例えば1月のシカゴのように、抗議集会で死者のリストを読み上げるたびに、僕はこのデータを使ってきた。
けれどもこれはデータ収集のためのデータ収集ではなかった。マーラにはひとつの信念があった。紛争に関係がないのに紛争の犠牲となった人やその家族は、何らかの賠償を受けるべきだ、というものだ。2003年の侵略で米国やその同盟国がしたように、「道義にかなった(moral)」理由で「正義の(just)」戦争を戦っているのだと主張する国はどの国であれ、当然のこととして、巻き込まれた人のことをケアすべきである、ということだ。しかし現実にはこうではなく、マーラは被害者に対する最も基本的な援助でさえ確実に行なうために、大変に苦闘した。米国は犠牲者の数を数えていないし、ホワイトハウスの法律家たちは、犠牲者への補償について当局者に一切語ることを許さない。そうなれば法廷沙汰になるリスクがあるから。レーヒー(Leahy)上院議員の助けを得て、マーラは議会を説得し、184億ドルという予算のうちのごくごく小さな一部を、米企業ではなく犠牲者を援助するための予算枠として取り付けることに成功した。さらに、マーラは米軍からのsalacia(血のお金)の支払いを確実にするため、家族たちを助けた。といってもこれの上限はわずか2500ドルだが。彼女はまた、重傷を負った子どもたちが外国で治療を受けられるように助ける活動にも関わった。ほかにも僕の知らないプロジェクトにたくさん関わっていることは間違いない。
米国にいるマーラの同僚が、次のようなメールを回している。「マーラが好きだったエルネスト・チェ・ゲバラの言葉に、『真の革命家は大きな愛の感覚によって導かれる(The true revolutionary is guided by a great feeling of love.)』というものがあります。マーラの愛は、この星を覆うほどに大きなものでした。」 マーラは聖人ではなく普通の人間だ。けれども彼女は、この大きな愛の感覚によって突き動かされていた。それは彼女を導いて、この星を覆わせようとしていた――この星のすべての戦闘地域を――それもほとんどたったひとりで! 数ヶ月前、彼女はネパールを訪問していた。CIVICの活動を、この戦乱に引き裂かれた国にも広げたいとの展望を持っていた。彼女の行動力から恩恵を受けられたかもしれない地域は他にもたくさんあって、彼女は活動を広げようとしていた。マーラのやってきたことを続けていくこと、それが絶対重要だ。
短期的には、彼女の友人たちとともに、僕はここで彼女が助けていた人たちを見つけ出し、その人たちがそのままにされないようにする。長期的には、マーラの生涯が多くの人々のインスピレーションとなり、CIVICの活動が続いていくことを祈る。マーラの悲劇的な死によって僕たちはショック状態にあるけれども、自分を危険にさらすことを選んだのは彼女自身だったということを、彼女自身が僕たちに思い出させてくれるはずだ。そして彼女はこう言うだろう――もっと悲劇的なことが起きている、イラクや他の多くの国々の、数千の単位の一般市民の犠牲者には、とりわけ子どもたちには、紛争地帯に居ることについて何ら選択肢のなかった子どもたちには、と。僕たちはマーラを忘れてはならない。そして、マーラが助けてきた人々のことを忘れてはならない。
(6:45 PM)
いけだ
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