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2005/03/14

「イラク人の身にいつも起こっていることだ」(CPT)

CPTのSheila Provencherさんによる,3月7日から9日の日記のような記事。エレクトロニック・イラク,3月11日掲載。

プロヴェンチャーさんは,「メタリカ」(米軍が大音量でかけているというやかましい音楽の筆頭格として昨年のいくつかの記事に名が挙げられていた)のTシャツを着たイラク人通訳と話をし,「国際女性の日」にバグダードで行なわれたデモを取材し,「女性の意思」のハナさんと話をし,国連の人権代表およびイラク人人道支援組織の人と話をしています。


「イラク人の身にいつも起こっていることだ」
シェイラ・プロヴェンチャー
Electronic Iraq 原文
2005年3月11日

2005年3月7日

23歳のメタリカTシャツを着た新しい通訳は一緒にいて楽しい人だ。私は、あなたは私よりアメリカ人っぽいと彼をからかうことがある。というのも、彼はポップカルチャーについてとても沢山知っているから。けれども彼はポップカルチャーの装いの下に深刻な側面を持っている:一年前、彼はイラク南部のブッカ牢獄キャンプに11カ月入れられていた。それ以来今に至るまで、自分が何の罪で告発されていたのか彼は知らない。

彼は私に自分の経験を話してくれた:「時によっては、兵士たちと友達になった。彼らは守衛というよりは友人に近かった。『わかるだろう。我々もまた牢獄にいるようなものだ』と彼らは言うものだった。彼らも底にいたくなかったんだ。我々のテントに来てトランプをしたりした」。

「牢獄から出たとき、道に迷ったように感じ落ち込んだ。ブッカ・キャンプでは、少なくともやることがあった----私のキャンプには500人の被拘留者がいて、翻訳しなくてはならなかった。自分が牢獄にいることを忘れられた。釈放されたとき、目的は何もなかった。混乱していた。コンピュータを使おうとしたとき、使い方を忘れたみたいだった。ある日私は市場にいて、食べ物を買うためにタバコで支払おうとポケットに手を入れた。牢獄ではタバコを現金として使ってたんだ。適応するのは難しかった。そこで、私は「女性の意志」で働き始めた。母が働いている人権団体だ。今私は過去を振り返って、これらすべてがある理由で起きたことがわかった」。

2005年3月8日:国際女性の日

我々クリスチャン平和構築チーム(CPT)の4人はバグダードのフィルドス広場でのデモに参加した。イラク女性自由協会と一緒にだった。驚嘆した。頭にスカーフをまとってバナーを掲げた少女たち、黒いアバヤとヒジャブで身を覆った年輩の女性たち、ジーンズとTシャツを着た和解女性たち。彼女たちは男女同権、宗教と法の区別、そしてアメリカ合州国による占領の集結を求めて声を挙げた。やはり占領の集結を望む4人のアメリカ人が参加したことを喜んでいたようだった。暴力でではなく声で抵抗するのは美しいことだった。

デモ行進をしていた道沿いの鉄線から数ヤードしか離れていないところに、コンクリートの割れ目から小さな黄色い花が顔を出しているのが見えた。

それからクリフと私はハナが創設した組織「女性の意志」を訪れた。ハナは目に陽気さと決意とを讃えたダイナミックな女性である。私たちは、イラクにある米軍の牢獄に裁判なしに投獄されているイラク人女性たちについて話をした。彼女たちの状況に注目を集める行動を思いついたとき、ハナはすぐにその行動に飛びついた。「そう、私たちはそれをしなくては」と彼女は言った。「行進するのがたった5人でも、一歩を踏み出せば、他の人たちも後に続く。私はそう信じている」。

2005年3月9日

イラクの生活はローラーコースターに似ている。朝6時半、ベッドと窓が揺れたため目が覚めた。自動車爆弾が一マイルほど先で爆発したのだ。いつも通り何が起きたか見に屋上に上った。黒煙が次から次へとあがっていることから、給油所ではないかと思った。周囲は2週間ほど静かだったが、今日は一日中鈍い「ブーン」が続いた。

爆弾を、テロリストたちがすることとだけ見るのは簡単だが、ここイラクで爆発を体に感ずるとき、私はいつも2003年3月の「衝撃と畏怖」作戦の下ではどんな状況だったのだろうと考えざるを得ない。私が訊ねたイラク人は誰もが、米国の爆撃に比べられるものなど一つもないと語った。今朝、通訳の一人が私に言った:「あなたには想像できないだろう。地獄を旅するようなものだ」。

今日、それから、私は、国連の人権代表、そしてバグダード西部の村出身のイラク人同僚の一人との打合せに参加していた。イラク人の友人は、レジスタンスと米軍駐留の間の細い綱をわたっていた:彼の人道団体はプロジェクトのためにCPAから資金を受けているため、レジスタンスからは占領協力者と見られている。昨年夏に私もあったことのある親切な彼の親友は数週間前、レジスタンスに射殺されていた。けれども私のイラク人同僚にとって、米軍の占領も全く同じように危険なものである。昨年秋、米軍は、彼が村の統治評議会のメンバーだというだけで、レジスタンスではないかとの疑いをかけ、彼を不正に6週間拘留した。彼の車は軍の車列が引き起こした事故に巻き込まれ、発砲を受け、それから戦車に粉砕された。米軍は彼への賠償支払いを拒否した。

彼は国連職員に自分の村で起きていることを伝えた:「午後10時から朝5時まで外出禁止令が布かれる」。

「外出禁止令に違反したらどうなるのか?」と国連使節が訊いた。

友人は憂鬱そうな表情になった。「そのために多くの事故が起きている。兵士たちは誤って家族全員を撃ったりしている----誰かが病院に行かなくてはならなかったり、病気だったりして外出禁止令を破ったとき。多くの誤写がある」。

友人の話を聞いていた私は、米軍兵士に撃たれたイタリア人ジャーナリストとそその護衛の話を読んだときの私の反応を思い起こしていた。最初のショックが去ったあと心に浮かんだ最初のことは:「イラク人の身にいつも起こっていることだ」というものだった。一年前、米軍検問所で誤って撃たれた銃弾だらけのイラク人男性の遺体の写真を私は持っている。

今日の夜、私は電話であるイラク人女性と話をした。彼女の妹は空港の重警備監獄に投獄された。この女性と妹は、昨年7カ月以上投獄されていた。その間、やはり投獄されていた弟の遺体が彼女たちの膝元に投げ込まれた。彼女たちは7月、当局が彼女たちはレジスタンスに関与していないと判断して、ようやく釈放された。2週間前、米軍とイラク軍の兵士たちが彼女の妹の家を再び侵入捜査し、妹を連れ去った。彼女の声は疲れていて悲しげだった。「できればあとで」と彼女は言った。

眠りに就く前、バグダード西部の村に住む友人の言葉を思い出した:「この間ずっと我々と一緒にいるあなたはとても勇敢だ。家族のように思っている」。

勇敢なのは彼のほうだということに彼はほとんど気付いていない。


ファイル作成者:益岡さん
投稿代行(表題&前置き作成含):いけだ
2005-03-14 16:30:55