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2005/03/14

アモリヤーの難民キャンプ(CPT,3月6日)

クリスチャン・ピースメイカーズ・チームのシーラ・プロヴェンチャーさん(米国人女性)が,ファルージャ西方のアモリヤー村にある難民キャンプを訪問したときのレポート。エレクトロニック・イラク,3月6日掲載記事。


「お願いです,あなたの国の軍人のご家族に伝えてください・・・」
"Please, Tell Your Military Families..."
Sheila Provencher, Electronic Iraq, 6 March 2005
http://electroniciraq.net/news/1899.shtml
イラクに身を置くことは,イラクについて読むことやテレビで見ることとは大きく違っている。私は出発する前の週にアンマンで恐ろしく,不安に感じていた。当然のことながら,友人は全員,私がバグダードに戻ることについてやめておいた方がいいんじゃないのかと言った。あまりに危険だ,道で拉致される,外国人はイラク人の命を危険にさらすことにもなりかねない。

しかしイラクでは――1地区離れたところで「ばーんという爆音」や銃声をときおり聞くにしても――この場所は基本的には「家」だ。何百万という人々の家なのだ。私のいる地区では,前と同じ子どもたちが通りを走ってきて私の手を握る。商店をやっている友人たちが私のアラビア語を見てくれては,いいねと親指を上げてくれる。私のホストファミリーは,一度脅されたが,また私にステイしなさいと言う。人権活動をしているイラク人の同僚たちは,CPTがまだここにいることを喜んでくれている。彼らはたとえ危険があっても私たちに留まっていてほしいという。

先週,その理由のひとつがわかった。恐ろしいことが起きていて,あまりに多くの人が話を語る人は誰もいないのだと感じている。先週,私はファルージャ周辺部を見,避難民たちと話をし,数え切れないほどの民間人の死について直接の証言をいくつか聞いた。こういった話は読んだり聞いたりしがたいものである。

また,PTSDについてもさらに読んだ。イラクで他の人間を殺したり,友人が殺されるのを見たりした後では,通常の生活に適応することができない帰還兵についても。

下記の回想記はいつものものより長くて申し訳ないのですが,何があったかを伝える術がほかにないので。

平和と神のみ恵みを
シーラ・プロヴェンチャー

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ファルージャ地区は,まるで崩れ落ちた砂の城か放棄された廃墟のようだ。CPTの同僚のアランと私,それにイラク人の人権活動家1人と薬剤師1人,そして運転手とが,ハイウェイを通りながら目を凝らす。(2005年2月24日のことである。私たちはアモリヤー(Amoriyah)の難民キャンプに向かっていた。ファルージャとラマディの中間の村だ。)【訳注:バグダードの西にファルージャがあり,さらにその西にラマディがある。そのため,ラマディ方面に向かうには,ファルージャを通ることになる。】

ファルージャの外周部は,道路からわずか150メートルのところにある。少なくとも3軒に1軒の家屋は破壊されている。天井は崩落,壁はなくなっているか砕けている。家屋は無人で,通りも空っぽである。1マイル続く車の列がハイウェイからファルージャ市へ入るメインの道路に伸びている。おびただしい数の検問所を通り,大変に時間を食うのでほとんどの男性たちは車の外に出て,喋ったり,目を細めて太陽を見たりしながら,待っている。

ラマディに向かうハイウェイは閉鎖されていて,アモリヤーへは裏道を行かなければならない。私たちを迎えてくれているイラク人は女性の人権活動家で非常にタフな女性だが,彼女は米軍はラマディを数ヶ月前のファルージャ同様に包囲し攻撃していると言う。そしてその攻撃はレジスタンスを「破る」ためのものだと。

恐怖を感じて当然のところだ。でもどういうわけか恐怖感はなかった。奇妙な平穏だ,花開き始めたばかりのイラクの農地を抜ける裏道を行くのは。アンズの木々や白いリンゴの花,ナツメヤシの木々や大麦やアルファルファの畑を通り過ぎる。牛が草を食んでいる。女性や子どもや男性が,畑で作業をしている。若い男性がひとり,6フィートの苗木を持って道路を歩いている。結婚の花飾りをつけた車が反対車線を通っていく。

アモリヤーに到着した。近隣の工業団地の社員のためにつくられた,画一的な白い6階建ての集合住宅群から成るコミュニティ。こんにち,アモリヤーには,米軍のファルージャ攻撃を逃れてきた600以上の家族が暮らしている。

小学校へ行く――そこは今は難民キャンプとなっている。間に合わせのテントが5張,中くらいの大きさの部屋を1部屋埋めている。1張に1家族。この部屋の天井はタイルが剥がれ落ちかけている。窓は紙でふさいである。床には水溜りができている。樽の形をしたガスの調理コンロが部屋の真ん中に鎮座している。自分の年齢を覚えていない年輩の女性が私たちを歓迎し,彼女の親族全体が――息子たちとその妻とその子どもたち――ここに暮らしているのだと言う。小さなリアアド・アド・ディーンに会う。このキャンプで生まれた生後2ヶ月の赤ちゃんだ。

ザネブは13歳の女の子で,にこにこしているけれど同時に深刻そうだ。彼女は外国人の注意を引こうと大騒ぎする年少の子どもたちの世話をしている。それから父親・おじたちが話をするために入ってくる。苦しみについて語られることがたっぷりとある早口のアラビア語についてゆけない。イラク人の友人が通訳してくれる。ほとんどの人々は爆撃で家を失った。家族の誰かや隣人を失った者もいる。みな怒っている。

しばらくして,私たちは別の部屋に移動する。40家族が共有しているバスルームか廊下を行ったところの部屋だ。若い男性が前に進み出る。「退去期限がわからなかったんですよ」と彼は言う。「僕は偶然爆撃が始まった日に町を出たんですが,そしたら戻れなくなってしまった。弟は,精神的にハンディキャップがあるんですが,取り残されました。攻撃の後で戻ったときには,弟は行方知れずでした。死亡者リストも見ましたし,刑務所にも問い合わせたのですが,答えはなかったです。アメリカ人は僕にイラク国家警備隊に問い合わせるようにと言ったので,国家警備隊に問い合わせたんですが,これも答えなしでした。」

「お願いです」と彼は言う。「この悲劇を世界中に伝えてください。瓦礫の下い全員が埋まっている家族もあるんです。」

子どもたちが押し合いへし合いして寄ってくる。「ジョージ・ブッシュのこと,好きですか?」とある幼い少女が尋ねる。「あなたは?」と私が応じる。「いいえ,私は彼のことが好きではありません」と彼女は言う。

教室が着る物やら皿やら毛布やら人々やらで一杯になってしまって,子どもたちの通学はできるのだろうか? 答え:子どもたちは裏庭で勉強している。灰緑色のテントが砂利を敷いた運動場をいっぱいにしていて,机や黒板がテントをいっぱいにしている。子どもたちはじりじりと上がる暑さの中に座り,教師が授業を進めるのに集中しようとしている。門の側にかかっている100パーセント英語の看板は,このテント学校は「ヒューマン・アピール・インターナショナルとイラク政府の教育省の合同プロジェクト」であると宣言している。アランが校長補佐に,どうして看板がアラビア語でなく英語なのかと尋ねる。「見せるためだけのものですから」と彼女は言う。「彼らはメディアに,彼らがイラクのために何かをしていると考えてもらいたがっているのです。」アランは彼女に,イラク政府のことを満足のいくものと考えているかどうかを尋ねた。彼女はとても大きな声で「ノー!」と言って答えた。

クラスが変わり,子どもたちがわらわらと寄ってきた。私は自分にできる簡単なアラビア語で,子どもたちにアメリカの人たちに言いたいことはないですか,と訊いた。

「いつかファルージャの自分の家に帰る」と,少なくとも5人の子どもが言う。

そのとき誰かが運転手にメモを渡した。すぐに立ち去らなければならないと書かれていた。イラク人の活動家の友人が,簡単には動揺したりしない女性なのに,おびえていることを感じた。どうやら「アメリカ大使館から来たアメリカ人」(アランと私のことだが,アランはカナダ人だ)が学校にいるという噂が広まってしまったようだ。私たちのホストもトラブルが起きるのではないかと心配している。難民キャンプの男性2人が,自身の安全を危険にさらして,予備の車で私たちをハイウェイまで送ってくれた。そして,私たち自身の車に乗り込むときに,バグダードへの帰路が無事でありますようにと祈ってくれた。

. . . . . . . . . .

彼らが私たちをそこから送り出したあのすばやさを,私は決して忘れないだろう。しっかりと築かれた信頼関係なしには,私たちがいることが地域に安定よりむしろ危険を引き寄せるのだと気づいたときに,アランと私が感じた無力感も,決して忘れないだろう。アメリカ人はダメージを与えるのだから,すべてのアメリカ人は容疑者である。

ファルージャに分相応の武器庫やレジスタンス戦士がいたということは私は疑っていない。多くの兵士たちの個人としての善意も私は疑っていない。兵士たちの中には,ファルージャ市民が包囲戦を切り抜けられる一助にと糧食を差し出した者もいるとイラク赤新月のリーダーから私は聞いた。しかし私は,イラクの男性・女性・子どもたち――米軍の圧倒的な攻撃でその生活が取り返しのつかないほど傷つけられた(あるいは終わらされた)人々の証言も疑っていない。暴力的レジスタンスの現実は,あのような圧倒的な暴力的反応の理由となることはできない。さらに,軍事的反応はうまく作用しない――憎悪を強固なものとし,決意を深めさせるだけである。

女性たちや子どもたちが通りで死んでいるのを見たある若いファルージャ住民が私にこう言った。「お願いです,米軍の家族のみなさんに,彼らの子どもたちがどんなことをやれと命令されているかを伝えてください。」

私は心配だ。アモリヤー難民キャンプの子どもたちのことが。今このときにも包囲されているかもしれないラマディの人々のことが。そして,私たちが暴力をもっともらしい手段として支持し続けたらアメリカの子どもたちに何が起きるのかが。


クリスチャン・ピースメイカーズ・チームについては,ウェブサイトをご参照ください。


投稿者:いけだ
2005-03-07 06:10:02