.comment-link {margin-left:.6em;}

teanotwar - mirror/archive (Japanese fonts required)

Official mirror site of our blog, for those who can't access it, http://teanotwar.blogtribe.org, due to the technical problems, firewall setups, etc. http://teanotwar.blogtribe.org/のミラーリングを目的としています。記事部分に何も表示されていない場合は下までスクロールしてください。個別記事へのリンクは,記事の投稿時間のところをクリックすれば表示されます。

2005/03/04

ファルージャ:明るみに出る真実

英国「ソーシャリスト・ワーカ」紙が掲載した、2005年1月、ファルージャに援助物資を届けたサラーム・イスマエル医師の証言です。写真が8葉ありますが、文章だけの掲載。

ファルージャ:明るみに出る真実
ソーシャリスト・ワーカ
2005年2月19日第1939号・80ペンス

最初に私を襲ったのはその臭いだった。何とも表現しがたい臭い、そして決して私の記憶から消え去らない臭い。死の臭いだった。

ファルージャでは、何百もの死体が崩れさろうとしているところだった。家の中で、庭で、そして路上で。遺体は、倒れたところで腐りつつあった。男性の、女性の、子どもの遺体。その多くが、犬に半分食べられていた。

憎悪の大きな波が襲ったとき、町の3分の2が一掃され、家々とモスク、学校と診療所が破壊された。米軍の攻撃が持つ残虐で恐ろしい力によるものだった。

その後の数日に私が耳にした証言を、私は一生涯忘れられないだろう。皆さんは、ファルージャで何が起きたか知っているとお考えかも知れない。けれども、真実は、皆さんが想像していただろうよりもひどいものだった。

ファルージャを取り囲む即席難民キャンプの一つサクラウィヤで、私たちは17歳の女性に出会った。「私はフッダ・ファウジ・サラーム・イッサウィです。ファルージャのジョラン地区に住んでいました」と彼女は私に語った。「55歳の隣人を含む私たち5人が、ファルージャ包囲が始まったとき、家から出られなくなりました」。

「2004年11月9日、米軍海兵隊が私たちの家にやってきました。父と隣人が海兵隊兵士たちのいる玄関に行きました。私たちは戦闘員ではありませんでしたので、何も恐れることはないと思っていました。私は台所に駆け込んでベールをかぶりました。海兵隊員たちが家に入って来たとき、覆われていない私の髪を見られるのは良くないことだったからです」。

「そのおかげで私は助かりました。父と隣人が玄関に近づいたとき、米兵は彼らに向かって発砲しました。即死でした」。

「私は13歳の弟と一緒に台所の冷蔵庫の陰に隠れました。兵士たちが入ってきて姉をつかまえました。兵士たちは姉を殴り、それから撃ちました。彼らは私を見つけませんでした。すぐに彼らは立ち去りましたが、立ち去る前に家具を破壊し父のポケットから金を盗んでいきました」。

フッダは私に、姉が息を引き取るとき、フッダはコーランの一節を読み上げて慰めたと述べた。フッダの姉が死んだのは4時間後のことだった。

3日間にわたり、フッダと弟は、殺された家族たちとともに家にいた。けれども喉が乾いたし、食べる物といえばデーツが少しあるだけだった。彼らは、兵士たちが戻ってきて町を解放しようとするのではないかと恐れた。けれども、フッダと弟は米軍狙撃手に見つかった。

フッダは足を撃たれた。弟は逃げたが、背中を撃たれて即死した。「私も死ぬ覚悟を決めました」と彼女は私に言った。「けれども米軍の女性兵士が私を見つけて、病院に連れていったのです」。それからしばらくして、彼女は生き残った家族のメンバーと再会できた。

私はジョラン地区の別の家族の生き残りとも出会った。彼らは私に、ファルージャ包囲攻撃が始まった第二週の末に米軍兵士たちはジョラン地区を一掃したと述べた。その際、イラク国家警備隊は拡声器で、住民に持ち物を全部持ち、白旗を掲げて家から出てくるよう呼びかけた。人々は町の中心にあるジャマー・アル=フルカン・モスク近くに集まるよう命じられたという。

11月12日、イヤド・ナジ・ラティフと家族の8人----その一人は6カ月の子どもだった----が持ち物をかき集め、言われたとおり一団となってモスクに歩いていった。

モスクの外にある大通りに着いたとき、叫び声が聞こえたが、何を叫んでいるのかわからなかった。イヤドは私に、英語の「ナウ」だったのではないかと説明した。それから、発砲が始まった。

米兵が周りの家の屋根に姿を現し、発砲した。イヤドの父は心臓を撃たれ、母は胸を撃たれた。

即死だった。イヤドの兄弟の二人も撃たれた。一人は胸を、もう一人は首を。女性の二人も撃たれた。一人は手を、もう一人は足を。

それから狙撃手はイヤドの兄弟の一人の妻を射殺した。彼女が倒れたとき、5歳の息子が彼女のもとに駆け寄り、遺体をかばうように立った。米軍狙撃手は、この子どもも射殺した。

生き残った人々は、懸命に狙撃手に発砲を止めさせようとした。

けれども、イヤドが私に語ったところでは、白旗を掲げようとした人は片っ端から撃たれたという。数時間後、彼自身が白旗を持って腕を上げた。米軍狙撃手たちは彼の腕を撃った。彼は手を挙げようとした。狙撃手は彼の手を撃った。

血にまみれて

6カ月の子どもを含む5人の生存者は7時間路上にかたまっていた。それから4人が近くの家に這って避難した。

翌朝、首を撃たれた兄弟の一人も家に避難することができた。全員そこに8日間留まった。植物の根と一杯の水だけで生き延びた。水は赤ん坊のためにとっておいた。

8日目に、イラク国家警備隊の隊員が彼らを見つけ出し、ファルージャの病院に連れていった。彼らは、米軍が若い男性はすべて拘束していると耳にしたので、病院から逃げだし、ついに近くの町で治療を受けることができた。

指示されたとおりモスクに行った他の家族の身に何が起きたかは詳しくはわからないという。けれども、路上は血まみれだったと彼らは私に語った。

私がファルージャを訪れたのは1月で、英国から集められた寄付による人道援助コンヴォイに参加したのである。

トラックとバンからなる私たちの小さなコンヴォイは、15トンの小麦と8トンの米、医薬品、孤児のための900着の服を運んでいた。ファルージャ郊外の4つのキャンプに何千人もの難民がひどい状況のもとで避難していると知っていた。

私たちはそこで、家の中で殺された家族についての証言、負傷者が路上に引きずり出されて戦車にひき殺された出来事、481人の民間人の遺体を詰めたコンテナ、計画的な殺人、略奪や残虐行為、信じがたい残虐行為についての証言を聞いた。

廃墟を通って

私たちがファルージャの中に入って調査しようとしたのはそのためだった。町に入ったとき、2004年4月の最初の包囲の際に私が医師として働いていた場所だとはわからなかった。

廃墟の中を亡霊のように歩く人々に出会った。親戚の遺体を探している人々もいた。破壊された家から持ち物を探し出そうとしている人もいた。

あちこちで、小さなグループが食料や燃料のために列を作っていた。ある列では、生き残った人々が毛布を取り合っていた。

一人の老女が目に涙を浮かべて私に近づいてきたときのことは今でも覚えている。彼女は私の腕をつかんで、米軍の空襲のときに爆弾が自分の家を爆撃したと私に言った。屋根が19歳の息子の上に崩れ落ちてきて、息子は両足を切断されたのだと。

助けを呼ぶことはできなかった。道に出ることはできなかった。というのも、米兵が家々の屋根に狙撃手を配置し、夜でもかまわず、外に出た人々を誰彼構わず射殺していたからである。

息子の足から流れる血を止めようと彼女は全力を尽くしたが、無駄だった。彼女はたった一人の息子の傍らに寄り添い、息子の死を見届けた。彼が息を引き取ったのは4時間後のことだった。

ファルージャの総合病院は、包囲攻撃の最初の段階で米軍に占領された。残された唯一の診療所----ヘイ・ナザル----は米軍のミサイルに二度襲われ、薬品も医療器具もすべてが破壊された。

救急車もなかった----けが人を助け出そうとやってきた救急車2台は米兵に狙撃され破壊されていた。

私たちはジョラン地区の家を訪問した。4月の包囲攻撃のときレジスタンスの中心だった、ファルージャ北西部の貧しい労働者階級の地区である。

第二の包囲攻撃のとき懲罰としてこの地域は最も集中的に攻撃されたようだった。私たちは一軒一軒家を見て回った。ベッドの中で家族が死んでいた。居間や台所で人々が斬り殺されていた。どの家も、家具が打ち壊され、物がちらばっていた。

戦士の遺体を見つけることもあった。黒い服を着て弾丸ベルトを身に巻いていた。

けれどもほとんどの家の遺体は民間人のものだった。多くの遺体が部屋着を身にまとい、女性の多くはベールをしていなかった----家族以外の男性が家の中にはいなかったことを意味する。武器も、空の薬莢もなかった。

虐殺後の現場を目撃していることはあきらかだった。身を守るすべを持たない助けもない民間人に対する冷酷な屠殺の現場を。

一体どれだけの人が殺されたのか知っている人はいない。占領軍は、犯罪を隠蔽するためにこの地区をブルドーザで平らにしている。ファルージャで行われたのは野蛮行為である。この世界に住むすべての人々が、真実を伝えられる必要がある。


ファルージャの目撃者:サラーム・イスマエル医師

サラーム・イスマエル医師(28歳)はイラク侵略前バグダードの若手医師団代表だった。2004年4月ファルージャにいて、米軍のファルージャ攻撃によるけが人の治療にあたった。2004年末、英国を訪問しファルージャへの援助車列への資金集めを行なった。

現在、英国政府はサラーム・イスマエル医師の証言を英国市民に聞かせ違っていない。先週(2月上旬)彼は労働組合や反戦集会で証言するために英国を訪問する予定だったが、入国を拒否された。入国拒否の理由は、彼は昨年英国に来たとき旅費の基本費用をまかなう金を受け取り、それが「不法就労」にあたるというものであった。

サラーム・イスマエルは真実を伝えたいだけである。けれども、ブッシュやブレアが大声で叫ぶイラクの自由は、イラク市民の自由な旅行さえ許さないようなものであるらしい。

「ストップ・ウォー連合」の支援のもとで、今週、サラーム・イスマエル医師の英国訪問を可能にするよう、法的申し立てが提起された。


できるだけ多くの人に、ファルージャで何が起きたか知って欲しいと切に願います。とはいえ、情けないことに私(益岡)はしばらく様々な移動のため、日本で写真展を行うといったことができずにいます。

もし当ブログあるいはイラク関係の状況を見て、写真展等やってみようと思われる方がいらっしゃいましたら、最近ファルージャ写真展を開催したこちらをご参照下さい(メールはstopuswar(atmarkhere)jca.apc.org)。パネルの貸し出しなども可能なようです。自分が動けずに情報の紹介だけというのも申し訳ない話ですが。

投稿者:益岡
2005-03-01 00:14:09