ファルージャでの奇妙な出来事(ジャマイル, 1月18日)
ファルージャでの奇妙な出来事
ダール・ジャマイル
Electronic Iraq
2005年1月18日
「ファルージャで兵士たちが奇妙なことをしている」。私が連絡を取っているファルージャの一人がこう述べた。彼はファルージャで自宅の状況を調べ、今日の夕方バグダードに戻ったばかりだった。
匿名を条件に彼は続けた:「ジュラン地区の中心街で、米兵たちは爆撃を受けなかった家々をすべて撤去しているんだ。一方、爆撃を受けた家のほとんどはそのまま残されている。なんでそんなことをしているんだ?」
彼の言うところによると、同じことがナザール地区でもムラウメーン地区でもジュバイル地区でもシュハダー地区でも行われており、軍はイード(イスラムの大祭)のあと、つまり11月20日以降にこれを始めた。
彼は米軍がブルドーザを使って土を堆くかき集めトラックに積んで運び去るのを見たんだと私に語った。これが行われたのはファルージャのジュラン地区とジムーリヤ地区で、むろんのことそれらの地区はファルージャ包囲攻撃の際に最も激しい戦闘が行われたところであった。レジスタンスが最も激しかったところである。
「少なくとも2キロ分の土が運び去られた」と彼は説明する。「侵略の際激しい戦いがあり米軍が特殊兵器を使ったバグダード空港でやったのと全く同じことをしているんだ」。
彼は、米軍が「特殊弾薬」を使った一部の地域では、爆発地点一つ一つの周囲200平方メートルの土が運び去られたと語る。
さらに、彼の友人の多くが彼に語ったところでは、米軍は放水タンカー・トラックで道路を一掃していたと言うが、彼自身はその光景を見ていないという。
「兵士たちはすべての家で放水車から放水した」と彼は続ける。「まるで水を使って化学兵器の証拠を隠蔽しようとしているみたいに。だけど、米軍はそれをジュラン地区とかそこの市場とかいったいくつかの地域でやっているだけだ」。
彼がそれを最初に見たのは12月20日以降である。
これもまた、私がファルージャの難民何人かから聞いた物語にマッチしている。
昨年12月、ファルージャ出身の35歳の商人バウ・ハマッドが私に、米軍による包囲の中で彼がまだファルージャにいたときに経験したことを語ってくれた。
「夜通し途切れなく米軍戦闘機がやってきて、ファルージャの至る所を爆撃した! 一瞬たりとも爆撃を止めることはなかった! 米軍が爆撃の標的を見つけられないときには、人々と子どもたちを恐怖に陥れるために音響爆弾を使った。町中が恐怖に包まれた。誰もがどれだけパニックに陥っていたか、説明さえできないくらいだ」。
「毎朝、ファルージャは空っぽだった。まるで人っ子一人住んでいない町のように」。彼はこう語った。「ファルージャでは毒ガスさえも使われた。米軍はあらゆるものを使ったんだ。戦車、大砲、歩兵、毒ガス。ファルージャは爆撃で灰塵と化した。何も残されていない」。
ファルージャのすぐ郊外にあるアミリヤート・アル=ファルージャという小さな町では、ファルージャから来た医師たちの多くが人々の治療を行なっていた。ファルージャ総合病院で治療ができなかったためである。そこでも、似通った話を聞かされた。
先月、この小都市の病院に来たばかりのある難民が、米軍が水タンカー・トラックを持ち込んでファルージャの道路に放水していたのを目撃したと語った。
「米軍はどうしてそんなことをしているのだろう?」とアフマド(安全のため仮名を使っている)は語った。「ファルージャをきれいにするため? そうではない! 私の町で使った恐ろしい兵器の痕跡を隠蔽しているんだ」。
昨年11月にはまた、ファルージャのジュラン地区出身のもう一人の難民アブ・サバーが私に、「奴ら(米軍)はキノコ雲のような煙を出す奇妙な爆弾を使った。それから長い煙の尾を引いた小断片が空中を広がった」。
彼の説明によると、これらの爆弾の断片は爆発して大きな火となり人々の皮膚を燃やして水をかけても燃え続けるという。これは白燐兵器やナパームの特徴である。「これらの爆弾で人々はひどい苦しみを被りました。民間人も戦士も同様に」と彼は語った。
友人のスティール(安全のため仮名を使っている)は、11月末ファルージャ入りを許可されたイラク赤新月社の援助車列に参加していた。
自分の目で目撃した破壊された街について、彼女は「米軍がファルージャで悪辣なことを行なったのは確かですが、誰がそれを見いだしてそう言うことができるでしょう?」と説明する。「米軍は私たちをジュラン地区をはじめとする激しい戦闘が行われた地区にに入れさせませんでした。そうした場所で忌まわしいことが行われたのは確実です」。
「ナパームが使われたと皆が言っている地区に、米兵たちは私たちを立ち入りさせませんでした」と彼女は続ける。「ジュラン地区をはじめとする激しい戦闘が行われた地区です。誰もそこへの立ち入りは許されなかったのです」。
11月30日、米軍は援助車列のファルージャ入りを阻止した。援助車列はイラク保健省が送ったものであったが、APによると、検問の米兵たちは車列に「8、9日経ったら戻ってこい」と言ったのである。
その救援チームに同行していたイブラヒム・アル=クバイシ博士はその当時記者団に対し「ファルージャでは恐ろしい犯罪が進行中であり、米軍はそれを誰にも知らせたくないのだ」と語っている。
ファルージャ入りする人々を米軍が厳しく統制している中、どんな兵器が使われたかに関する真実を明らかにするのは困難である。
その間、ファルージャの別の地区に住む人々も、次々と同じ話を伝えている。
毒ガス。米国がサダム・フセインに提供し使わせた毒ガス。あれだけ騒がれた「大量破壊兵器」は、いつでも米軍を訪れれば見つかるのですが。そしてファルージャを捜せば禁止された兵器が使われた証拠も見つかるはずですが。
米軍がベトナムを侵略した際に使われたナパームは、朝鮮戦争の際にも使われていました。1951年のニューヨーク・タイムズ紙記事はそれを次のように報じています:
3、4日前、中国軍が進軍前に待機していたとき、その村はナパームによる襲撃を受けた。村中で死者は一人も埋葬されなかった。埋葬を行う人が一人も残らなかったからである。〔・・・・・・〕村の中そして農地にいた住民がナパームに捕らえられ、着弾したときの姿勢そのままの姿で殺された----自転車に乗ろうとしている男性、孤児院で遊んでいた50人の少年少女、奇妙なまでに傷のない主婦。この主婦は、2ドル98セントの「魅力的なベッドジャケット----コーラル」という製品のメール・オーダー番号3811294にクレヨンで印が付いたシアーズ・ローバック社のカタログから破り取られたページを手にしていた」。この小さな村で200人近い人々が死んだに違いない。
投稿者:益岡
2005-01-19 22:02:56
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