ドキュメンタリー映画『ファルージャからの証言』――イラク人ジャーナリストの苛烈な体験も。
『ファルージャからの証言』
'Testimonies from Falluja'
Sonia Nettnin, PalestineChronicle.com
Friday, April 01 2005
http://www.uruknet.info?p=10860
またはhttp://www.palestinechronicle.com/story.php?
sid=200504010628066
「ある将校がいけない言葉を使ったから、イラク人男性がその将校をぴしゃっとはたいた。すると将校はその男性を殴りつけた。男性の腕を折り、両腕と両脚を縛った。それから戦車が……」
『ファルージャからの証言』は、2004年10月と11月の米軍によるファルージャ攻撃を体験したイラク人たちの証言を集めたものである。
実際に体験した者の口から空から加えられる爆撃が語られる。ビデオ映像には路上に転がる焼けただれ粉砕された死体が映される。子どもの死体もある。傍らには破壊された建造物。米国のメインストリーム・メディアは、この戦争のこういった面を報じなかった。
バックグラウンドで爆発が続くなか、カメラマンのイザム・ラシドは、生き延びるために走る人々を追う。男たちは女や子どもたちに学校まで走れと言う。学校なら生き残れる可能性がより高いと考えているからだ。ひとりの男が女たちのグループに向かって叫ぶ。「神は最も偉大なり。」
米軍は、今回の攻撃は10月の終わりに始まったと伝えているが、2~3の証言では10月の半ばには始まっていたという。ちょうどラマダーンの始まりのころだ。飲食を断ち、祈り、内省するための、ムスリムにとっての聖なる月の始まるころ。
米軍の侵攻と人々の殺戮のタイミングのため、米国はイスラムをも攻撃しているのだと考えるようになったひとりの男性がいる。
ファルージャ・モスクのシャイフは、砲兵隊6隊がファルージャを攻撃したと説明する。路上での米兵に対する攻撃の間に、米兵らは一般市民の車6台を銃撃した。米兵は中に人がいる家屋をランダムに銃撃した。「ええ、見ましたよ。若い人たちが殺され、手足をもがれ、戦車で踏み潰されるのを」とシャイフは言う。
屋上から銃撃をし、建物を爆撃する米兵の映像が、イラク人による証言のさらなる裏づけとなる。ファルージャのスカイラインは煙と火薬に縁取られ、その真ん中で兵士たちが奇声を上げている。数々の証言で、米兵と対峙した際のそれぞれの経験が仔細に述べられる。
言語障害のあるひとりの男性が自身の経験を説明する。ある将校がいけない言葉を使ったから、イラク人男性がその将校をぴしゃっとはたいた。すると将校はその男性を殴りつけた。男性の腕を折り、両腕と両脚を縛った。それから戦車がその男性を踏み潰した。証言者はスタッカートのようなアラビア語を使い。証言を終える際に2本の指を見せる。【訳注:「2本の指を見せる」とは、いわゆるtwo-finger saluteのこと。つまりf**k offのこと。】
この証言者は殺人を目撃したために、米兵らは彼を拘束し、フードをかぶせた。そして彼の持っていた300,000イラク・ディナールと200ドルを取り上げて、二度と戻ってくるんじゃないと告げた。
米国は何故ファルージャを攻撃したのか? ニュースで報道されていたところでは、米国は一連の拉致・斬首・自爆の首謀者であるとされるアブ・ムサブ・アル=ザルカウィを追っていた。イラク国内の反乱を率いているとされていた人物である。さらに、米軍はファルージャには3000人のレジスタンス戦士がいると推定していた。彼らは米国主導の占領に対するレジスタンスの象徴だった。そして米軍は彼ら全員(の根絶)を求めた。
空からの爆撃は数日の間、夜も昼も続いた。爆発音は非常に大きく、ある男性の耳の聞こえない娘は、上方を飛ぶ爆弾の破片に驚いて叫び始めた。米軍はまた家屋を強制捜索した。2人の少女が、ある夜銃を持った米兵たちが、数家族16人が眠る部屋に押し入ってきたと語る。強制捜索を行ないながら米兵たちは人々を蹴りつけ、男性たちを集めて手を縛り、それから車で去っていった。米兵についてどう思うかと尋ねられると、年長の少女が「よくない。私は好きじゃない。だってお行儀悪いから」と答える。
今回のファルージャ攻撃以来、多くの人々が自宅を失ってしまっている。警察や国家警備隊が家具調度を盗んでしまった。多くの人々が、隣接する町に、難民として暮らしている。生き残った男たちの一部は収容所だ。ファルージャを後にしたとき、人々は夏物の服しか持っていなかった。現在彼らは、厚手の衣料も燃料も仕事もなく、テント生活を送っている。子どもたちは学校に行けていない。女たちは屋外の水道でプラスチックの桶で洗濯をしている。彼女たちがそこで洗う食器もプラスチック製だ。女たちは地面にしゃがみこんでこれらの大変な作業を行なう。「夜になると冷え込みが耐えられないほどだ」とある男性が言う。
女性活動家であるハナ・イブラヒムさんによると、これらの家族たちにはシェルターが必要なだけでなく、医師も食料も薬もお金も必要なのだという。ひとりの男性が、2004年4月のファルージャ攻撃以来体調を崩してしまった息子を抱いている。血色が悪く髪の毛のないこの息子は、インタビューを始める直前に、父親に抱かれたまま嘔吐していた。父親は息子を病院に連れて行ったが、治療はできない。全体として、子どもたちの多くが体調を崩している。そして人々は難民となったことで屈辱を感じている。
2004年11月12日のファルージャの映像には、砂漠とゴーストタウンと、焼けた車と家々が映されている。死体が路上にごろごろしている。柱状になった煙が空に伸びている。
バックグラウンドにオルガンの音楽が流れるなか、人々は地面に膝をつく。傍らには見渡す限りの墓の列。
『ファルージャからの証言』は、Al Qitaf Artistic Productionの作品。監督兼プロデューサーはハムディ・ジャシム(Hamodi Jasim)。カメラにイザム・ラシド(Isam Rashid)。音楽はアハメド・ジハド(Ahmed Jihad)。編集はハッサン・アル=ジャフ(Hassan Al-Jaff)。吹き替えはダール・ジャマイル(Dahr Jamail)。証言はアラビア語で行なわれ、ジャマイルがボイスオーバーで英語で説明している。この作品の収益の一部は、これらイラク人ジャーナリストと映画制作者のチームがこの先独立の立場でメディアとして活動するための資金として当てられる。DVDの配給はPepperSpray Productionsから。
PepperSpray Productionsのページはここです。長さは33分7秒。価格は$10(+送料:米国内$2。米国外は別途問い合わせをとのこと)。このDVDは個人視聴用の映像クオリティで、放送用のクオリティのものは別途発売予定があるとのことです。
さらに、このドキュメンタリーのカメラを担当したイザム・ラシドさんのインタビューが、英Socialist Worker Onlineの2月19日号にありましたので、これも日本語にしておきます。
真実を見せることも抵抗の一形態である
To show the reality is also a form of resistance
Socialist Worker Online > archive > 19 February 2005 | issue 1939
http://www.socialistworker.co.uk/article.php4?article_id=5893
カメラマンのイザム・ラシド・アブデル・ラーマン(Issam Rashid Abdel Rahman)は、占領に反対する抗議デモを撮影していたら面倒なことになってしまった。本誌のサイモン・アサフが話を聞いた。
私はいつも、占領に反対する抗議デモや、人々の権利を求めるデモを撮影していました。それが原因で面倒なことになってしまいました。初めて逮捕されたのは、2003年でしたが、そのときは数時間で身柄を解放されました。でも2度目はそんな程度じゃ済まなかったのです。
2004年1月30日、朝の3時に米兵たちが私の自宅に現れました。私服のイラク警察官を1人伴っていました。私が撮影したものが気に食わないからつかまえに来たのだろうとわかっていました。私はドアを開けました。じゃないと壊されるんじゃないかと思いましたからね。
礼儀正しく応じましたよ。無礼な奴だと思われたら、家は破壊され家族は殴られますからね。年老いた父や家族たちと同居していましたから――子どもも2人いました。2歳と4歳です――米兵たちに暴力をふるう口実を与えたくなかった。だから私は英語で「どうぞお入りください。ようこそおいでになりました」と言いました。
彼らは私に、ジャーナリストのイザム・ラシド・アブデル・ラーマンか、と尋ねました。私ははいそうですと答え、抵抗しませんでした。彼らはカメラとフィルムとテープなどを渡せと要求しました。その通りにしました。
けれども彼らは、私が他の素材を隠していると考えたんですね。彼らは家じゅうをひっくり返しました。78歳になる父や子どもたちのボディチェックまでしたんです。何も見つけませんでしたが――それでも私は刑務所に連行されました。
4日後、私はアダミヤの刑務所に移されました。彼らはビニールの手かせで私の両手を縛り、頭に袋をかぶせました。なので昼なのか夜なのかも私にはわかりませんでした。
何日も食事を与えられず、飲み水もほとんどありませんでした。私は空腹で、喉が渇いていて、恐怖にすくんでいました。
一番つらかったのが手かせです。眠りたいときですら、ずっと手かせをされて頭に袋をされたままで、しかも後ろ手にされていました。こんなふうに、何日も縛られていたんです。
時々息がしづらくなりました。特に夜はそうでした。手かせのせいで血液の流れがストップしてしまって、手は感覚がなくなっていました。唯一親切にしてくれたのが、メキシコ系の、ラティーノの米兵でした。私がつらそうにしているのを見て手かせを緩め、頭の袋をしばらく取って、コーラを1缶くれたんです。
ある夜、知らない人が私の房室に入ってきて尋問を始めました。その人は私の名前を尋ねましたが、私が答えると、私の身体を壁に押し付けて同じ質問を繰り返すのです。私はジャーナリストです、カメラマンですと言うと、また私の身体を壁に押し付けました。
私はその人に、撮影したのは女性の権利を求める抗議デモのようなものばかりだ、と言いました。カメラもフィルムも没収されているから、私が撮影したものは見られますよとも言いました。
その人は私を殴り続けました。情報がほしかったわけじゃないんですね。単に私を脅かしたかったんです。それから私は別の部屋に移されて、また拷問されました。しかし今度は、彼らは私の家族全員を知っているぞと言うのです。私の家族の名を挙げて、職場も言うのです。子どもが通っている学校も知っているし、子どもの誕生日まで知っていると。非常におそろしかったです。
彼らは私の父の家を襲撃するぞと言いました。私から何を得たがっているのか、なぜこんなふうに私を扱うのか、私は何度も何度も彼らに尋ねました。けれども彼らは言わなかった。ただ脅かしていただけなんですね。
最終的には――私には知る由もありませんでしたが――イラクのジャーナリストたちが、アメリカの方々も含めて、私の身柄の解放を求める運動を始めてくれて。英国のNUJのジャーナリスト組合も支援してくださって、大変に感謝しています。
私は解放されましたが、また逮捕されました。今度は、モスクへの米軍の攻撃を撮影したからです。昨年11月、金曜礼拝に集まった多くの信者を殴打し殺害した件*注です。
バグダードのアブ・ハニファ・モスクは1500人ほどの信者でいっぱいになっていました。50人ほどの米兵とイラク国家警備隊の兵士がモスクを取り囲んでいました。兵士たちはスタン・グリネード【訳注:殺傷ではなく混乱させることを目的とした榴弾】を投げたり、モスクから立ち去れと人々に向かって叫んだりしていました。
私は撮影を開始しました。モスクから逃げようとしている信者を兵士たちが殴っているのを撮影しました。兵士たちはライフルで人々を殴り、蹴飛ばしていました。
人々はパニックを起こし始めました。「アッラーアクバル(神は偉大なり)」と叫び出す人々もいました。そしてアメリカ人は、これを耳にすると、信者たちに向けて発砲したのです。4人が死に、ほかに多くのけが人が出ました。
ひとりの米軍将校が、私がこの攻撃を撮影しているのを見て、私に殴りかかってきました。幸いなことに、イラク人警官が私が殴られているのを見てカメラを救い出してくれました。カメラは私の命ですから。けれども、テープは彼に没収されました。
彼らは私を軍の車両に連行し、また殴打しまいた。何人かの兵士が、私の腕に煙草を押し付けました。最終的にはIDカードを示して脱出しました。私のIDは、祈りの場を守るボランティアのモスクの警備員であるという証明です。6時間ひどい扱いをした挙句、彼らはようやく私を解放しました。神に感謝します。
彼らがイラクにもたらしているのは奇妙な民主主義です。私たちの国は、みじめな場所になってしまいました。けれども多くの人々が、自分たちにできる方法で、抵抗しています。
私にとって最も重要な抵抗は、シーア派とスンニ派が団結して立ち、アメリカ人に私たちを分断させないようにすることです。スンニ派とシーア派が占領に反対してデモを行なうこと、シーア派がファルージャの人々を助けるために現れること――これが抵抗です。そして私にとっての抵抗とは、カメラです――私の国で起きていることを撮影して、公に示すことです。
イザム・ラシド・アブデル・ラーマンはフリーランスのテレビ・カメラマン。これまでチャンネル4をはじめとする多くの報道エージェンシーで仕事をしてきた。
------------
*訳注:
2004年11月のアブ・ハニファ・モスクでの銃撃事件については、当ウェブログ過去記事ではダール・ジャマイルの記事およびBBCの記事。(←4月7~10日にかけてサーバがつながらないかもしれません。)また、当ウェブログでは日本語にしてはいませんが、ダール・ジャマイルの2004年11月26日記事もぜひ。】
なお、2つの記事で名前の表記が Isam / Issam とばらついているのは、原文のママです。
2つ目のインタビューが掲載された英国のソーシャリスト・ワーカー2月19日号は、オンラインで見るとファルージャ特集号のようなものだったようで、2004年4月のファルージャで負傷者の治療に当たったイスマエル医師の記事も掲載されています(→益岡さんによる日本語化ファイル)。
投稿者:いけだ
2005-04-06 19:19:39
<< Home