転回点ファルージャ:米国の残虐行為はイラク人レジスタンスに火を付けた
ミラン・ライ
2005年5月4日
Electronic Iraq 原文
破壊されたゲルニカ 1937年
「1930年代、スペインの都市ゲルニカが、理不尽な殺人と破壊のシンボルとなった。1990年代、グロズヌイ【訳注:チェチェン共和国の首都】がロシア軍によって無慈悲に破壊された。グロズヌイはいまだ廃墟のなかである。この10年の残虐と大量殺人の忘れることのできないモニュメントが、ファルージャである。・・・・・・」(これは私たちのゲルニカである ジョナサン・スティール&ダール・ジャマイル ガーディアン紙 2005年4月27日)
ミラン・ライの分析が私たちを「残虐と大量殺人の忘れることのできないモニュメント」、ファルージャに誘う。
レジスタンスの発火点
2年前の今日(2005年4月30日)、西洋の新聞に、イラク西部の都市ファルージャで大きな事件が起きたとの報道が現れた。それらの報道が現れたその日、米軍兵士によるさらなる銃撃が行われ、占領軍に対する地元の人々の憎悪は固められ、暴力が激化する発端となった。これにより、ファルージャは増大しつつあるイラク人ゲリラの中枢となった。
グロズヌイ・オプション
人口30万人の都市ファルージャは、侵略後の期間にいくつかの重要な転回点の舞台となった。最も最近の危機は、2004年11月で、米軍海兵隊をはじめとする部隊がファルージャを全面侵略し、その結果ファルージャの大部分はチェチェンの都市グロズヌイのようになった。
ファルージャの賠償評議会の代表を務めるハフィド・アル=デュライミ博士は、3万6000軒の家と8400軒の店が破壊されたと述べている。ジョナサン・スティールとダール・ジャマイルは、この推定を引用し、ファルージャをゲルニカやグロズヌイに例えている:「この10年の残虐と大量殺人の忘れることのできないモニュメントが、ファルージャである。反乱に対処するにやってはならないことの教科書的ケース、そして人々の支持のない占領は、後先を考えぬ自暴自棄の行為と残虐行為へと変質してゆくものであるということを思い出させるケースである」(ガーディアン紙、2005年4月27日、p.25)。
非暴力のオルタナティヴ
11月の攻撃を正当化するために持ち出された言い訳は、ファルージャの「テロリスト」たちの支配をうち破り、イラク暫定政権の権威を回復するというものだった。
けれども、2004年10月、「地元の反乱勢力指導者たちは、イラク政府が設定した大まかな条件を受け入れることを圧倒的多数により決定していた。その中には、ファルージャから外国人戦闘員を追い出し、重火器をすべて引き渡し、不法な検問所を廃止し、イラク国家警備隊のファルージャ入りを認めるという要求が含まれていた。そのお返しに、ゲリラが設定した条件には、米軍によるファルージャ攻撃の停止と、米軍の攻撃により女性と子どもが犠牲になったことを軍が認めることが含まれていた」(ワシントンポスト紙 2004年10月28日、p.A21)。
後者の提案は、イスラム法学者協会を含む(主としてスンニ派の)連合が唱えたもので、「平和的な手段でこれらの地域に法の支配を打ち立てる計画」のためであった。この計画は、6つの基盤にもとづくもので、「それには、投票前の一カ月間、米軍兵士は基地に留まることという要求も含まれていた」。それまで、西洋の軍隊がイラクを立ち去らない限り、どのような選挙も合法ではないと主張していたスンニ派のグループの立場としては、これは「劇的な変化」であると言われた。
「この一歩は極めて重要だ」と暫定政権の創設に関与したある政府関係者は語っている。「彼らはもはや『国は占領下にあるのだから我々は参加しない』とは言っていない。彼らは、『現在の政府は正当でない。正当なものにする唯一の方法は選挙だ』と言っている。彼らの要求を見るならば、それらが不可能なものではないことがわかる。十分議論に価するものだ」。
米軍主導の占領軍当局に勤務したラリー・ダイヤモンドは、「現地の状況を変える可能性をもつ政治的変容の出発点となりうる機会があるならば、それを受け入れるべきだと思う」と語っている(ワシントンポスト紙 2004年11月6日、p.A01)。
これらの提案はかき消され、記録から抹消された。これらの提案はうまく行かなかったかも知れないが、試されさえせず、侵略をめぐる主要な議論の一部にさえならなかった。米国は、イラクにおける作戦の自由を制限するような非軍事的解決を受け入れる気などなかったのである。
米国にとっては、米軍の攻撃で、砲撃や燐爆弾、爆発兵器により、何万軒もの家を破壊し、数千家族を難民として追放し、その数もわからないほどの民間人を殺す方がよかったのである。
起源:2003年4月28日
けれども、ファルージャはどのようにして、イラク人反乱勢力の中心となったのだろうか? その答えを得るためには、2003年4月の出来事にさかのぼる必要がある。このとき、米軍兵士たちが平和なファルージャの町に進駐し、地元の小学校を占拠したのである。
米軍の占拠に腹を立て、学校の再開を要求した地元の人々は、4月28日の夕方に学校前でデモを行なった。これはサダム政権崩壊から3週間近くあとのことである。米軍兵士たちは群衆に発砲し、13人の民間人を即座に殺した。
この犠牲者数は、1972年の「血の日曜日」に北アイルランドのデリーで英軍兵士が殺した民間人の数と同じである。この同様に巨大な不正義はやはり武装レジスタンスに火を付けた。
最初の虐殺
米国の公式説明では、群衆の中に混じったり近くの屋根に陣取った25人の武装民間人が第82空挺団の米軍兵士に発砲し、「銃撃戦」となったというものである(BBCニュース・オンライン 2003年4月29日)。英インディペンデント日曜版の記者フィル・リーヴスは、綿密な調査を独自に行い、この公式説明は「出来事の説明として極めて説得力のないもの」と結論した。
リーヴスがインタビューした目撃者たちは、「遠くないところで空中に向けた発砲があったが、群衆の近くなどではまったくなかったと語っている」。米軍のエリック・ナンツ中佐は、惨劇は「祝砲」のあと起きたと認めたが、それでも、群衆からの発砲があったと言い張った(BBCニュース・オンライン 2003年4月29日)。
けれども、フィル・リーヴスが捜し出したすべての目撃者は、「銃撃戦」も学校へ向けた発砲もなく、群衆は銃を持っていなかったことで意見が一致している。インディペンデント紙の記者は次のように言う:
現場の証拠は圧倒的に、このことを裏付けている。アル=カアト小中学校は、壁に囲まれた敷地に立つ黄色のコンクリート製ビルで、テラスハウス7軒ほどの高さと幅である。兵士たちは自分たちの下方に集まった人々に向けて発砲した。一方、学校の前面にも周囲を囲む壁にも銃弾の痕は一つもなかった。真向かいの家の最上階にも----米軍兵士たちはそこから発砲を受けたと言ったのだが----やはり痕はなかった。上部窓は無傷だった」(インディペンデント日曜版 2003年5月4日、p.17)。
上部の窓の一つには銃弾の穴があったが「それは学校の建物の逆側だった」(インディペンデント紙 2003年4月30日、p.2)。テレグラフ紙は銃弾の穴に関する記事でこの事実を述べなかった(p.10)。
アフメド・ガニム・アル=アリ博士はファルージャ病院で記者団に対し、「医療スタッフは怪我人を運ぼうとしたとき[米軍]兵士にうたれた」と語った(ミラー紙 2003年4月30日、p.11)。
第二の虐殺
人々に加えられた暴力にもかかわらず、ファルージャの人々は非暴力の抗議を続けた。学校での虐殺から二日たった4月30日、デモが行われた。
この抗議行動の際、米軍兵士はさらに非武装の参加者2名を射殺した。
米軍は、自分たちがまず発砲を受けたと主張したが、負傷したり死亡した米軍兵士は一人もいない。
英国デイリー・ミラー紙の記者たちが、デモ参加者に発砲した米軍兵士から6フィートのところにいた。一人の少年が「車列の一団が通過する中、米軍ジープの後部に備えられたM2重機関銃に向けてサンダルを投げつけた」。機関銃を担当していた兵士は身をかかめ、それから「指を引き金にかけて引き」、「非武装の1000人の群衆に向けて」20秒にわたりマシンガンが発射された。
クリス・ヒューズ記者は次のように言う:「我々は群衆を解散させるための警告も耳にしなかったし、イラク人が銃やナイフを持っているのも目にしなかった。イラク人の宗教指導者や部族指導者たちは拡声器を使って平静を保つよう叫んでいた」。この発砲のあと、倒されずに残った人々は「怒りで我を失ったように、米軍の要塞に駆けつけて拳で壁を叩いた。多くの人々の顔に涙が流れていた」(2003年5月1日、p.4)。
武力に訴える
三日間に二度の「血の日曜日」を経験したのち、ファルージャの人々は暴力に訴える決意をした。ファルージャの部族の指導者カラフ・アベド・シェビビは、数日後、「人々はこの闘いで死ぬ決意ができた」と語った。4月30日の虐殺から2日後、抗議参加者が手榴弾をポケットに入れているのを見た地元のイマームはデモを中止しなくてはならなかった。
4月28日の虐殺では、十代の若者3人が殺された。彼らは学校の生徒だった。アル=カアト学校の校長はフィル・リーヴスに、冷静に、「殉教者」として米軍兵士への復讐して死ぬ意思があると語った(インディペンデント紙 2003年4月30日、p.2)。
米軍が占領した学校の向かいに住む29歳の主婦ヘンド・マジードは、ある西洋の記者に、サダム・フセインがいなくなったのは嬉しいが、米軍の占領で隣人たちが死んでいることで、自分はイスラエル支配下のパレスチナ人のように感じていると語った。2発の銃弾が窓を貫通し生後7日の姪の小児用ベッドの上を突き抜けた自分のリビングに座って、彼女は、自爆者になると誓った。「私は奴らを取り除くために胸に爆弾をくくりつけよう」(「イラクの人々は米軍による殺人がテロ志願者を生むと警告」ロイター通信 2003年5月1日)。
「ここでは最初、誰もが、アメリカ人がサダムを追放したことに満足していた」と退役軍人のイブラヒム・ハマドは言う。「けれどもこれらの殺人により、私たちの子どもたちはみなビン・ラーディンのもとに行くだろう」(ロイター通信 2003年5月1日)。
歴史からの抹殺
4月28日の虐殺は、すぐに歴史から抹殺された。2003年7月16日、米軍の作戦についてファルージャから報告した記事では、テレグラフ紙(p.10)もガーディアン紙(p.10)もフィナンシャル・タイムズ紙(p.6)も、ファルージャで最近起きた米軍兵士への攻撃と地元の敵意について報じたが、虐殺については言及しなかった。
復讐の必要
公式見解では、バグダードの米軍司令官はファルージャの問題を、サダム・フセインのバアス党の残党とサダムの武装民兵、サダムのフェダイーンのせいだとしている。現地の米軍士官ヴォート大佐は次のように言う:「バアス党員がたくさんいる。フェダイーンもいる」。けれども、彼は、不平の蓄積についてはより複雑な要員があるという点で、ファルージャ住民に同意しているようである:「米軍の占領に対する失望、困難のあられと復讐の欲望」。
襲撃によっては、戦闘参加者が宗教的敵意を煽ることもある。別の場合は、暴力のための暴力が根にあるようである。「いずれにせよ、フセインへの誠意はここでの主要因ではないと人々は言う」。
弁護士で本名を名乗らなかったリアドは、地元の人々を米軍が殺したために、親族が米軍兵士への報復攻撃計画をたてるようになったと語る。「これが私たちの文化です。ここでは氏族が強固で、悪しき死に対しては復讐するのが義務です。人々は忘れません」(ワシントンポスト紙 2003年6月4日、p.A14)。
問題は二つある。一つは、米軍兵士が平然と民間人を殺したこと、もう一つは、民間人を殺して処罰されていないことである。ファルージャでは、米軍によるこうした民間人の----上で述べたのよりも小さな規模の----殺害は非常にたくさん起きており、のちに「スンニ三角地帯」として知られることになる地域の至る所で同じ様な事件が起きている(詳細については、ミラン・ライ「政権は交替していない」2003年を参照)。
イラクの人々の反応は予想できるものだった。「米軍がここにきて、我々を殺し、我々の財産を破壊することは許されるのに、どうした我々が奴らを殺すことはいけないのか?」とヤヒア・アル=モタシャリは言う。彼は自動車技師でサマラの部族指導者の息子である。「我々には武器を放棄する計画はない。毎日より多くの銃を手にしている」。
「我々は傷ついている」。ラマディに暮らす70歳の労働者ジャシム・モハメド・スルタンは言う。「我々の行為をあなたがたが批判することはできない」。
将来はジハードにある
「将来はジハードにある」とモハメド・アリ・アッバス導師は言う。彼はバグダードの西65マイルのところにあるラマディの聖職者である。「このような侮辱を受け入れることができる人間を一人でも知っているか? 彼らに自分の土地を占領させ、座って何もしないというのか?」(「イラクのスンニ派は威信の喪失に怒り立つ」AP 2003年6月6日)。
ファルージャのシャイフ・ジャミル・イブラヒム・モハメドによると、ファルージャでの攻撃は血讐という単純な問題であり、4月末に米軍が引き起こした死と、米軍当局が対処しないことへの復讐であるという:「ある男が米軍兵士に息子を殺され、それから毎日その兵士を路上で目にするとしたら、何ができるだろう? むろん、彼は報復を求める。とりわけ、アメリカ人が何一つ裁きを行なっていないことを目にすれば」(「米軍兵士は名誉と反目に巻き込まれる」タイムズ 2003年6月12日、p.16)。
そうして米軍に対する一連の攻撃が起きた。若い世代はどうやらファルージャの武力レジスタンスを誇りに感じている。[2003年]5月上旬、ケバブ・レストランの外で十代の若者のグループが次のように言う。「イラク全土で、ファルージャだけがアメリカ人に抵抗している。アメリカ人は巨大な戦車を持っている。我々は皆に向けて、それがおもちゃだと示しているんだ」。リアド弁護士はさらに、「こうしたタイプの人々にとってアメリカ人を撃つことがスポーツになることを恐れている」(ワシントンポスト紙 2003年6月4日、p.A14)。
バグダードの米軍報道官は[2003年]6月11日、こうした攻撃をどれか一つのグループによるものと特定することは容易でないことを認めた:「報復を度外視するのは困難だ」(タイムズ 2003年6月12日、p.16)。
こうして、占領米軍にとって、ファルージャはイラクの中で最も危険な場所となった。
こうした、「スンニ三角地帯」は反対勢力の温床となった。
このゲリラは2003年4月以来勢力を増し、報道はイラク人レジスタンスの多くデイスラミストの指導者が増えていることを強調している。それにもかかわらず、2004年11月の危機から、ゲリラに対処するには巨大な暴力ではなく、米軍の自制が求められることは明らかになっている。
米軍主導の兵士たちが兵舎にもどりそれから帰国するのが早ければ早いほど、イラクの政治的暴力を減ずる可能性は高くなる。
2004年、4月と11月に米軍はファルージャに総攻撃を仕掛け、無差別に、多くの、本当に多くの人----4月には700人、11月には3000人----を殺しました。殺された人々のかなりが、女性や老人、子どもを含む非武装の民間人でした。4月の虐殺については『ファルージャ2004年4月』にまとめています。
「多くの人々の顔に涙が流れていた」。不法に自分の町を占拠した者たちに子どもや連れ合いを殺され、近しい友人やその子どもを殺された苦しみが胸に迫ります。できるだけ多くの方に読んで欲しい、と願います。
1953年、CIAは、イランで、民主的に選ばれたモサデク首相に対するクーデターを仕掛け、モサデク政権を暴力的に転覆しました。モサデクは「逮捕」され軍事法廷で「裁かれ」、3年間投獄され、1967年に死去するまで自宅監禁下に置かれました。それ以来、イランでは、クーデターで米国により政権の座に付けてもらったシャーによるテロ支配が始まりました。CIAに訓練された秘密警察SAVAKによる膨大な拉致や拷問、弾圧(1979年の革命後、CIAがSAVAKの指導に使った女性への拷問方法のテープさえ発見されています)。
このクーデターに一役かった米国人カーミット・ローズヴェルト(セオドア・ローズヴェルト米国大統領の孫)は、アイゼンハワーからメダルを受け取り、CIAを引退したのち6年間ガルフオイル社に勤務しました。
25年にわたり米国政府と親密な関係を維持したシャーのテロ拷問政権下、民主的手段による抗議の道を立たれたイランの人々は、集会が認められていた唯一の場がモスクだったこともあり、モスクに惹き付けられました。その中から、より強硬なレジスタンスが生まれ、革命後、政権はイスラム原理主義のかたちをとることになります。
とはいえ、CIAのクーデターと不法で残忍なシャーの支配に対する抵抗を、「イスラム原理主義」とするのはまったく間違いです。私のイラン人の親友(故人)は、革命に参加しながら、その後のホメイニ政権にも反対して、外国で暮らしていた世俗的左派のムスリムでしたが、その彼は、革命を導いたのはイスラムがあった、ただしそれは「原理主義」とは関係ない、と言っていました。
訳していて、そのことを思い起こしました。
投稿者:益岡