任務拒否のSAS隊員「私が英軍に入ったのは、米国の外交政策を実行するためではない」
最初に報じたのはデイリー・テレグラフ/サンデー・テレグラフ(3月12日:Google Newsで見ると11日付けだがそれは米国時間で記録されるため)。ちなみに、軍関係のニュースは英国ではこの新聞をチェックするのが最も確実。退役軍人が固定読者層なので。
報道記事:SAS soldier quits Army in disgust at 'illegal' American tactics in Iraq→日本語@「イラク情勢ニュース」さん
解説記事:'I didn't join the British Army to conduct American foreign policy'
これを受けた報道が、英国だけでなく、世界各国で続きました。例えばスコッツマン、ガーディアン、イヴニング・スタンダード、新華社(中国)、ヒンドゥー(インド)、アルジャジーラ(あのアルジャジーラではなくて.comのほう)など。(どれを読んでもさして違いはないが、ガーディアンはリチャード・ノートン・テイラーが書いてる。)
要約すればこういう話――米軍の「不法な行為」をいやというほど直接見た英軍特殊部隊隊員(超エリート)が、「私は米国の外交政策を実行するために英軍に入ったわけではない」と思い、イラクでの任務を拒否。通常ならば軍法会議と何らかの刑罰(投獄)ののち不名誉除隊となるところ、彼がいかに優れた人物であるかを書いたレターつきの除隊となった。
次の記事にテレグラフの解説記事を紹介したいのですが、その前に、SASとは何かということを、「SAS」というドラマの解説ページから引用:
SAS (イギリス陸軍特殊空挺部隊 Special Air Service) の略で第2次大戦中、デーヴィッド・スターリング中尉による提唱によって英陸軍に敵陣への強襲及び情報収集を目的した奇襲攻撃部隊として誕生しました。
戦闘経験は世界で最も豊富に積んでいる特殊部隊で、対テロリスト・ゲリラ・不正規戦・その他あらゆる特殊作戦の手本とされており、世界最古にして最強の特殊部隊がSASといえます。
http://www.wowow.co.jp/drama/sas/top.html
説明文中の「その他あらゆる特殊作戦」の「その他あらゆる」には、戦時における敵側への潜入・撹乱・破壊工作といったものが含まれます。具体的には、Wikipedia(英語)とか、2005年9月のPEJ News(英語)とかにいろいろ書いてあります。
このPEJ Newsの記事(実際にはよそからの転載なのだが)が書かれるきっかけとなった同年同月のイラク南部バスラでの奇妙な事件(過去記事のコメント欄参照)ではSASは表のニュースに出てきたけれども、基本的には彼らは、報道のカメラに写らないところで「戦争」の最前線にいる戦闘員。
また、誰がSASの隊員であるかはめったに明らかにされることがありません。例えば2004年1月にバグダードで自動車事故があって英軍兵士2人が死亡したときの記事で、BBCは次のように、死亡した2人がSAS隊員であったことについて断定を避ける形で書いています。
Major James Stenner, of the Welsh Guards, and Sergeant Norman Patterson, from the Cheshire Regiment, died in the accident in Baghdad early on 1 January.
*snip*
The MoD will not confirm or deny whether the men were special forces members, but the BBC has learned they were in the SAS.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/3369077.stm
この同じ記事で、BBCは「イラク駐留英軍のほとんどが南部にいる」と書き、「バグダードにいる英軍兵士」が例外的というか、珍しい存在であることを示唆している。「バグダードには英軍兵士はいない」とは言わないけれども、「いる」とも言わないという微妙な感じ。
今回報じられた「イラクでの任務を拒否して英軍を去った元SAS隊員」は、彼らがバグダードで何をしていたのかをある程度は明らかにしています。
では、テレグラフの解説記事。
'I didn't join the British Army to conduct American foreign policy'
By Sean Rayment, Defence Correspondent
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?
xml=/news/2006/03/12/nsas112.xml
概略:
ベン・グリフィンはSASの対テロリスト・チームの一員としてのキャリアの絶頂にあった。ロンドンに生まれウェールズに育ったグリフィンは、18歳で高等学校を終えたときにはかなり優秀な成績で、士官への道を選ぶこともできたのだが、一般の兵士として入隊した。彼は過去、パラシュート連隊(→詳細)で北アイルランド、マケドニア、アフガニスタンで任務に就いており、頭脳と体力、および軍事作戦のストレスへの対処能力に際立っていたことで、理想的な特殊部隊員として選抜された。
2004年はじめにSASに入り、G-Squadron【訳注:22nd SAS Regimentの一部なので地上部隊】で兵士として任務につくこと1年で、グリフィンは所属部隊がバグダードに派遣されることを知った。バグダードでは米軍のデルタフォースと共同で、アル=カーイダのセルや反乱者の組織をターゲットにすることになる。
SASの本拠であるヘリフォード基地ではまったく知られていなかったが、グリフィンはかねてより、イラク戦争の「合法性」について疑問を抱いていた。サダム・フセインが暴虐な独裁者で西側にとっての脅威であることは認識していたが、その脅威は小さなものであり、イラク戦争は正当な理由のない戦争であると考えていたのである。【訳注:念のため書き添えておきますが、開戦時の「イラク戦争の理由」は「イラクの大量破壊兵器が西側にとって脅威であるから」で、その「大量破壊兵器」は存在すらしていなかったのに存在していると英米が結論付けた。英米は後になって「大量破壊兵器はなかった」と公式に認めた】
バグダードでの3ヶ月の任務の期間中に目撃したこと、特に米軍の行動により、グリフィンは生涯で最も難しい決断を余儀なくされることになった。
2005年3月、1週間の休暇を得たグリフィンは、休暇中に上官と正式な面談をおこなった。そこで彼は、この戦争はモラル上誤ったものであると考えているため、イラクにはもう戻るつもりはありませんと告げた。それだけではなく、彼は、ブレア首相と英国政府は国に対して嘘をつき、イラクで任務についている英軍兵士すべてを欺いたと考えている、とも述べた。
グリフィンは、そのような見解を述べれば逮捕され、腰抜けとのレッテルを貼られ、軍法会議にかけられ、投獄されるだろうと覚悟していた。【訳注:原文はdaring to air such viewsという表現を含んでいますが、これは、ライター側に、SASの標語"Who Dares Wins"を想起させる狙いがあるのかもしれません。】
しかし実際には、彼は華麗な軍歴に一切傷をつけることなく、そればかりか上官からの賛辞にあふれた推薦状を持って、陸軍を去ることができた。上官は推薦状において、グリフィンのことを「精神的に安定した誠実な兵士であり、自分に正直でいられる強さと人格を備えた兵士である」と評している。
昨年6月、SASを除隊となってから初めてのインタビュー取材で、グリフィンは戦争について自分の考えを公言するに至った理由をこう明かした。
「バグダードで不法なこと、あるいは単に間違っていることをたくさん見た。地元の人々の人心を掌握したいのであれば、作戦をこんなふうに実行すべきではないということは、私が知っていたのだから他の人たちも知っていたに違いない。それに人心を掌握しようとしなければ、戦争には勝てない。」
「米軍と合同で対テロリスト作戦をおこなっていると、例えば、老人であったり明らかに農民であったりで脅威ではないという場合、われわれは本部にそれらの人物はかくかくしかじかなので拘束しないと無線で連絡する。しかし米軍は『だめだ、連行する』という調子だった。」
「米軍は容疑者を逮捕するにはとにかく全員捕まえろというやり方をしていた。必要以上に苛烈な方法だし、まったく非効率的だ。米軍は農民をアブ・グレイブにぽいぽい放り込むといったことをしていたし、あるいは、拷問されると重々承知した上でイラク当局に引き渡したりしていた。」
「米軍はむやみやたらと銃でカタをつけようとすると言われるがまったくその通りだ。私がイラクにいた3ヶ月の間、同じ英軍の兵士たちは一度も、誰も撃たなかった。米兵になぜ殺すんだと訊けば、『相手は手ごわい外国人戦士だからな』とか答える。私は、自分がいた間には外国人戦士など1人も見ていないのだが。」
「バグダードの市の外である作戦をやったことがあった。何人かの民間人を拘束していたが、明らかに反乱者ではなかった。無辜の人々だった。どうして拘束などしたのか私には理解できず、部隊司令官に『バルカン半島や北アイルランドでやったのと同じように行動するのではなかったのか』と尋ねたところ、司令官は肩をすくめて『ここはイラクだから』と言う。私としては『だからこういうことをしても問題ないってことかよ』と思ったのだが。」
「私の知る限り、それは、肌の色が違うから、あるいは地域が違うから(=ヨーロッパではないから)、まあそう気にするなという意味だった。民主主義を促進するふりをしてひとつの国を侵略しておいて、ああいうふうに振舞うなどということは本来ありえない話だ。」
これとは別の作戦で、農地に住んでいる男性の一団を拘束するようにと命じられたときの彼ら兵士たちのフラストレーションのことを、グリフィンはこう語る。
「何度か作戦をおこなえば、経験的に相手が反乱者なのか、それともただの一般市民なのかがわかってくる。あのときは、拘束した人々が脅威ではないということは、われわれにはわかっていた。」
「彼らの1人は身体が不自由だった。片脚を失っていた。しかし米軍はそれでも、彼らをヘリに乗せて基地まで連れてこいと命令してきた。数時間後、拘束したうちの半分を帰すように言われた。白昼、ヘリでその農地まで飛んで行け、と。まったくばかげた命令だ、撃ち落されたり襲撃されたりするリスクを負えというのだから。それでもわれわれはそうしなければならなかった。その前夜に米軍に忠告したというのに米軍は耳を貸さず、そのためにわれわれは米軍によって命を危険にさらした。これが彼らの典型的な行動だ。」
グリフィンは、米軍兵士はイラク人のことを、第二次大戦時にナチスがロシア人やユダヤ人や東ヨーロッパ人を見ていたのと同じように――つまり「人間以下のもの(untermenschen)」として見ていた、と語る。【訳注:untermenschenはナチスの用語で、英語にすればsub-human。】
「米兵に関する限り、イラクの人々は人間以下のものだった。米兵は大きく2つのグループに分けられた。1つはまったくの十字軍、イラク人を殺すことに一生懸命な連中で、もう1つは軍隊が大学の学費を出してくれるからという理由でイラクに来た連中。彼らはアラブの文化など理解していないし、そもそも興味もない。米兵がイラク人に話しかけるときには、まるで馬鹿を相手にしているように話す。これは個別の兵士の話ではなく、上から下までそうだった。他の者よりは少しは状況をよく理解している、多少見識ある士官の1人や2人はいたかもしれないが、全体的に、米軍といえばそういう態度だった。ああいう態度をとるから反乱がますます激しくなったのだ。イラク人は米軍をとにかく忌み嫌っているのだろう。」
グリフィンはかつての同僚には最大の敬意を有しており、所属していた連隊には今なお完全に忠誠であるが、米軍と共同したことで英陸軍の評判は損なわれたと考えている。
「イラクに行く前には疑問も抱いていたが、兵士としては命令されたことをおこなうまでだ。けれども私はイラクで、兵士としての私の役割という点で譲らないことには、私の考えを私の仕事から切り離しておくことができないと悟った。」
「その時点で、もうこれ以上は無理だとわかった。この国とアメリカの政治家たちが、この戦争について英国の一般の国民に対して嘘をついた、そのやり方について当時私は非常に腹を立てていて、今でもそうだ。だが最も重要なのは、私はアメリカの外交政策を実行するために英国の軍隊に入ったのではない、ということだ。」
グリフィンは、イラクで目撃した多くのことによって怒りを覚えてはいたが、上官に自分の考えをはっきり伝えるのは、休暇で英国に戻るまで待った。
「バグダードにいるときには何も言いたくなかった。同僚の兵士たちに大きな敬意と忠誠心を抱いていたからだ。自分の意見を述べることによって、不要なプレッシャーや不快感を起こすことは、私は望んでいなかった。」
「1週間の休暇で英国に戻ったときに、直属の上官と面談を願い出て、その席で、イラクで起きていることは、法的にはもちろん作戦としても間違っていると思うと言った。
「最初は、上官は私にイラクのPMC(private military company)の仕事の誘いでもあったのではないかと思っていたが、そうではないということがはっきりすると、非常に理解を示してくれた。私にとっては大きな決断だった。私はSASに入るためにものすごく努力した。気まぐれで決めたことではない。」
「上官は私の考えを理解してくれた。そしてすばらしい態度を示してくれた。実際、誰もがすばらしい態度で迎えてくれた。私にはこの先どうなるかはわかっていなかった。任務拒否で起訴されるか、コルチェスター[の軍刑務所]に送られるのではないかと思っていた。」
グリフィンは、自分は平和活動家ではなく、いかなる政党のメンバーでもないし、政府を倒すことを目した政治的思惑があるわけでもないと言う。
「私は民主主義を心底信じているし、だから自分がモラル上間違っていると思うことについては発言する。イラクでの戦争は、私は、侵略戦争(a war of aggression)だと思うし、モラル上間違ったものであると思っているし、もっと重要なこととして、われわれは中東の状況を前よりもっと不安定にしてしまったと考えている。これはただ間違っているだけではない。これは軍事的大惨事だ。サダムが去ったあとにどうなるかということについて、何ら計画がなかった、どういうふうに終わらせるかがまったく計画されていなかったのだから。」
※なおこのインタビュー取材に際し、グリフィン氏は一切の金を要求せず、また受け取りもしなかった。
SASに入ったような人が、「反戦議員」や「反戦団体メンバー」のようなことばを使っていることには誰もが驚くだろうし、それゆえ彼自身が「私はピースアクティヴィストではないし、いかなる政党の党員でもない」と言い、さらには「今の政権を倒そうということじゃない」とも言い添えている(これはいくつかの文脈で検討してみる必要もあるかもしれないのですが)。いずれにしても、グリフィンさんが言っている内容は、これまでも何度か英軍内部から聞こえてきたことです。
例えば“最初のファルージャ”の時期、2004年4月11日のテレグラフ記事(→MetaNotesさんというブログに日本語で概略)で、名前は出していないが南部に駐留する英軍の上級将校が「米軍はイラク人を『人間以下』と見ている」、「米軍のイラク人の扱いはあまりにひどい」と述べています。
また、“二度目のファルージャ”のときに米軍の支援のために南部から中西部に引っ張り出されてきた2004年10月末のブラック・ウォッチ連隊のインタビュー(<当ブログ過去記事)では、19歳の英軍兵士が「自分たちはうまくコントロールしてきました。でもアメリカはどうも,めちゃくちゃにしてきたみたいですね」と語っています。
実際、南部の英軍がいわゆる「立派な紳士」みたいな行動を貫いていたのかどうかという問題もある。広く知られるところでは、バスラで「アブ・グレイブ」とか、首根っこ押さえて連行したティーンエイジャーをボコボコにとか(暴行に関しては元SASがものすごく怒っているけれども)。これとは別に、今年3月には別の暴行ビデオ(ヘッドバットを食らわせて血を流して倒れている人を蹴りつけている英兵たち。場所など不明)の存在が明らかになり、英軍警察が調査中の案件は184件にものぼっているとのこと。(184いう数字には私もびっくりしましたが、報道されてないのがどれだけあるのかってことでもある。)
それでもなお、英軍の基準で考えたとき米軍のやり方はあまりにひどいというのは事実のようで、ということは、例えば北アイルランドでの英軍のdirty warをちょっと聞きかじっていると、「あれよりひどいのか」と。
それとは別に、例えば開戦直前の2003年3月にはラムズフェルドが「仮に英国が離脱しても米軍だけで大丈夫」と発言し(→当時の私の記述その1とその2)、「英米の特別な関係」なんてほんとにあるのかという話になりそうな気配がしたのだけれども、それでも何事もなかったかのように、英軍は参戦した。というか、時期的に判断して、あの発言があったときに大きな流れが変わるはずもなかったのですが。
バグダードで米軍と英軍が共同で作戦をおこなっているというのも、あるいは、「連合軍」の体裁を保つためかもしれない(つまり、軍事的な判断というよりも政治的な判断であるかもしれない)し、もしそうであるとすれば、たとえば英国のガチガチの「女王陛下に忠誠を尽くす」スタンスの人々は、正直、やってられないんではないかとかも思います。
それにしてもテレグラフは最近すっかり「反米」なことで。。。ガーディアンよりよほど「反米」で、正直、戸惑います。
先ほど、News23(TBS系)で、ロバート・ポルクという元国防総省大佐のインタビューを中心に、2003年3月の開戦時に米国が持っていたのが「軍事戦略」だけだったということがかなり生々しく語られていました。
当時からそう言われていたと私は記憶しているのですが、まさかほんとにそんなことはあるまいと思っていたら、ほんとにそうだった。それが私にもはっきりわかるようになったのが2003年終わりでした。
開戦から3年が経過し、4年目に入りました。
投稿者:いけだ