煉獄――ヨルダンのイラク人アサイラム・シーカー(EI記事,3月23日)
煉獄
Limbo
Cathy Breen, Electronic Iraq
23 March 2005
http://electroniciraq.net/news/1912.shtml
ヨルダン,アンマンにて
58歳だというその人は私の目にはもっと老けて見えた。だが,その人と会ったのはじめじめした暗い部屋の中だったから――その暗い部屋が彼の住まいだった。その日,メフディは意気消沈した様子だった。部屋も陰鬱だったが,彼も同じくらい陰鬱だった。この部屋は長く続く石の階段をのぼりつめたところにある。夜は特に危険だ。部屋に置かれている家具は間に合わせの寝台だけ。その1台の寝台に,私たち3人(メフディと信頼の置けるイラク人通訳と私)は気をつけて腰をかけた。後刻,帰ろうと立ち上がったとき,私のお尻も湿っぽくなっていた。その日メフディは写真を撮ってもいいですよと言ってくれたが,残念なことにカメラのバッテリーのせいでそれはかなわなかった。
ケルバラ(Kerbala)出身のメフディは,2000年にイラクを脱出し,それ以来ずっとヨルダンにいる。彼の兄弟のうち2人がサダム・フセイン政権下で暗殺された。甥も投獄されたが何とか脱出することができた。甥たち家族はメフディに助けを求めた。彼らをイラク北部に連れて行ってから,彼はヨルダンに行き,亡命を求めた。
メフディはときどき通りで煙草を売って何とか生計を立てている。しかし健康状態が悪化してきている。視力が落ちてきていて,かつては毎日楽しみに読んでいた新聞も読むことができなくなっている。メフディには目の手術が必要だが,それにはおよそ500ヨルダンディナールの費用がかかる($100=70ヨルダンディナール)。彼と同じようにかつかつの暮らしをしているイラクの友人たちが,彼の手術費用をがんばって集めてくれている。
メフディは保護を求めて国連に行ったのだと言う。最初は申請書類は受け付けたと言われ,そしてその後,申請は通らなかった。彼は申請拒否の理由を知りたいと思っている。私たちで何か力になれることが? 彼はコートのポケットから擦り切れたカードを1枚取り出して示してくれた。彼の写真つきのカードで,2004年11月10日にUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から発行されたものだった。
先週,今日来ているのと同じイラク人通訳と私はUNHCRに行き,保護ユニット(Protection unit)の正職員と2度目の面会をした。彼らは私たちに,難民申請をした人には臨時の難民申請者カード(temporary asylum seeker card)を支給しているが,「難民カード」を受け取るのは申請が認められ内務省に認められてからなのです,と説明した。しかし事態はややこしいことになっている。というのは,2003年3月19日から,すべての申請が凍結されているからだ。
彼らはまた私たちに,拘置されたイラク人は国境でパスポートにスタンプを押されてイラクに送り返されるというのは本当なので,と忠告してくれた。そのスタンプには5年以内の再入国はできないと書いてある。イラク人がヴィザの期限を超過して滞在した場合の罰金は,1日につき1.5ヨルダンディナール。超過滞在者がヨルダンを退去することに同意した場合は,ヨルダン当局はその罰金を請求しない。今回の訪問で私たちはメフディの件について尋ねてみたが,メフディ自身が来なければならないとの話だった。というわけで,メフディが私たちに付き添ってほしいとのことで,私たちは今朝,UNHCRに向かったのだ。
到着した時点で,門の外に何人か待っていた。数分のうちに,英語ができる人が私たちに近づいて,どんな用で来たのかと尋ねた。その人と話をしていると,目に見えて憔悴した様子の側にいたイラク人が興奮したように声を上げ始めた。その人は追い返されたのだという。どうしようもないよという身振りをして彼は書類を地面に投げ捨てて「あんた,俺に今日来るようにって言ったじゃないか! だから何が求められているのか聞こうと思って来たら,ボディチェックだよ! どうして俺を中に入れないんだ?」 私たちと一緒にいた国連職員が間に入ろうと動いた。
同国人の深い落胆を感じて,私たちの通訳をしているイラク人の友人は悲しそうに「どういうことだろうね。どうしてこんなふうに振る舞うように追い詰められるんだろう?」と言った。
メフディが私たちに付き添ってくれと言ったのだと説明すると,一瞬の躊躇があり,それから建物に通された。すこし経って私たちは面接に用いられる部屋のひとつに案内された。
メフディが私の申請はどうなっていますかと尋ねると,職員は部屋を出てコンピュータをチェックしに行った。彼女は戻ってきて,あなたの申請は2001年に最初に不認定となり,それから2004年3月にも再アピールで不認定となっていまして,その時点でファイルは閉じられています,と言った。私たちは再度,メフディの不認定の理由を教えていただけませんかと言った。「閉じられたファイルは数日かかる」ということで押し問答を繰り返したのち,その職員は再度部屋から出て行った。職員は今度は実際のメフディのファイルを持ってきた。私は黙って彼女に礼を述べ,ここまでしてくれて本当に感謝しますと言った。そして再度,私たちはメフディが不認定となった理由を尋ねた。
決定に至るには約束事があるのだということもわかっていたし,決定は事実と履歴の集積に基づくもので私たちには知ることのできないものだとわかっていたけれども,それでも私は,メフディの申請ではメフディが「十分に根拠のある迫害の主張を提示しなかった」からだと聞いて,びっくりしてしまった。確かにそういう言葉が使われたはずだ。そう,彼はカードが失効する2005年5月11日前に,臨時のカードを6ヶ月間更新する手続きをすることができる。警察に捕まったときに強制退去させられないようにするのはこのカードなのだ。つまり,まだそのポリシーが有効であれば,ということだ。
ここではっきり言っておきたいのだが,待合室は混雑しており,職員は絶え間なく時間とエネルギーを要求されていることは,私も考慮した。ここの職員達は全力を尽くしていて限界を超えたところでやっているという事実は,建物の外でのあの一幕でも明らかだ。UNHCRは,イラクに戻ることは今もここ2年も不可能であるとわかっている。安全ではないのだ。以前にはイラク人を受け入れていた国々も,今はドアを閉ざしてしまっている。イラク人「難民」の保護について明記した新たな基準とガイドラインが作られるまでは,彼らが自国に戻ることが安全になる時までは,イラク人だけでなくUNHCRもまた,板ばさみの状態となるのだ。どちらにとっても,いわば煉獄である。
キャシー・ブリーン(Cathy Breen)はVoices in the Wildernessの一員で,現在はヨルダンのアンマンにいる。キャシーはアンマンまでたどり着いた多くのイラク人の友人と話をしてきた。彼女はまた,ヨルダンやシリアにいるイラク人難民とも話をしている。
投稿者:いけだ
2005-03-27 01:16:12