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2005/04/19

バグダードのINDEPENDENT FILM AND TELEVISION COLLEGE(映画・テレビ独立学校)

「アラブ映画祭2005」開催中の国際交流基金フォーラム(東京・赤坂)のロビーに、バグダードにあるINDEPENDENT FILM AND TELEVISION COLLEGE(映画・テレビ独立学校)のフライヤーが置いてありました。
filmschool

以下、文面をそのままタイプし、その下に日本語訳、さらに関連記事URLなどをまとめておきます。

■原文(そのままタイプ:タイプミスがあったらすみません)

An Appeal for Support

INDEPENDENT FILM AND TELEVISION COLLEGE
Baghdad

The INDEPENDENT FILM AND TELEVISION COLLEGE in Baghdad was set up by 2 Iraqi filmmakers who have lived outside the country for many years and have long teaching and film production experience, in Europe and the Arab World.

35 years of dictatorship, 3 devastating wars, 13 years of the most comprehensive sanctions in history, a military occupation, anarchic political and criminal violence and now an unpredictable and frightening future have all but silenced the voices of ordinary Iraqi people. There is an urgent need for basic film and television training to enable young people to explore the reality around them and to put their thoughts and stories on the screen for the rest of the world to see.

For many years, no television or film production independent of government control was possible in Iraq. And sanctions meant there has been no film stock, labs, new video cameras, and certainly no digital technology. Our short, intensive courses in camera, sound, lighting, editing, documentary and short fiction film-making are free of charge. Our funding comes from charities, trade unions and private individuals. We are not seeking government money from the occupying countries.

We completed our first course in camera, sound and lighting in April 2004 and will continue in the autumn with a film festial in October and further training - in particular, intensive documentary courses where students will produce their own short films.

Students on our first course showed a remarkable degree of commitment and they have urged us to continue. It is clear there is an enormous need and desire for this training.

"I've only finished grade three secondary school, but please let me come to the course. All my life I've only ever wanted to make films" Rena, 23 year-old widow

"I'm learning to respect the idea of work... I learn more here in one day than I did in two yearson the audiovisual course at university. They say it was better before, but the sanctions destroyed education." Amr, 27 years old

"We've never been taught like this before. If we don't understand, you go back and show us and, eventually, we get it; the knowledge feels solid, not just for show." XXX

"I tried so hard to find a way to live and couldn't. Saddam turned us all into starving animals. I've had to work as a mechanic. I can eat, but now I realise I can't live without art - and I want to learn to make films. I have projects." Taleb, 28 years old

We are appealing to our colleagues and friends for support.

For more information about Independent Film and Television College, or to make a donation of money, equipment or any other kind of support, contact:
maysoon@oxymoronfilms.demon.co.uk or kasimabid@yahoo.co.uk


■日本語訳

サポートのお願い

映画・テレビ独立学校
バグダード

バグダードの「映画・テレビ独立学校」は、2人のイラク人によって設立されました。設立者2人はイラク国外での生活が長く、欧州やアラブ世界で映画制作を教えたり映画を制作してきた長い経験があります。

35年間の独裁と、3度の破壊的戦争、13年間にわたる歴史上最も包括的な経済制裁、軍事占領、そしてアナーキーな政治的・刑法的暴力、さらには今も先に何があるかわからず想像するに恐ろしい未来、こういったものは、ごく普通のイラク人の声を封じてしまっただけでした。若い人々が自分の周囲の現実を探索し、彼らの考えや物語をスクリーンにのせて全世界に見てもらうことを可能にするために、映画やテレビの基本的なトレーニングが、緊急に必要とされています。

何年にも渡って、イラクにおいては、政府から独立したテレビや映画の製作は、まったく不可能でした。さらに、経済制裁が行なわれ、その結果、フィルムの在庫もラボも新しいビデオカメラもイラクにはありません。むろんデジタル・テクノロジーはまったくありません。私たちコースは短期集中で、撮影、音声、照明、編集、またドキュメンタリーおよび短編フィクションの映画制作を扱っていますが、費用は無料でやっています。私たちの資金は、チャリティ団体や労働組合、民間の個人からの寄付金です。私たちは占領している国の政府からのお金は求めません。

2004年4月、私たちは撮影、音声、照明の最初のコースを終えました。10月に映画祭があるので、秋にも続けます。さらにより高度なトレーニングも続けます――特にドキュメンタリーの集中コースで、学生は自身のショートフィルムを制作する予定です。

私たちの最初のコースの学生たちは非常に一生懸命に取り組んで、この先も続けてほしいと言っています。このトレーニングが必要であること、またトレーニングを受けたいという気持ちがあることは、明白です。

「私は中学までしか学歴がありませんが、どうか私にコースを続けさせてください。これまでずっと、映画を作りたいと思ってきたのです。」 レーナ、23歳、夫を亡くしている

「作品という考えを大事にすることがわかってきました……大学で2年のコースをやったよりも多くを、ここでは習得することができます。前はもっとよかったと人は言うけれど、経済制裁が教育を破壊してしまったのです。」 アムル、27歳

「こんなふうに教わったのは初めてです。理解できない場合には戻って学生に示してくれる。だから僕たち学生は最後には理解する。知識はしっかりしたもので、何となくというものではありません。」 匿名(XXX)

「生きるための方法を見つけようとがんばってきましたが、できませんでした。サダムは僕たちみんなを飢えた獣にしてしまった。僕は整備工として仕事をしなければならなかった。食うことはできますが、でも今、自分にはアートがなければ生きていけないんだということを実感しています――映画を作ることを学びたいんです。具体的な案もあります。」 タリーブ、28歳

同じ仕事をしている方々、また友人のみなさんに、サポートをお願いします。

「映画・テレビ独立学校」についてのより詳細な情報は、下記までお問い合わせください。また、金銭や機材、その他のご支援をいただける場合にも下記までお願いいたします。
maysoon@oxymoronfilms.demon.co.uk または kasimabid@yahoo.co.uk


■参考資料など:
この映画学校については、2004年4月に英ガーディアンが記事にしていました。
http://film.guardian.co.uk/features/featurepages/0,4120,1188444,00.html

映画学校の設立者であるMaysoon Pachachi(メイスーン・パチャーチ)さん(アドナン・パチャーチ元外務大臣の娘)の書いた記事です。(パチャーチ一家はサダム・フセインが実権を握った時期に、イラクから英国に亡命しています。)

彼女についての記述を、「アラブ映画祭2005」(国際交流基金)のパンフレットから引用しておきます:
イラクの女性映画作家メイスーン・パチャーチは、彼女の父であり前外務大臣であるアドナン・パチャーチを通じて、彼女の母国をテーマに『イラクはどこ?』をつくった。この作品は、ドイツのテレビ局ZDFの依頼を受けて作られた。『イラクはどこ?』は自分の父にのみ焦点を据えるのではなく、国の将来に目を向け、問題を解決する方法を提示しようと試みている。メイスーン・パチャーチがテーマにしているのは、男性映画作家たちと同様に、長らく離れていた故郷で自分のルーツを探求し、愛するものをみつけていくことである。


上記ガーディアンのほか、下記の記事が検索で見つかりました。
http://www.enawa.org/scripts/wwwopac.exe?database=brief&%250=800111
http://opendemocracy.org/themes/article-2-1937.jsp
http://www.surefish.co.uk/faith/features/220305_iraq_two_years_on.htm

メイスーン・パチャーチさんは、Act Together: Women's Action for Iraqというグループでも中核的役割を果たしています。

いけだ

発火性爆弾:名を変えたナパーム

 

イラク・アナリシス・グループ
2005年4月15日
エレクトロニックイラク原文


米国コロラド州バックリー空軍基地のナパーム弾(バックリー空軍基地歴史アーカイブ)


要約

本報告では、イラクで米軍が発火性兵器(「ナパーム」)を使い続けていることについて検討を加える。英国政府は、イラクにおける発火性兵器の使用を軽く見せかけたり否定しようとしてきたが、米国政府関係者はMK-77発火性爆弾----ナパームの現代版----を使っていることを認めざるを得なくなった。英国は、民間人に危害を加える恐れのあるこうした兵器を禁止する国際条約を批准している。イラクで英軍は、国際的に合意された戦争の基準を遵守しない連合軍の一部となっている。

イラク・アナリシス・グループ 2005年3月

1. ナパーム 過去

発火性爆弾は、燃料ジェルを薄い材質で覆った容器である。衝撃によって発火し、燃えたジェルを広範囲にばらまく。燃料ジェルの組成は、年を経るごとに発展してきた。

第二次世界大戦:ガソリン+ナフテン(naphthenic)酸とパルミチン(palmitic)酸
ベトナム&朝鮮:ガソリン、ベンジン、ポリスチレン
イラク(MK-77第5版):灯油を使ったジェット燃料とポリスチレン

過去において、発火性爆弾が使われた最も悪名高い出来事は1945年ドレスデンの爆撃と、米軍によるベトナム爆撃である。1972年、ナパーム攻撃を受けた村から裸の体を火に包まれながら走って逃げてきたキム・プックの写真は、ベトナム戦争に世界中が反対することを決定的にした瞬間だった。

ナパームは過去にイラクでも使われたことがあった。サダム・フセインのバアス党政権は1991年の国内蜂起に対してナパームを用いた。1992年のヒューマンライツ・ウォッチ報告は次のように述べている:

難民たちは、イラクのヘリが様々な爆発物を民間人に投下したと主張した。その中には、ナパームや燐爆弾、化学物質や硫酸などが含まれていた。火傷を負った難民たちや火傷の写真を見た人権団体と人道団体の代表たちは、その火傷がどうしてできたものかを確認することはできなかったが、イラク人怪我人を診療した医師たちは、傷のいくつかはナパームの使用と矛盾していないと語った [1]。


2. ナパーム 現在

米軍は現在の兵器の中にナパームの現代版を備えている。MK-77第5版として知られるその爆弾は、飛行機から投下され、衝撃を受けると発火する。この爆弾には、飛行機燃料とポリスチレンが混ざった、極めて殺傷能力の高い、粘りつく発火性のジェルが入っている。発火する際、ジェルは様々なものや犠牲者の体に粘りつく。軽いアルミ製の容器には進路を安定させるフィンが着いていないので、正確な兵器というには程遠いものになっている。

米軍が現在使っている発火性兵器はMK-77だけである。MK-77は、ベトナムと朝鮮で使われたM-47とM-74ナパーム弾を発展させたものである。この新しい兵器では、発火性ジェルは、灯油から創られるジェット燃料とポリスチレンからなっている。MK-77爆弾には、また、酸化物質も含まれていると言われている。このため、一度火が付くと消すのがさらに難しくなっている。

兵器の構成は発展したが、標的は同じである。発火性兵器は、典型的には、塹壕に隠れた兵士や供給施設、木造建造物、地上の車列などに使われる。

発火性兵器の使用は1980年の、「過度に負傷能力が高く無差別の効果を生む可能性のある武器」に関する国連の条約で制限されている [2]。英国はこの条約をすべて批准しているので、条約とその追加議定書を遵守しなくてはならない。ほかに80カ国以上がこの条約を批准している。

世界中のほとんどが、ナパームと発火性兵器は恐ろしい、とても恐ろしい兵器だということを知っている」と、「社会的責任を求める医師たち」の代表ロバート・ムージルは言う。「そのため非常に多くの医療資源が必要になる。おぞましい傷を負わせるんだ」[3] 。

しかしながら、米国はこの条約を批准しているが、発火性兵器に関する議定書に署名していない。

3. イラクでの発火性爆弾

発火性兵器はイラクの米軍に提供されている。どうやら、主として海兵隊空挺部隊に対してのようである。米軍は、2003年の侵略のときにイラク軍兵士に対して発火性兵器を使い、使用が続けられていること----ファルージャを含め----に関する証拠はますます増えている。

例えば、軍属記者の二人(シドニー・モーニング・ヘラルド紙とCNN)は、2003年3月21日、クウェート国境地帯を望むサフワン丘のイラク軍監視ポストに対する発火性爆弾による攻撃を目撃している:

海兵隊のコブラ戦闘ヘリが南から低空飛行してきてヘルファイヤー・ミサイルを発射した。それから射程距離30キロの海兵隊の榴弾砲がそれから8時間にわたって連続砲撃を続けた。これを援護する米国海軍の航空機は、4万ポンドの爆弾とナパームを投下した、とある米軍士官がヘラルド紙に語った。

サフワン丘は巨大な火の玉となって燃え上がり、イラクの監視所は消滅した。「そこにいた皆のことを哀れむ」と海兵隊のある軍曹は言った。「降服するように言ったんだ」[4]。

侵略の際そしてその直後に、米国政府関係者は、ナパーム兵器が使用されたという主張を否定した [5]。しかしあんがら、イラクにいた軍関係者と記者たちがすぐにそれが使われた証拠をだち手来たため、2003年8月までに、ペンタゴンの報道官は、MK-77着火性爆弾を投下したことを認めざるを得なくなった。これまで否定してきたのは、質問者が「着火性爆弾」とか「MK-77」と言うかわりに「ナパーム」という用語を使ってきたのだからとして正当化された。米国は「ナパーム」の蓄えはすべて破壊したと主張しており、MK-77はナパームに属さないと主張する。しかしながら、ペンタゴンは、MK-77がナパームを「驚くほど似通った」機能を持つ発火性兵器であることを認めている [6]。

実際、米軍自身、この新世代MK-77を「ナパーム」と呼んでいる。この言葉は、「対テロ戦争」の進捗を報ずる米国国防省の公式月刊誌『アメリカを守れ』といった公式の文書でさえ使われている。2003年2月、この雑誌は、これから開始される戦争準備について誇らしげに記述し、クウェートでの兵器準備を詳しく述べている:

手榴弾から2000ポンド爆弾やナパームまでのすべてが送られ、海兵隊第三空挺部隊がそれを必要とするならばいつでも使える状況にある [7]。

軍人たちも、しょっちゅう、MK-77を「ナパーム」と呼んでいる:

「我々はあの[橋の]アプローチのどっちにもナパームを食らわせた」と海兵隊第11空挺団の司令官アレス大佐はいった。「困ったことに、そこには人がいた。[コックピットの]ビデオで見えたはずだ。いたのはイラク人兵士だった。素敵な死に方じゃない」。彼は続けて次のように言った:「将軍たちはナパームが大好きなんだ。どでかい心理的効果があるからな」[8]。


4. 着火性兵器の最近の使用:ファルージャ爆撃

2004年11月、米軍はファルージャ市に大規模な攻撃を加えた。町の大部分が破壊され、何十万人もの人々が難民となって町を逃れた。

町の中には焼けただれ溶けた遺体があるという報告が現れた。ナパームやそれと同様に問題のある白燐兵器(ウィリー・ピートとも言われている)で起きるような状態である。

攻撃を生き延びた住人たちは、着火性爆弾が町で使われたと述べた。ファルージャで最も酷い攻撃を受けた地区の一つであるジュラン地区に住んでいたアブ・サバーは、次のように言う:

「奴らは、キノコ雲のような煙を出す奇妙な爆弾を使った〔・・・・・・〕そのあとで、長い煙の尾を引いた小さな欠片が空中から落ちて来るんだ」。

彼は、これらの奇妙な爆弾の破片は爆発して大きな火となり、水をぶっかけても皮膚を焼き続けると言った [9]。

「普通、我々は手袋をはめる」とメリーランド州ゲーサーズバーグのエリック・クリヴダ大尉は言った。彼は第一歩兵部隊の第2-2タスクフォース戦略作戦司令センターを統括する上級士官である。「この作戦では、我々は手袋をとった」。

白燐弾を発射した大砲もあり、白燐弾は水で消せない火の幕を創りだした。ゲリラたちは、皮膚を溶かす物質で攻撃を受けたと語っているが、それは白燐の燃え方と一致している。

地元病院のカマル・ハディーティ医師は次のように言う:「我々が受け入れたムジャヒディーンの遺体は焼けており、溶けている遺体もあった」[10]。




2004年11月3日、欧州最大の爆弾貯蔵地であるバークシャーの英空軍ウェルフォードに入り込み、「戦争反対」「子どもへの爆撃を止めろ」といったバナーをつりさげ、爆弾に「ファルージャから手を引け」とチョークで書き込んだ。写真の爆弾はナパームでない可能性が高い(写真:ヴォイシズUK)


5. 国際法と英国の否定

1980年の「過度に負傷能力が高く無差別の効果を生む可能性のある武器」に関する国連条約の第三議定書は次のように述べている:

いかなる状況であれ、文民が集中している中に位置するいかなる軍事標的をも、空から発射する着火性兵器のい攻撃対
象とすることは禁じられる。

「文民の集中」は、ファルージャのような「町の居住区域」を含むものとして定義されている。英国はこの議定書に署名している。

2004年12月6日、アリス・マホン議員は、ナパーム型兵器を連合軍が使っていることに関して軍大臣アダム・イングラムに議会で質問し、答えを受け取った。イングラムはイラクでいっときでもナパームが使われたことを否認した:

アリス・マホン議員:防衛担当国務大臣に、ナパームあるいはそれに類似した物質が、連合軍により、(a)戦争の際、そして(b)戦争以降、使われてきたかどうかお聞きします。

アダム・イングラム議員:戦闘の段階もそのあとも、イラクで連合軍によってナパームは使われていない[11]

イングラムの部分的な回答は、ナパームとして知られていた以前の着火性兵器と新型MK-77との区別に依拠している。この兵器を実際に使っている米軍は区別していないものである。


結論

英軍は、名前以外は完全なナパーム兵器を使っている軍と連合して活動している。ファルージャ攻撃の際、英軍兵士は、英国が国連の着火性兵器およびその他の非人間的兵器を制限する国連の条約を批准しているにもかかわらず、米軍の司令下に置かれた。

対人地雷の全面禁止を推進するといったこの条約の他の部分を進めるために英国は多くのことをやってきたが、着火性兵器については、英国政府は、国際的に合意された基準を大きく踏み外しているにもかかわらず、連合軍のパートナーの行為を見逃している。


イラク・アナリシス・グループのこのブリーフィングはアリソン・クレヴナス、パー・クレヴナス、レイチェル・ローレンス、マイク・ルイス、ジョナサン・スティーブンソンにより準備された。イラク・アナリシス・グループは、英国を拠点に、元の「イラク経済制裁に反対するキャンペーン」のメンバーたちが2004年に創設したもの。ウェブサイトはwww.iraqanalysis.org

注・参考文献

[1] Endless Torment: The 1991 Uprising in Iraq And Its Aftermath, Human Rights Watch, June 1992.
[2] UN Convention On Prohibitions Or Restrictions On The Use Of Certain Conventional Weapons Which May Be Deemed To Be Excessively Injurious Or To Have Indiscriminate Effects And Protocols (1980). The full text is at www.icrc.org. State signatories are at www.icrc.org.
[3] 'US admits it used napalm bombs in Iraq', The Independent, 10 August 2003.
[4] 'Dead bodies are everywhere', Sydney Morning Herald, 22 March 2003.
[5] 'Dead bodies are everywhere', Sydney Morning Herald, 22 March 2003.
[6] 'Officials confirm dropping firebombs on Iraqi troops', San Diego Union Tribune, 5 A
ugust 2003.
[7] 'Sailors Offload Ammo For U.S. Marines', Defend America, US Dept of Defense, 2 February 2003. See also www.usmc.mil.
[8] 'Officials confirm dropping firebombs on Iraqi troops', San Diego Union Tribune, 5 August 2003.
[9] 'U.S. uses napalm gas in Fallujah ? Witnesses', Al-Jazeera.com, 28 November 2004, and 'Fallujah Napalmed', Sunday Mirror, 28 November 2004.
[10] 'U.S. drives into heart of Fallujah', San Francisco Chronicle, 10 November 2004.
[11] Hansard, 6 December 2004. See also www.theyworkforyou.com.

ドキュメンタリー映画『忘却のバグダッド(Forget Baghdad)』~「アラブ映画祭2005」より

Arab Film Festival 2005 at the Japan Foundation Forum
photo by: nofrills(いけだ)

18日、東京・赤坂の国際交流基金フォーラムで行なわれている「アラブ映画祭2005」で、『忘却のバグダッド(Forget Baghdad)』を見てきました。110分くらいのドキュメンタリーです。

このドキュメンタリーは、1955年にバグダードに生まれ、スイスで育ったサミール(Samir)という監督の作品です。

作品を見ながら、私には非常に情報量が多く感じられました。つまり、消化するのが大変でした。今も消化できてないです。が、非常に見ごたえがありました。

この作品について、映画祭公式サイトの紹介文を引用しておきます。
映画史100年の中で表象されてきた「アラブ人」「ユダヤ人」像を、4人のイラク系ユダヤ人とイラク系ユダヤ人を親に持つ女性社会学者が語る、自己史を織り混ぜたドキュメンタリー。バグダッドのユダヤ人であること、そしてイスラエルのアラブ人であることの意味を検証しながら、ステレオタイプ化された「アラブ人」「ユダヤ人」像を解体していく。2002年ロカルノ国際映画祭審査員賞受賞。


この作品の次回上映は、4月21日(木)19:00から。場所などは公式サイトにて。

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※以下は少し「ネタバレ」を含みます。
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監督が取材した人々は5人。全員がIraqi Jewsです――4人は自身でイラクからイスラエルへ移住した経験を有する高齢の男性(彼らはイスラエルに暮らしている)、1人は移住者の家庭に生まれ育った中年の女性(彼女はニューヨークに暮らしている)です。

この作品で描かれているのは、「イラク」であるというよりむしろ、「イスラエル」です。1948年以降の、イスラエル国内の、ミズラヒム(Oriental Jews)が主要なテーマです。

4人の男性たちは全員が、イラク共産党の党員でした。(監督が彼らを知ったのは、監督のお父さんがイラク共産党党員だったから、と冒頭で言っていたように記憶しています。)彼らは、バグダードでともに活動していたわけではないのだけれども、大きな体験は共有されています。

4人の男性たちはそれぞれwriterです。彼らは、自らのnative language(母語)であるアラビア語で書くか、それとも移住した国で用いられている言語であるヘブライ語で書くかをそれぞれ選択し、そして結局、今もまだアラビア語で書き続けているのは、4人のうち1人だけ。

残念なことに私にはアラビア語もヘブライ語もわからないので、4人が語っていたことの細かなニュアンスは、まったくわかってないと思います。それでも、この「言語の選択」だけで1本のフィルムになるんじゃないかという気がします。

4人のうち、今でも共産党に籍を置いているのは1人だけ。これも何度か言及されます。

5人目の、ニューヨーク在住の女性は、大学でカルチュラル・スタディーズと女性学を教えています(字幕で「教養科目」と出てきたのはひどいのですが)。

4人の男性たちが、バグダードでの日々を語り、イラクでの共産党に対する弾圧(この部分だけでも1本のフィルムになりそう……4人それぞれ、この時期のことを書物に著しているそうですが)、イスラエルへの移住、移住後の生活のことを、それぞれの自宅でカメラに向かって語る一方で、ニューヨーク在住の女性は、イスラエルでのミズラヒムへの「差別」のことを、自分の経験をベースに語ります。

こういったことが、5人のインタビュー映像だけでなく、「東方ユダヤ人の典型」が出てくる1960年代のコメディタッチのヒューマンドラマ映画からの抜粋、古いニュースフィルム(多くは英国のプロパガンダ<初めて見るものばかり)、これらとは別の性質を持つエジプトのドタバタ喜劇映画、などの映像をはさみつつ、描かれていきます。

そして、1948年以降のイスラエルのメッセージが、西方ユダヤ人に向けられたものであったこと、東方ユダヤ人の移住は、イスラエルの人口を増やすためであったこと、イスラエル国内での東方系(Arab圏から移住してきたユダヤ人)への差別のこと――この部分は、このドキュメンタリー・フィルムのひとつのハイライトとなっていますが、イスラエルのテレビ局のトーク番組に招かれたニューヨークの女性が「差別はある」ということを西方ユダヤ人である番組のホストにつきつける映像で語られます(女性の化粧・髪形・服装から判断して、85年ごろでしょう)。

フィルムの構成は、基本的にはクロノロジカルです。4人の男性たちが幼少期を過ごしたバグダードのこと(「ムスリムもキリスト教徒もユダヤ教徒も暮らしていた」「私たち家族が暮らしていた一帯には、シナゴーグもモスクもチャーチもなかった」など)、彼らが共産党員としてデモを行なったりしていた日々のこと、アラブ・ナショナリズム、そして移住、移住後のこと、執筆活動(彼らの書いたものがどの程度読まれうる環境にあるかを含め)、最後に湾岸戦争(1991年)、というのが大きな流れで、「場所」としてイスラエル(テル・アヴィヴ、ハイファ)とイラク(バグダード)。

……ううむ、私には説明は難しいです。本当に情報量が多いフィルムだったので十分に咀嚼できていないようです。あと何度か見ないとわからないかも。。。

やはり、この110分くらいのフィルムは、「イスラエル」についての映画です。それも、いわゆる「パレスチナ紛争」とは別の文脈での「イスラエル」です。

フィルムの中で、1シーンだけ「パレスチナ」が出てきます。取材先のハイファに移動する途中、監督が乗った車の走る海沿いの道路の脇に、サボテンが群生しています。そのサボテンは、かつてパレスチナの人々が「村の境界線」として植えたものです。

ただし監督の車が走っているのは、「イスラエル」です。

東方系ユダヤ人によるシオニスト元イラク共産党員の4人の男性のうちのひとりは、イスラエルについて「イデオロギーだ」と言い切ります。

そして「アメリカ」――東方系ユダヤ人2世としてイスラエルに生まれ育ったニューヨークの大学の先生の窓から、2001年9月11日に倒壊したツインタワーが見えています。

彼女は自分のことを、exileと説明します。「本来exileとは連絡手段すら持たぬ人々のことを言うのだから奇妙かもしれないが、私は連絡手段を有するexileだ」と言います。

監督の「イスラエル」に対するスタンスは、冒頭の1分か2分で非常に短く描写されています。

いけだ

■追記(21日)
この映画の公式サイトがありました。英語・ドイツ語・フランス語で読めます。英語のURLをリンクしておきます。
http://www.forgetbaghdad.com/index.php?lang=e