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2005/03/04

ダール・ジャマイルへのインタビュー(3月1日,Seven Oaks)

カナダ(バンクーバー)の雑誌,Seven Oaksのデリック・オキーフによるダール・ジャマイルのインタビュー。3月1日。

なお,下記の原本は,Dissident Voice掲載記事です(Seven Oaksの記事の転載)。

翻訳は極めて荒いです。あらかじめご了承ください。

占領されたイラクについて,ダール・ジャマイルとのインタビュー
An Interview With Dahr Jamail on Occupied Iraq
by Derrick O'Keefe
www.dissidentvoice.org
March 1, 2005
First Published in Seven Oaks Magazine
http://www.dissidentvoice.org/Mar05/OKeefe0302.htm


[編集者注:アラスカ州アンカレッジ出身のダール・ジャマイルは,占領されたイラクにおいて計8ヶ月を,ごく数少ない独立した米国のジャーナリストとして過ごした。ダールはDahrJamailIraq.comのウェブサイトと,人気の高いメーリングリスト【訳者注:日本風に言えば「メルマガ」】を利用して,イラクからの報告を行なってきた。彼の報告は占領されたイラクについて極めて重要なメディア情報源と認識されている。]


オキーフ(インタビュアー):あなたはイラクでエンベッドされていない記者であると紹介されています。こんにちの占領されたイラクにおいて,エンベッドされていないということは何を意味するのでしょうか。

ダール・ジャマイル:エンベッドされていないとは,本来,軍に従軍(エンベッド)していないということで,メインストリーム・メディアの記者とは違って実際にホテルの外に出てイラク人と話をし,街から取材するということです――誰かを代わりに送ってやってもらうのではなく,あるいは軍のプレスリリースを手に入れてそれを第一の情報源とするのでもなく。それが一番大きな違いですね。

オキーフ:あなたが行かれた場所ひとつにファルージャがあります。攻撃された後のファルージャですね。最も最近の米軍による攻撃【訳注:2004年11月の攻撃のこと】の後はどうでしたか。

ジャマイル:いや,私がファルージャに行ったのは昨年の4月と5月です。2004年4月,包囲攻撃の期間中に行ったのと,それから5月に何度か,フォローアップのために。ファルージャで何が起きたのかを記録したわけですね。しかし11月の包囲攻撃の後にはファルージャには行きませんでした。というのは,軍が市の周囲に非常に厳しい警戒線を張って,誰も――とりわけジャーナリストは――中に入れなかったのですね。今でも誰も入れないようにしていますよ。

オキーフ:こんにちのファルージャの状況について,どう認識するのが適切でしょうか。

ジャマイル:そうですね,こんにちのファルージャは強制収容所によく似ています。軍が厳しい警戒線を維持していますし,ファルージャに居住していた人で戻りたいと思っている人は誰であれ,網膜スキャンを受けて指紋を押捺してIDカードを作ってもらわなければなりません。それから非常に厳しい検問所を通過するのですが,完全なボディーサーチが行なわれます。非常にintrusiveなサーチです。それから市に入ることを許可されるのですが,市の少なくとも6割は爆弾でめちゃくちゃになっています。電気も水もなく,むろん仕事などありません。ファルージャに居住していた35万人のうち,およそ25000人が戻ったのですが,自宅の残骸を整理するためです。現時点ではファルージャはまるでまったくの荒地のようです。

オキーフ:ここでのメインストリーム・メディアではそういったことはまるで伝えられませんね。米国の人々の間でのイラクの状況の認識ですが,どういった点が最も大きな誤認識だと思われますか。

ジャマイル:ここ米国でのコーポレート・メディアは選挙以降イラクのことをニュースで伝えなくなっています。レーダースクリーンの範囲外に行ってしまっていますね。びっくりするほどまったく伝えられなくなっている。私の印象では,どうも人々は「選挙があったのだから,イラクも良くなっているに違いない」と思っているようです。しかし事実は,イラクでは問題は解決されたなどとは到底言えない。暴力/攻撃は毎日のペースで続いていて,選挙後も一向に減らないし,インフラストラクチャーは今もまだひどい状態です。撤退のタイムテーブルも示されていません。(北米の)人々は,イラクでは本当のところ実際にどうなのかについて,ひどくミスリードされていますね。

オキーフ:米国でも事実に気づいている人々や反戦運動に参加している人々がいますが,大統領選挙の期間中,運動(activism)が目に見えて減速しました。どうでしょう,米国内で反戦運動が再び盛り返す兆候はありますか。

ジャマイル:3月19日の開戦の日に向けて,集まろうという動きが少しあるようですね。多くの人々が,軍のリクルートに対抗する運動を組織し,懸命に取り組んでいます。また,イラク侵略および占領から巨利を得ている企業にもっと焦点を合わせた動きもあります。ペースはゆっくりとしたものですが,確実に盛り上がっているように思います。

オキーフ:(国連の)元兵器査察官であるスコット・リッター氏とのミーティングでお話になったそうですが,そのときにリッター氏は,ブッシュ大統領は6月にイランを爆撃する計画にゴーサインを出したと断言したとの報が最近ありました。イランについて米国はどのような計画を持っているとお考えでしょうか。またシリアについてはどうでしょうか。

ジャマイル:ブッシュ政権の行動を見れば,1月30日のイラクでの選挙から文字通り数日という期間で,焦点をイランとシリアに移動していますね。両国を名指しし,イラク侵略に至る過程で用いられたのと同じレトリックを使っています。大量破壊兵器のことを言い,核兵器のことを言い,暴政を槍玉にあげて,このいわゆるUS流デモクラシーを受け入れなければならないと言う。

話は戻りまして,リッター氏の述べたことですが,今年6月に大規模なイラン空爆を米軍が行なうということについて,計画が承認されているというリッター氏の情報源は疑いないものだと思います。ブッシュ政権メンバーによる数々のレトリックや欧州訪問は,イランに対する行動に際し橋を架けて人々を同行させようというものですが,そういったものを見ていると,どうもすべてがその方向を指し示しているように見えますね。

オキーフ:現地で実際に何がどうなっているのかを現場から伝えるためにイラクに戻るご予定はおありですか。イランに行かれるご予定はいかがでしょう。

私はイラクに焦点を置いています。イランについて手をつける予定はないですね。イラクには戻る予定ですよ。今のまま行けば,5月に戻ることになると思います。


記事を掲載したDissident Voiceは,米カリフォルニア州に拠点を置いているメディア・ウォッチです。詳細はabout dvのページをご参照ください。

あと,インタビュー中に出てくる「イランへの攻撃は6月に」というスコット・リッターの発言ですが,私はこれを英語でも日本語でも読んだことは覚えているのですが,日本語でのソースがわからなくなってしまいました。閲覧されている方で「このURLで読める」ということをご存知の方がおられたら,どうかコメント欄で教えてください。(コメント欄ではHTMLは使えません。http://www...と入力すれば,自動でリンクされます。)

英語ではRenseの記事とかElectronic Iraqの記事とか(←両者は内容は同一だと思います)。

おまけ:
Seymour Hersh reports plans for war on Iran, broad covert aggression elsewhere, Monday, 17 January 2005
Journalist: U.S. planning for possible attack on Iran - White House says report is 'riddled with inaccuracies', Monday, January 17, 2005


投稿者:いけだ
2005-03-04 00:53:23

傲慢? 訴えどおり有罪

ファルージャ難民を訪問したクリスチャン平和構築チームの一人による報告。

傲慢? 訴えどおり有罪
アラン・スレーター
Electronic Iraq原文


イラク・ファルージャ 町の入り口の検問にて(米国防省写真)

「この地点より、致死的兵器の使用を許可する」。ファルージャ郊外の米軍検問所の横に掲げられたアラビア語の表示を最もうまく翻訳している言葉はこれだろう。ファルージャの自宅に向かう何百台もの車と何千人もの人々が、この表示を通り抜けるために並んでいる。ファルージャ脇を通るとき、高速道路からファルージャの最新の区画割りを見ることができる。家々はうち捨てられた。家の半分は、屋根が米軍の爆撃で崩れ落ちた。依然として立っている壁はすべて銃弾の穴と戦車砲の大きな穴があいている。ファルージャは産業の中心地だった。今や、操業しているわずかな産業といえばセメント工場だけである。

2月24日だった。私たちはファルージャの南西約25キロにあるアモリヤ村へ向かっていた。ファルージャ出身の難民が何百人も、アモリヤで暮らしている。車に乗っていたのは5人だった。運転手はファルージャに親戚がいた。ファルージャとつながりをもっていることは安全上必須だった。私たちは、ファルージャの人々の苦しみについて証言と証拠を集めているあるイラク人人権活動家に同行を願い出た。彼女の他に、難民に医薬品を届けようとイラク人薬剤師が1人同行していた。シェイラ・プロベンチャーと私がイラクのクリスチャン平和構築チーム(CPT)所属のオブザーバだった。

アモリヤで、私たちはまっすぐに学校へと向かった。最初の教室に入った。家族にプライバシーを与えるものといえば、毛布で作られた粗末な囲いだけだった。部屋の真ん中には共同スペースがあり、パンを作るためのガス・オーブンがあった。羊の残骸が床に横たわっていた。昨年11月以来、この部屋で25人程が暮らしている。ここで二人の赤ちゃんが産まれた。誰もが、ファルージャを逃げ出す際の恐ろしい経験を抱えていた。家族の中に、けが人や行方不明者、死者がいた。5人家族をもつ1人の男性は、米軍が彼に家族をファルージャに連れ戻さなければ逮捕すると述べたと語った。ファルージャの家はもはや存在していない。米軍が爆撃で破壊したのである。この男性は、家族を別の人々にあずけて、自分は逮捕されないよう逃げようと計画している。

私たちは同じような部屋の多くを慌ただしくのぞき込むだけで通り過ぎた。この学校に来たオブザーバの何人が、最初の部屋で立ち止まって証言を聞き、他の部屋を通り過ぎただろうとの思いが頭をよぎった。

私たちは何百人もが使うたった一つのトイレのそばで立ち止まった。すぐに私たちは自分たちの証言を抱えた多くの人に取り囲まれた。中には最初の部屋の人々もいた。特に子どもたちだった。集団の後ろの方をみた。新しい顔が近づいてきたりためらったりしていた。誰もが自分の経験を持っており、私たちにそれを聞く余裕がないことを知っていた。しばらくして人々の顔は不機嫌になった。私たちが彼ら/彼女らが経験した恐ろしい話を聞かないことに怒りと不満を募らせていることが現れていた。とても困難な環境にともに置かれることを余儀なくされたこれらの人々の集団生活に対して、私たちが姿を現したことでどんな影響を与えてしまうだろうと考えた。コミュニティは、自分たちの話を伝えることができた人と伝えなかった人とにわかれる。古い科学の法則は次のように述べている:「観察対象に変化を与えることなしに対象を観察することはできない」

外に出て、私たちは学校の裏手を通り、埃っぽい砂利の校庭に出た。私たちはそこで「移動教室」という言葉に新たな意味を与える状況を目にした。遊び場がドラッブの暗いテントで覆われ教室として使われていた。きれいな大きな文字で英語で書かれたサインは、誇らしげに、これはヒューマン・アピール・インターナショナルとイラク政府教育省の共同プロジェクトの成果であると告げていた。私たちは学校の教頭に表示が英語だけなのはどうしてかと訊ねた。彼女は、それはメディア向けで、そうすればヒューマン・アピール・インターナショナルが資金集めの要請をしやすくなるからだと述べた。イラク教育省がこのプロジェクトを支援していることを誇りに思うかと私たちは彼女に聞いた。彼女はぶっきらぼうに「ノー!」と答えた。

突然、誰かがイラク人権活動家の女性にメモを手渡した。「ただちにこの地域を立ち去らなくてはならない」と書かれていた。どうやら、キャンプの誰かが、「米国大使館から来たアメリカ人」がキャンプにいるという話を広めたらしい。人権活動家はクールな女性だったが、明らかに怯えだした。難民の誰かが、地域から出るために車を提供してくれた。運転手が自分が隠し持っていたピストルを一緒にいた女性に手渡した。彼女が身体検査される可能性はより少ないと知っていてのことである。イラク人の同僚は命を危険にさらすこととなったため、シェイラと私はイラクの人々が直面している問題の一部を経験することができた。

世界は難民の証言を聞かなくてはならない。絶対に。けれども、私がキャンプのコミュニティから何らかの公式招待を受け取って別の難民キャンプに行けるまでにはずいぶん待たなくてはならないだろう。私たちが訪れたことで、そこの難民コミュニティ内で緊張の可能性が高まったと私は考えている。

クリスチャン平和構築チームは全教会が参加する暴力削減プログラムで、歴史的な平和教会を起源とする。訓練を受けたチームのワーカが世界中の紛争地域に住んでいる。CPTは2002年10月以来イラクにいる。CPTについてのさらなる情報はhttp://www.cpt.orgを参照。CPTプロジェクトの写真はhttp://www.cpt.org/gallery


投稿者:益岡
2005-03-03 01:44:28

サマーワの自衛隊を取材しようとトライしたが・・・(CPT)

イラクで人道活動を続けているクリスチャン・ピースメイカーズ・チーム(CPT)のペギー・ギッシュさんがサマーワを訪問した際のレポート。2月28日の『エレクトロニック・イラク』掲載記事。

端的にまとめれば,サマーワの自衛隊の取材をしたいと赴いたが,まずは手続きをお願いしますということで,取材はできなかった,ということと,そのことについてペギー・ギッシュさんが抱いた印象を綴った文です。

なお下記文章中の文言は,原文から機械的に置き換えてあります。「日本軍」という表現を当ててある部分の原文での表現は,Japanese forcesです。

「彼らはサマーワで何を隠しているのか?」
"What Are They Hiding in Samawah?"
Peggy Gish, Electronic Iraq, 28 February 2005
http://electroniciraq.net/news/1887.shtml

クリスチャン・ピースメイカー・チーム(CPT)のメンバーと3人の代表団が,イラク人運転手と通訳,ジャーナリストと一緒に,キャンプ・サマーワの入り口に近づいた。キャンプ・サマーワはイラク南部にある日本の軍事基地(the Japanese military base)である。日本は,そのほかの国々の軍が活動する上で取っているさまざまな否定的効果をもたらす方法の多くを回避し,周囲のイラク人たちと比較的良好な関係を結んでいるという印象が,私たちにはあった。私たちは,日本の兵士たちと話をし,彼らの当地での経験と彼らの駐留についてを知ろうと,4時間かけてサマーワに赴いた。

最初の検問所で,警備担当者は私たちに対し,前もってアポイントメントを取っていないから将官とは話ができないと言った。私たちは「では私たちが話ができる,より階級の低い将官や一般の兵士はいるのですか」と食い下がった。私たちは警備担当者たちとおしゃべりを始めた。ひとりは彼らのほとんどはエンジニアで,再建を助けるために来ているのだと述べた。私たちは全員が銃を携行していることに気づいた。

一方で私たちと同行していたイラク人ジャーナリストが,パブリック・リレーションズ局があることに気づいており,そこのスタッフと会うことはできないだろうかと尋ねた。警備担当者たちはついに態度を軟化させ,兵士たちが私たちを別の門へと連れて行った。

パブリック・リレーションズに属する3人の兵士が私たちと面会し,私たちが得た情報をどうするのかと訊いた。CPTは報道のカテゴリーには完全には当てはまらないが,教会や個人に向けて報告を書くとすれば,報道のカテゴリーと同じ要件を満たさなければならない。「当オフィスからの許可の書面がない場合は,私たちの活動についての情報を公表することは許可されません」とひとりが私たちに言った。「私たちがご質問にお答えする前に,まずは登録を完了していただいて,登録についてパブリック・インフォメーション局長の承認を得ていただかなければなりません。」

「個人的にあなたとお話することはできませんか」と私たちは尋ねた。「日本の兵士の声は公的なものです,私的なものではなく」と彼は,友好的なマナーを保ったまま,答えた。「ご協力したいのはやまやまですが,現状ではそれはできかねるのです。」

ある兵士が7ページの書類を私たちに渡してくれた。「『日本国自衛隊(JSDF)公認記者IDカード』の申し込み,および基本原則遵守の約束書」である。外部からの来訪者は誰でも,個人的・法的情報を提出し,写真を添付し,4種類の疾病の予防接種を受けなければならない。長々と列挙された適切な行動に同意し,日本の部隊の安全を害すような情報を開示したり,地元の人々がJSDFに抱いている信頼を低めたりしないことに同意しなければならない。応募者は書類を提出するために基地まで出向かなければならないが,書類の受理には最長で1ヶ月を要する。これでは今後CPTから人員を派遣することはほとんど不可能になるだろう。

出口に向かいながら,私はひとりの兵士に個人的ことを尋ね,日本国憲法第9条に照らして日本の軍隊についてどう考えているかを質問をした。憲法第9条は日本の常備軍および軍事的イニシアティヴを一切禁止している(outlaw)。彼は答えなかった。

イラクの日本軍に関連する暴力/攻撃は比較的少ないと私たちは聞いていた。もし彼らの仕事が再建なのであれば,なぜ彼らは自分たちのしていることを隠す必要があるのだろうか。彼らは何を隠しているのだろうか。私たちが言われた規制はすべて,基地に入ることをアシストするためのものだが,実際には真実を中に置いたままにし,一般の目を中に入れないよう意図されているもののように思われた。


クリスチャン・ピースメイカーズ・チームについては,ウェブサイトをご参照ください。


投稿者:いけだ
2005-03-02 21:49:23

アンバル州全土のファルージャ化?

アルジャジーラが米軍のアンバル州における最新の軍事作戦について報じています。「ザルカウィを拘束する」というおなじみのプロパガンダから「医療関係者を拘束」というおなじみの戦争犯罪まで。

米軍の攻撃でイラク人が死亡
2005年3月1日
Aljazeera原文

この数日イラク駐留米軍は女性1人とその子どもを含む数人のイラク人を殺した。アル=アンバル州(ファルージャのある州)での包括的軍事作戦の際。

米軍が火曜日に「リバーブリッツ(河の電撃?)作戦」を開始して以来、状況は緊迫していることをアルジャジーラは知った。

同州のラマディでは、女性とその子どもたちのほか二人のイラク人が米軍の砲撃で殺された。

米軍が車に発砲して3人の民間人が負傷した一方、米国空軍がラマディ北部のブ=ファラージ地区にある家を爆撃したことでこの女性と子どもたちは殺された。

米軍はラマディの何カ所かに検問を設置し、アル=アンバル大学に学ぶ学生たちは授業に出れなくなっている。

憤怒

米軍の行動は、とりわけ米兵の発砲が少なくとも5人の民間人を殺し16人を負傷させたため、市民に怒りを引き起こしている。

米軍はまた、アル=カーイダ指導者アブ・ムサブ・アル=ザルカウィを逮捕しようとしていると主張して、逮捕作戦を開始し、町の多くの地域を封鎖している。

米軍はヒート市[ラマディの西]を取り囲み、7日間にわたって夜間外出禁止令を強制した。アルジャジーラが入手した情報によると、米軍はヒート総合病院の医療スタッフを含む多くの人を拘束した。

ハディタでは、米軍の厳重なパトロールが続き、4晩にわたり外出禁止令が強制されている。

市民は町への出入りを阻止されている。米軍は隣のアル=ハクラニヤ市から撤退してきたあと、町の入り口を封鎖した。

同様の状況がアル=カイムの町でも起きており、反=米軍の戦士たちと米兵との衝突を恐れた数百家族がアル=アナ市に避難している。

アル=ルトバでは、米軍は午前9時以前は人の移動をさせないためにバリケードを組んでおり、また午後5時以降は町への出入りを許していない。

アルジャジーラが入手した情報では、米軍は、アル=アンバル州の軍事作戦に関して何ら時間枠を公開していない。

ザルカウィを逮捕しようとして。町の封鎖、町の地区の封鎖。家宅侵入捜査。病院の医療職員の拘束。700人もの人々を無差別に殺した2004年4月のファルージャ攻撃そして数千人を殺し町を破壊し尽くした2004年11月のファルージャ攻撃を通して耳にしてきたプロパガンダと目にしてきた行為です。

米軍はアンバル州全体に対して、ファルージャで行なっている戦争犯罪行為を続けるようです。

なお私はときおり「いわゆるら抜き言葉」を使います(可能を受身・尊敬と区別できるだけでも効果的)。

イラクと直接関係ありませんが、「イラン攻撃に反対するオープンレター」署名ページがありました。どのように使われるかがはっきりしませんが、書き出しは次の通り:

米国によるイラク占領のために、何万人ものイラク人が命を落とし、1万2000人以上の米国人が死んだり負傷し、計り知れない破壊がもたらされ、イラクで不安定な状況が続くなか、私たちは、米国が直接・間接の対イラン軍事行動を起こそうとする可能性を深く憂慮します。


投稿者:益岡
2005-03-02 18:10:52

サイード・サラ、農民

クリスチャン平和構築チームが伝えるイラク人農民サイード・サラさんの話。

サイード・サラ、農民
クリフ・キンディ
Electronic Iraq原文
2005年2月28日

サイード・サラはケルバラ郊外で父と叔父たちとともに農業を営んでいた。2003年の米国によるイラク侵略のとき、米軍兵士が彼の農場を攻撃し爆撃した。家族のうち16人がこの攻撃で殺され、9人が怪我をした。家は潰され、家具と持ち物は破壊された。さらに、米軍の攻撃により75頭の羊が殺された。牧羊は彼の収入源の一つだった。

攻撃の4日後、彼はケルバラのイラク・ヒューマンライツ・ウォッチを訪れ、自分の身に起きた悲劇を報告した。世界中のメディアがこの出来事について報じた。それからヒューマンライツ・ウォッチ・インターナショナルが彼の農場を訪れた。人権活動家たちは農場に不発弾を見いだした。サイードは彼らに、1991年の反サダム蜂起で殺された人々の大量墓地6カ所を知っていると述べた。

米国は1991年の蜂起の際、サダム・フセイン政権により殺された人々の記録をとることを進めており、イラク暫定政権とともにその時代に失踪した人々を見つけだす委員会を設置した。フセイン時代のイラク政府関係者に対して戦争犯罪の告発もなされつつある。それにもかかわらず、アメリカ合州国は2003年のイラク侵略の際に米国が引き起こした損害や死に対する賠償を拒否している。

サイード・サラは米軍からもイラク暫定政権からも他の誰からも何一つ支援を受け取っていない。シーア派ムスリムのサラはケルバラのCPT(クリスチャン平和構築チーム)関係者に「イエスは平和のために命を捧げた。私の家族の命も平和のためにささげられた。世界中のクリスチャンに私の話を聞いてもらいたい」と語った。

彼はさらに、「失われた家族の代わりとなるものは何もない。賠償はいらない。ただ、人々に、それがどんな影響を私の心に与えたか知って欲しい」と語った。

クリスチャン平和構築チームは全教会が参加する暴力削減プログラムで、歴史的な平和教会を起源とする。訓練を受けたチームのワーカが世界中の紛争地域に住んでいる。CPTは2002年10月以来イラクにいる。CPTについてのさらなる情報はhttp://www.cpt.orgを参照。CPTプロジェクトの写真はhttp://www.cpt.org/gallery


投稿者:益岡
2005-03-02 00:49:27

ファルージャ:明るみに出る真実

英国「ソーシャリスト・ワーカ」紙が掲載した、2005年1月、ファルージャに援助物資を届けたサラーム・イスマエル医師の証言です。写真が8葉ありますが、文章だけの掲載。

ファルージャ:明るみに出る真実
ソーシャリスト・ワーカ
2005年2月19日第1939号・80ペンス

最初に私を襲ったのはその臭いだった。何とも表現しがたい臭い、そして決して私の記憶から消え去らない臭い。死の臭いだった。

ファルージャでは、何百もの死体が崩れさろうとしているところだった。家の中で、庭で、そして路上で。遺体は、倒れたところで腐りつつあった。男性の、女性の、子どもの遺体。その多くが、犬に半分食べられていた。

憎悪の大きな波が襲ったとき、町の3分の2が一掃され、家々とモスク、学校と診療所が破壊された。米軍の攻撃が持つ残虐で恐ろしい力によるものだった。

その後の数日に私が耳にした証言を、私は一生涯忘れられないだろう。皆さんは、ファルージャで何が起きたか知っているとお考えかも知れない。けれども、真実は、皆さんが想像していただろうよりもひどいものだった。

ファルージャを取り囲む即席難民キャンプの一つサクラウィヤで、私たちは17歳の女性に出会った。「私はフッダ・ファウジ・サラーム・イッサウィです。ファルージャのジョラン地区に住んでいました」と彼女は私に語った。「55歳の隣人を含む私たち5人が、ファルージャ包囲が始まったとき、家から出られなくなりました」。

「2004年11月9日、米軍海兵隊が私たちの家にやってきました。父と隣人が海兵隊兵士たちのいる玄関に行きました。私たちは戦闘員ではありませんでしたので、何も恐れることはないと思っていました。私は台所に駆け込んでベールをかぶりました。海兵隊員たちが家に入って来たとき、覆われていない私の髪を見られるのは良くないことだったからです」。

「そのおかげで私は助かりました。父と隣人が玄関に近づいたとき、米兵は彼らに向かって発砲しました。即死でした」。

「私は13歳の弟と一緒に台所の冷蔵庫の陰に隠れました。兵士たちが入ってきて姉をつかまえました。兵士たちは姉を殴り、それから撃ちました。彼らは私を見つけませんでした。すぐに彼らは立ち去りましたが、立ち去る前に家具を破壊し父のポケットから金を盗んでいきました」。

フッダは私に、姉が息を引き取るとき、フッダはコーランの一節を読み上げて慰めたと述べた。フッダの姉が死んだのは4時間後のことだった。

3日間にわたり、フッダと弟は、殺された家族たちとともに家にいた。けれども喉が乾いたし、食べる物といえばデーツが少しあるだけだった。彼らは、兵士たちが戻ってきて町を解放しようとするのではないかと恐れた。けれども、フッダと弟は米軍狙撃手に見つかった。

フッダは足を撃たれた。弟は逃げたが、背中を撃たれて即死した。「私も死ぬ覚悟を決めました」と彼女は私に言った。「けれども米軍の女性兵士が私を見つけて、病院に連れていったのです」。それからしばらくして、彼女は生き残った家族のメンバーと再会できた。

私はジョラン地区の別の家族の生き残りとも出会った。彼らは私に、ファルージャ包囲攻撃が始まった第二週の末に米軍兵士たちはジョラン地区を一掃したと述べた。その際、イラク国家警備隊は拡声器で、住民に持ち物を全部持ち、白旗を掲げて家から出てくるよう呼びかけた。人々は町の中心にあるジャマー・アル=フルカン・モスク近くに集まるよう命じられたという。

11月12日、イヤド・ナジ・ラティフと家族の8人----その一人は6カ月の子どもだった----が持ち物をかき集め、言われたとおり一団となってモスクに歩いていった。

モスクの外にある大通りに着いたとき、叫び声が聞こえたが、何を叫んでいるのかわからなかった。イヤドは私に、英語の「ナウ」だったのではないかと説明した。それから、発砲が始まった。

米兵が周りの家の屋根に姿を現し、発砲した。イヤドの父は心臓を撃たれ、母は胸を撃たれた。

即死だった。イヤドの兄弟の二人も撃たれた。一人は胸を、もう一人は首を。女性の二人も撃たれた。一人は手を、もう一人は足を。

それから狙撃手はイヤドの兄弟の一人の妻を射殺した。彼女が倒れたとき、5歳の息子が彼女のもとに駆け寄り、遺体をかばうように立った。米軍狙撃手は、この子どもも射殺した。

生き残った人々は、懸命に狙撃手に発砲を止めさせようとした。

けれども、イヤドが私に語ったところでは、白旗を掲げようとした人は片っ端から撃たれたという。数時間後、彼自身が白旗を持って腕を上げた。米軍狙撃手たちは彼の腕を撃った。彼は手を挙げようとした。狙撃手は彼の手を撃った。

血にまみれて

6カ月の子どもを含む5人の生存者は7時間路上にかたまっていた。それから4人が近くの家に這って避難した。

翌朝、首を撃たれた兄弟の一人も家に避難することができた。全員そこに8日間留まった。植物の根と一杯の水だけで生き延びた。水は赤ん坊のためにとっておいた。

8日目に、イラク国家警備隊の隊員が彼らを見つけ出し、ファルージャの病院に連れていった。彼らは、米軍が若い男性はすべて拘束していると耳にしたので、病院から逃げだし、ついに近くの町で治療を受けることができた。

指示されたとおりモスクに行った他の家族の身に何が起きたかは詳しくはわからないという。けれども、路上は血まみれだったと彼らは私に語った。

私がファルージャを訪れたのは1月で、英国から集められた寄付による人道援助コンヴォイに参加したのである。

トラックとバンからなる私たちの小さなコンヴォイは、15トンの小麦と8トンの米、医薬品、孤児のための900着の服を運んでいた。ファルージャ郊外の4つのキャンプに何千人もの難民がひどい状況のもとで避難していると知っていた。

私たちはそこで、家の中で殺された家族についての証言、負傷者が路上に引きずり出されて戦車にひき殺された出来事、481人の民間人の遺体を詰めたコンテナ、計画的な殺人、略奪や残虐行為、信じがたい残虐行為についての証言を聞いた。

廃墟を通って

私たちがファルージャの中に入って調査しようとしたのはそのためだった。町に入ったとき、2004年4月の最初の包囲の際に私が医師として働いていた場所だとはわからなかった。

廃墟の中を亡霊のように歩く人々に出会った。親戚の遺体を探している人々もいた。破壊された家から持ち物を探し出そうとしている人もいた。

あちこちで、小さなグループが食料や燃料のために列を作っていた。ある列では、生き残った人々が毛布を取り合っていた。

一人の老女が目に涙を浮かべて私に近づいてきたときのことは今でも覚えている。彼女は私の腕をつかんで、米軍の空襲のときに爆弾が自分の家を爆撃したと私に言った。屋根が19歳の息子の上に崩れ落ちてきて、息子は両足を切断されたのだと。

助けを呼ぶことはできなかった。道に出ることはできなかった。というのも、米兵が家々の屋根に狙撃手を配置し、夜でもかまわず、外に出た人々を誰彼構わず射殺していたからである。

息子の足から流れる血を止めようと彼女は全力を尽くしたが、無駄だった。彼女はたった一人の息子の傍らに寄り添い、息子の死を見届けた。彼が息を引き取ったのは4時間後のことだった。

ファルージャの総合病院は、包囲攻撃の最初の段階で米軍に占領された。残された唯一の診療所----ヘイ・ナザル----は米軍のミサイルに二度襲われ、薬品も医療器具もすべてが破壊された。

救急車もなかった----けが人を助け出そうとやってきた救急車2台は米兵に狙撃され破壊されていた。

私たちはジョラン地区の家を訪問した。4月の包囲攻撃のときレジスタンスの中心だった、ファルージャ北西部の貧しい労働者階級の地区である。

第二の包囲攻撃のとき懲罰としてこの地域は最も集中的に攻撃されたようだった。私たちは一軒一軒家を見て回った。ベッドの中で家族が死んでいた。居間や台所で人々が斬り殺されていた。どの家も、家具が打ち壊され、物がちらばっていた。

戦士の遺体を見つけることもあった。黒い服を着て弾丸ベルトを身に巻いていた。

けれどもほとんどの家の遺体は民間人のものだった。多くの遺体が部屋着を身にまとい、女性の多くはベールをしていなかった----家族以外の男性が家の中にはいなかったことを意味する。武器も、空の薬莢もなかった。

虐殺後の現場を目撃していることはあきらかだった。身を守るすべを持たない助けもない民間人に対する冷酷な屠殺の現場を。

一体どれだけの人が殺されたのか知っている人はいない。占領軍は、犯罪を隠蔽するためにこの地区をブルドーザで平らにしている。ファルージャで行われたのは野蛮行為である。この世界に住むすべての人々が、真実を伝えられる必要がある。


ファルージャの目撃者:サラーム・イスマエル医師

サラーム・イスマエル医師(28歳)はイラク侵略前バグダードの若手医師団代表だった。2004年4月ファルージャにいて、米軍のファルージャ攻撃によるけが人の治療にあたった。2004年末、英国を訪問しファルージャへの援助車列への資金集めを行なった。

現在、英国政府はサラーム・イスマエル医師の証言を英国市民に聞かせ違っていない。先週(2月上旬)彼は労働組合や反戦集会で証言するために英国を訪問する予定だったが、入国を拒否された。入国拒否の理由は、彼は昨年英国に来たとき旅費の基本費用をまかなう金を受け取り、それが「不法就労」にあたるというものであった。

サラーム・イスマエルは真実を伝えたいだけである。けれども、ブッシュやブレアが大声で叫ぶイラクの自由は、イラク市民の自由な旅行さえ許さないようなものであるらしい。

「ストップ・ウォー連合」の支援のもとで、今週、サラーム・イスマエル医師の英国訪問を可能にするよう、法的申し立てが提起された。


できるだけ多くの人に、ファルージャで何が起きたか知って欲しいと切に願います。とはいえ、情けないことに私(益岡)はしばらく様々な移動のため、日本で写真展を行うといったことができずにいます。

もし当ブログあるいはイラク関係の状況を見て、写真展等やってみようと思われる方がいらっしゃいましたら、最近ファルージャ写真展を開催したこちらをご参照下さい(メールはstopuswar(atmarkhere)jca.apc.org)。パネルの貸し出しなども可能なようです。自分が動けずに情報の紹介だけというのも申し訳ない話ですが。

投稿者:益岡
2005-03-01 00:14:09

大阪でのファルージャ写真展報告

当ブログでしばらく前に紹介したダール・ジャマイルの写真展(「ダール・ジャマイルが告発するファルージャの大虐殺」写真パネル展)が終了したとのこと、その報告がありました。

当日の様子と参加者の感想は、こちらにあります。

写真展を組織した方々(アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局)が、「2004年11月 ファルージャの大虐殺」というブックレットを作成しています。一部700円。『ファルージャ2004年4月』とあわせて、是非お読みいただきたい資料です。

また、同様の写真展の開催をお考えの方々のために、写真・パネルの貸出しも行うようです。詳細については、stopuswar(atmarkhere)jca.apc.orgさんにお問い合わせ下さい。

投稿者:益岡
2005-02-28 21:18:24

開戦時の英国司法長官の判断について(ガーディアン,2月24日)

1つ前の記事のフォローアップ。2003年3月17日の司法長官の国会答弁を書いたのは司法長官ではなく,ブレア側近であるとのガーディアンの判断根拠を述べた記事。

Transcripts show No 10's hand in war legal advice
Richard Norton-Taylor and Michael White
Thursday February 24, 2005
http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,1424130,00.html

司法長官のゴールドスミス卿から非公式に,公的な調査委員会に提出された証拠のトランスクリプトには,卿の名前で国会に示されたイラク戦争の正当性についての決定的なアドバイスが,卿に代わってトニー・ブレア首相の側近中の側近2名によって書かれたものだったことを示唆している。

本紙が見たその文書には,司法長官とバトラー卿【=2004年の「バトラー・インクワイアリ」の責任者】との非公式の会話が示されている。その会話はイラクに対する戦争に至る段階での情報の利用についての調査の過程で行なわれたものである。

その会話において,司法長官は,侵略への英国の参加を法的に裏付けた自身の国会答弁について,当時の内務ministerであるチャールズ・ファルコナーと,首相付きdirector of political-government relationsであるバロネス・モーガンによって「定められた(set out)」ということを示している。

このバトラー証拠と明らかに矛盾するが,司法長官は昨日,首相官邸が自身の決定的なステートメントに対し何らかの影響を与えたということを否定しようとしている。

「ナンバー10(=官邸)があのステートメントを書いたなどと取りざたするとは,ナンセンスである」と卿は発言した。

さらに卿は,「軍事行動はすでに存在していた国連安保理決議のもとにおいて合法であるというのは,純粋に私自身の,誰からも影響されていない見解(view)であった。国会でのステートメントは純粋に私自身の見解であり,あのような見解を示すようにとの圧力はかけられていない」と述べた。

ゴールドスミス卿はバトラー卿に対し,軍事行動の合法性に関する自身の新たな――変更された――見解のことを,2003年3月13日にダウニング・ストリートでの会合において,ファルコナー卿とバロネス・モーガンと話し合った,と語った。

ゴールドスミス卿はまた,バトラー・インクワイアリーに対し,その会合の記録がとられているかどうかはわからないと語った。【次の1文は現在形で】メモは一切取られていないことは明白であるように思われる――バトラー調査委員会の最終報告書には省略箇所が示されており,それは「非公式なものであり,政府の手続きの性質上公表は控えるべきもの」と同調査委員会が呼んでいる懸念を表している。

昨日のコメントに照らしてみると意外なことに,ゴールドスミス卿はバトラー・インクワイアリーに対し,「むろん彼らは端的に」3月17日の国会ステートメントの「私の見解を定めた」と語っている。このステートメントは貴族院(上院)にて,ゴールドスミス卿の名前のもとに文書のかたちで公表され,庶民院(下院)にはゴールドスミス卿の法的「意見(opinion)」として閣僚らによって示された。労働・保守両党の要職にある下院議員たちは,ゴールドスミス卿のステートメントに助けられて軍事行動に賛成する票を投じることに傾いたのだということを,はっきりと述べている。

2003年のイラク戦争の合法性についての司法長官のアドバイスをすべて開示せよという要求が改めて出されているが,昨日ダウニング・ストリートはそれを払いのけ,この件についてのゴールドスミス卿の判断,見解および言葉はすべて卿自身のものであり,官邸のものではない,と主張した。

しかしゴールドスミス卿の行動を弁護する者はほとんどいない。というのは,卿は必要とされていたものに沿うように動いていたからだ。「まったく見苦しい行動でしたが,この業種(=司法の世界)でこんなことをしたのは,ゴールドスミス卿だけでしょうね」と,あるウェストミンスター(=政界)の有力者(one senior Westminster source)は語った。

ロビン・クック前外相は昨晩,自身は戦争が始まる前日に(院内総務を)辞したため,閣僚に対しゴールドスミス卿が法的な説明をするのを聞いていない,と語った。「2番目の意見を正式にお書きになったことはないのではないかと思っています」とクック前外相は本紙に語った。

本紙とのインタビューの前にクック前外相はチャンネル4ニュースで次のように語った。「今回のことが明るみに出て私がびっくりしたのは,公に私たちが目にした唯一の法的説明である司法長官の答弁のドラフトを書いたのが,首相官邸の2人の政治家であったということがわかった,ということです。」

「これは私の目にはまったく不適当なことに見えます。」

ロンドンのクイーン・メアリ・コレッジで現代史を教えるピーター・ヘネシー氏は,戦争に至る数日の間の閣僚らの振舞いは,「実に驚異的だった(truly breathtaking)」と表現した。それは「政府というシステム全体」に影を投げかけるものだとヘネシー氏は述べている。

国際法律家もまた,ゴールドスミス卿と首相官邸との近しい関係に疑問を投げかける。「ゴールドスミス卿の立場の性質上,卿の2つの役割が――政治家の役割と法律アドヴァイザーの役割が――ときにはまったく正反対の方向に引っ張り合うことにもなります」と,ロンドンのユニヴァーシティ・コレッジで公法を教えるジェフリー・ジョウェル氏は語る。

ゴールドスミス卿は,2003年初めには,新たな国連安保理決議のない場合のイラクに対する軍事行動の合法性について疑問を抱いていたことが知られている。2003年3月7日にゴールドスミス卿はブレア首相へのアドバイスを書面にまとめているが,それは第二の決議がない場合のイラク攻撃は,国際法廷では違法と判断される可能性があると警告するものだった。

ゴールドスミス司法長官が戦争について法的アドバイスを公式に書面に書いたのは,これが最後のものだったようである――政府がこれまで繰り返し,公表を拒んできているアドバイスである。

3月13日にゴールドスミス卿は第二の国連決議が必要との自己の見解を棄て,国連決議のない場合でも結局は侵略は合法であるとの見解を示すようになった。

【過去と現在の比較一覧】
■2004年5月にバトラー・インクワイアリーでゴールドスミス卿が述べたこと:

バトラー卿:(3月7日の後は)イラクについては正式なアドバイスは出しておられませんね。

ゴールドスミス卿:私は(自分の)見解を述べました……3月13日の,バロネス・モーガンとファルコナー卿との会合の場でです。


バトラー卿:それは公式に議事録に記録されていましたか?

ゴールドスミス卿:それは申し上げることができません。首相官邸があの会合について記録を持っているかもしれませんがそれがどのようなものかを私は知りません。もちろん彼らは端的に,国会答弁での私の見解を定めました。(They shortly, of course, set out my view in a PQ.)


■昨日ゴールドスミス卿が述べたこと:
国会でのステートメントは純粋に私自身の見解であり,あのような見解を示すようにとの圧力はかけられていない。官邸があのステートメントを書いたなどと取りざたするとは,ナンセンスである。




以下は細かな補足です。

上記文中で「侵略」という日本語を宛てた語は,原語(英語)ではinvasionです。日本語で「侵略」というと合法も非合法もないだろうという印象があるかもしれませんが,英語では,lawful invasion,つまり「合法的侵略」という表現も不可能ではないようです(Googleでフレーズ検索)。上記文中にはこのような表現が出てきますが,とにかく機械的にやりました。なので,もし違和感があるとするなら,それは機械的に訳語を当てはめた私の方法のせいだと思います。

なお,国際法ではいわゆる「侵略」はaggression「攻撃」(通例“自分から手を出す”ことをいう)という語が用いられているんではないかと思います……ICC(国際刑事裁判所)の「侵略の罪」は,英語ではthe crime of aggressionです。

投稿者:いけだ
2005-02-26 22:04:20

英司法長官の判断は誰が書いたのか?(ガーディアン,2月23日)

これは相当のニュースだと思う。英国でも米国と同様に「情報の誤り」ゆえにイラクに大量破壊兵器があると断定して開戦に至った,ということで2004年1月から7月にかけて公的な調査結果がまとめられたが,問題はほかにあったのではないかというガーディアンのスクープ報道,2月23日。

このガーディアンの報道は,司法長官の公式な意見(opinion)についてのもの。

2003年3月の開戦直前,ゴールドスミス司法長官(the attorney general, Lord Goldsmith)が,英国会でイラクに対する武力行使の法的正当性を説明した。

ゴールドスミス司法長官の国会での答弁は,英国下院で行なわれた開戦決議で開戦に賛成票を投じた国会議員たちの判断の根拠となるものだった。

その司法長官答弁の内容が,「Wind Report」さんの2003年5月25日に箇条書きでまとめられているのを検索で見つけたので,引用させていただく。
ゴールドスミス卿の英国国会答弁(いわゆる復活理論)
1990年の安保理決議678は,イラクに決議660(クウェートからの撤退命令)を遵守させるため,武力行使を含むあらゆる手段 (to use all necessary means) をとること容認している。⇒湾岸戦争の勃発
湾岸戦争後,安保理決議687は,イラクの武装解除を条件として,停戦=決議678の効力を停止させた。
しかし2003年の安保理決議1441は,イラクが決議687に対する重大な違反 (material breach) を犯していることを示している。これは決議687の前提を失わせるものである。
したがって,決議678の効力が復活 (revival) し,米英はイラクに武力攻撃を行う権限を得る。
参照⇒ ATTORNEY GENERAL CLARIFIES LEGAL BASIS FOR USE OF FORCE AGAINST IRAQ


この,「決議1441(2003年)ゆえに決議687(1991年)が前提を失うので決議678(1990年)が有効となる」という,あんたはタイムトラベラーですか的強引な理屈付けは,2003年2月に英米が国連安保理でその時点でのイラクへの武力行使を認める新決議を求めたが,仏露中の反対(拒否権行使の名言または行使の示唆)で実現しなかったために出てきたものである。つまり,いわば苦し紛れの,何とかして「これを違法ではないものにする」ために,無理やりこじつけた解釈だった。

この解釈の背景が,2年近く経って明らかになりつつある,というのがガーディアン記事の大枠。ガーディアン記事はちょっとわかりづらいのだが,要は,ゴールドスミス司法長官には「戦争は違法なものになるかもしれない」との認識があった,というのが1点。そして「決議678が有効となる」というゴールドスミス司法長官の国会答弁は,司法長官自身が国会で述べたものではなく文書で提出されたものだったのだが,その文書は司法長官が書いたものではなかった(長官は口頭で述べただけ)というのが1点――これは英国の正式な手続きに反することである。さらに,その司法長官の見解というのは,司法長官自身のものではなく,長官が面会したブレアの側近中の側近2人によって固められたものであったと,長官自身が昨年明らかにしているというのが1点。さらに,長官が訪米(というか「呼び出された」に近い)していたということが1点。

なお,下記ガーディアン記事中では「3月17日の国会答弁」となっているものは,英外務省のATTORNEY GENERAL CLARIFIES LEGAL BASIS FOR USE OF FORCE AGAINST IRAQの日付はTUESDAY 18 MARCH 2003だが,18日というのは文書がサイトにアップロードされた日のことで,このページの末尾には17 March 2003との日付がある。質問者はBaroness Ramsay of Cartvaleで,労働党の上院議員(Labour peer)。

以下,人の肩書きなどは厳密な訳にしていません。肩書きとかがなくてもけっこうややこしい記事で,日本語にすることでよけいにややこしくなっているかもしれないので,わかりづらいという場合は原文をご参照ください。というか,原文のほうがすっきりしているかもしれません。また,opinion, advice, viewの重み付けをすることに失敗している訳文なので,正確なところは,必ず原文をご参照ください。

Revealed: the rush to war
Richard Norton-Taylor
Wednesday February 23, 2005
http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,1423304,00.html

司法長官のゴールドスミス卿は,イラク侵略まで2週間足らずとなっていたときに,軍事行動は違法と判断されうると警告していた。

英国政府は起訴されるかもしれないとの大きな懸念を抱いており,そのために国際法廷での法的行動に備えるために法律家のチームを編成していた。

そして,戦争の数日前にゴールドスミス卿の名前で――ただし実際にはゴールドスミス卿ではなくministers【←英国の場合「大臣」ではない場合があるので原語のままにします】が卿の公式の意見として下院での決定的な採決の前に提示したものであるが――出された国会答弁は,司法長官の執務室ではなく,ダウニング・ストリート【=首相官邸】でまとめられていた。

戦争についての法的正当性を政府がいかに作り上げたか(manipulated)および,政府の最上層部の法律家【=司法長官のこと】にかけられていた政治的圧力についての全体像が,今日,本紙報道で明らかにされる。

当時のchief of defence staff(参謀総長)ボイス卿(Lord Boyce)によって求められたような,イラク侵略が合法であるとの明白に公的な法的意見を,ゴールドスミス卿が書いたこともないようである。

また,戦争に抗議して辞任したエリザベス・ウィルムハースト(Elizabeth Wilmshurst)外務省法務副顧問(deputy legal adviser at the Foreign Office)が,辞任に際して書いた書状で,計画されていたイラク侵略は「侵略の罪(crime of aggression)」であると述べていることも新たにわかった。

ウィルムハースト元副顧問は,「国際秩序と法の統治に多大な害をなす」状況での軍事行動には賛成することができないと述べている。

彼女の断固たるコメント,および,戦争準備段階でのministersとゴールドスミス卿との関係についての詳細は,シェリー・ブース(Cherie Booth:Tony Blair夫人)のMatrix chambers所属の王室顧問弁護士(QC)で,ロンドンのユニヴァシティ・コレッジの国際法教授であるフィリップ・サンズ(Philippe Sands)の著書に書かれている。

サンズ氏の著書『法なき世界(Lawless World)』からの抜粋が,本日の本紙に特別に掲載される。【→ガーディアンに掲載された抜粋|">これも抜粋@ガーディアン版元Penguin社の書籍紹介ページ

ゴールドスミス卿は,2003年3月7日の文書でトニー・ブレア首相に対し,イラクに対する武力行使は違法となる可能性がある(could be illegal)と警告していた。軍事行動を認める2つ目の国連決議を得たほうが安全であろう,と。

サンズ氏は「政府はそのようなことになる可能性についておおいに懸念を抱いており,そのために,将来あるかもしれない国際訴訟に備えて法律家のチームを結成する処置をとった」と書いている。

政府は3月7日の文書を公表することを拒否した。その文書はごく少数の政府高官(senior ministers)の間だけに回された。ゴールドスミス卿が内閣に与えたのは,3月17日に卿の名前で出された国会答弁の口頭での発表だけだった。【国会答弁は書面で卿から内閣に渡されたわけではなかった。】

これはofficial ministerial code【←正式な行政上の手続き,ということですが,定訳不明なので原語のまま】に沿っていない。official ministerial codeでは,政府のlaw officersによる意見は全文を書面にしたものが閣僚全員に示されなければならないとしている。

サンズ氏によれば,2003年3月13日,ゴールドスミス卿は,内務省ministerのファルコナー卿(Lord Falconer)と,ブレア首相付きdirector of political and government relationsのバロネス・モーガン(Baroness Morgan:註=「バロネス」は名前ではなく称号)に対し,結局のところ侵略は新たな国連安保理決議がなくても合法となるであろうと考えると述べた,という。

3月17日,労働党の上院議員であるバロネス・ラムゼー(Baroness Ramsay)の質問に答えて,ゴールドスミス卿は,イラクが国連決議1441に実質的に違反し続けていることは「明白」であると述べている。

「誰にとって明白であると?」とサンズ氏は問うている。ゴールドスミス卿の答えは「ゴールドスミス司法長官が以前に示したアドバイスのsummaryでもprecisでもない」ことは明らかだ,と彼は言う。【←訳がへたくそですみませんが,「ゴールドスミス卿はイラクが1441に違反し続けているということを以前は一度も言っていない」という内容。】

さらにサンズ氏は付け加える。「3月17日の声明は,通常の意味での正式で完全な法的意見またアドバイスを伴ったものとは見えない。司法長官によって書かれていたものであるにせよ,長官の下にいるバリスターによって独自に書かれたものであるにせよ。」

これとは別に,本紙の取材で,ゴールドスミス卿が,戦争に至る段階での情報の使用についての特別調査委員会【→「バトラー・インクワイアリ」のこと】に対して,ファルコナー卿とバロネス・モーガンとの面会は非公式のものだったと述べていることがわかった。その面会が公式に記録されているかどうかはわからなかったという。

ゴールドスミス卿はまた,3月17日の国会答弁書を書いたのは自分ではないとはっきりさせている。彼はバトラー・インクワイアリ【←2004年7月に最終報告書が出された】で,ファルコナー卿とバロネス・モーガンを指して,彼らが「私の見解(view)を定めた(set out)」と述べている。

しかし(国会答弁が行なわれた)翌3月18日には下院の議事日程表において,その答弁は司法長官の「意見(opinion)」であると述べられた。(18日の)討議においては,労働党の有力な一般議員と保守党の役職付き議員が,(採決に際して)戦争に賛成する票を投じる決意をしたことについて,それ(=17日の答弁)が重要な要素であると述べた。

元外相(97年~01年,第一次ブレア内閣)で下院議長(03年に開戦に抗議して辞任)を務めたロビン・クック氏は,昨日,本紙の今回の報道について,驚くべきことである(alarming)と述べた。「この戦争についての法的な意見がどの程度まで政治的プロセスの産物であったのかを,これは劇的に暴いている」とクック氏は述べた。

The case for seeing the attorney general's original advice was now overwhelming, Mr Cook added.「国会で司法長官の見解として役目を果たしていたものが,実は,首相の側近中の側近2人の見解であったということがわかったのだから」とクック氏は述べた。

LibDem【=自由民主党】の外交スポークスマンであるサー・メンジース・キャンベル(Sir Menzies Campbell)は,政府の立場は非常に悪くなったと述べた。「司法長官のアドバイスの内容と,それが部分的に公開されたプロセスは,精査に耐えるものではない」とサー・メンジースは述べた。

さらにまた,サー・メンジースは「イラクに対する軍事行動を認める2003年3月18日に下院を通過した政府提出の動議は,そのアドバイスに基づいていたことは明らかで,それだけにいっそう事態は深刻である」と付け加えた。

さらにサー・メンジースは「政府は公共の利益ゆえに司法長官のアドバイスの全文を公開しないことが正当だとしているが,こうなると完全な公開をしなければ公共の利益には益さない」と続けた。

侵略に先立つ数週間の間に,ゴールドスミス卿は2度見解を変更した。2003年3月14日のブレア首相宛書面では,ゴールドスミス卿は,イラクがまだ大量破壊兵器を生産しているという「強い証拠」が存在していることが「欠かせない」と書いている。

その翌日,首相は次のように返信した。「イラクがさらに深くその義務に反しているということは,総理大臣の明白な見解であるということを確実にしておくためにこの書面を書きます。」

そしてその日に,ボイス卿は司法長官のオフィスからの2行のメモを受け取った。そこに書かれていた明白なアドバイスはボイス卿の求めていたものだったとボイス卿は述べている。軍幹部の懸念がどの程度のものであったかについては,ロンドンのクイーン・メアリ・コレッジの現代史教授,ピーター・ヘネシー(Peter Hennessy)が引用した,陸軍トップのサー・マイク・ジャクソン将軍(Gen Sir Mike Jackson)の言葉に反映されている。「最近私はバルカン半島でかなりの時間をかけてミロシェヴィッチは獄中にあるのだということを確かめた」とサー・マイクは述べた。「私はハーグでミロシェヴィッチの隣の独房に収監されるつもりはない。」

(『法なき世界』の著者)サンズ氏は,ゴールドスミス卿が2003年2月にワシントンを訪問し,ホワイトハウスの国家安全保障委員会の法務顧問,ジョン・ベリンジャー(John Bellinger)氏と会ったことを記録している。後にある高官がサンズ氏に「あなたの(国の司法)長官とはトラブルがあったので,結局はこちらに来ていただくことになった」と語っている。

ゴールドスミス卿のスポークスウーマンは昨日「長官は何度も,プロセスの件に関しては話をするつもりはないと申し上げております」と言った。3月17日の国会答弁は「長官ご自身の答弁」であると彼女は言い,その文書がいかにまとめられたかというプロセスについては長官は話をしないと結んだ。

The Department for Constitutional Affairsでは,答弁をまとめるに際してファルコナー卿が役割を果たしたかどうかについては言うことができないとしている。


最後に出てくるThe Department for Constitutional Affairsは,the Lord Chancellor's Department(大法官省)がリネームされたものです(参考)が,「法務省」にあたるところと考えていいのではないかと思います。そしてファルコナー卿はそのトップです。ブレア首相との付き合いは,パブリックスクール時代にさかのぼり,ブレアが付き合っていた女の子はファルコナー卿の意中の人であり,その彼女がブレアと別れたあとに付き合ったのがファルコナー卿だとか,それぞれ別の大学(オクスフォードとケンブリッジ)に進んで卒業してバリスター(法廷弁護士)として働いていたときに偶然再会し,以降親交を深め,イズリントンのフラットで隣同士になって……というようなことがBBC NEWS記事に書かれています。


このガーディアン記事は,当然のことながら反響をよび,2003年5月に辞任したクレア・ショート元開発相(労働党議員)は「ゴールドスミス司法長官のアドバイスについての国会(上院=貴族院)での調査を求める」と言っているのですが(記事)……クレア・ショートは問題の時期は閣僚だったので――それも「国連決議がなければ辞任する」とずっと公言していたのですが――実際にどういうものが閣僚に示されたかは知っているわけです。

一方ゴールドスミス卿はガーディアンの報道に示唆されている「決定的だった法的アドバイスはブレア側近(Downing Street insiders)が書いたものではないか」ということを「ナンセンス」と一蹴。

あといくつか,ガーディアン掲載のフォロアップ記事をリンクしておきます。

No 10 talks: what Goldsmith told Iraq inquiry
Richard Norton-Taylor
Thursday February 24, 2005
http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,1424035,00.html

No 10 did not summarise Iraq advice, says Goldsmith
Sarah Left, Matthew Tempest and agencies
Friday February 25, 2005
http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,1425647,00.html

Blair rejects calls to publish war advice
Matthew Tempest and agencies
Friday February 25, 2005
http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,1425381,00.html

Pressure grows on No 10 to publish full legal advice on war
Richard Norton-Taylor, David Hencke and Clare Dyer
Friday February 25, 2005
http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,1425047,00.html

全体としては,ガーディアンはゴールドスミス卿の国会答弁を書いたのはブレア側近2人ではないかと指摘し,ゴールドスミス卿はそれを全面否定し自分で書いたと述べ,ブレア首相は文書の開示を拒否,これに対して「ゴールドスミス卿が書いた文書を開示すべき」との声が野党(保守党とLibDem)とクレア・ショートから上がっている,ということです。ジョン・メイジャー前首相(保守党・政界は引退)は「今それをしない(開示しない)ことに正当な理由はない "no justification for not doing so now"」とコメントしています。

ちなみに,英国は総選挙を5月に控えています。

なお,記事中で紹介されている書籍,Lawless Worldの著者,Philippe Sandsのプロフィールは:

http://www.penguin.co.uk/にある著者プロフィール

Phillipe Sands QC is a practising barrister in the Matrix Chambers and a professor of international law at University College, London. He appears regularly on news and current affairs programmes in the UK and abroad, reviews and writes for the British broadsheets and has been involved in many of the recent high profile cases at the World Court.

フィリップ・サンズ王室顧問弁護士は,マトリクス・チャンバーズに所属する法廷弁護士で,ロンドンのユニヴァーシティ・コレッジの国際法教授。英国内外のニュース・時事問題番組に多く出演し,英国の(タブロイドではない)新聞に書いているほか,国際司法裁判所での注目度の高い裁判にも多く関わっている。


また,検索をしてみたところ,2003年3月にガーディアンに掲載された国際法を教える立場にある者による声明にも名を連ねています。声明の最後の部分を引いておくと:
A decision to undertake military action in Iraq without proper security council authorisation will seriously undermine the international rule of law. Of course, even with that authorisation, serious questions would remain. A lawful war is not necessarily a just, prudent or humanitarian war.


また,ゴールドスミス卿が開戦に先立っていかなる役割を果たしたかについては,昨年2月(ほぼちょうど1年前ですね)にあったGCHQのキャサリン・ガンさんの一件もご参照のほど。


投稿者:いけだ
2005-02-26 07:02:43