.comment-link {margin-left:.6em;}

teanotwar - mirror/archive (Japanese fonts required)

Official mirror site of our blog, for those who can't access it, http://teanotwar.blogtribe.org, due to the technical problems, firewall setups, etc. http://teanotwar.blogtribe.org/のミラーリングを目的としています。記事部分に何も表示されていない場合は下までスクロールしてください。個別記事へのリンクは,記事の投稿時間のところをクリックすれば表示されます。

2005/03/14

「イラク人の身にいつも起こっていることだ」(CPT)

CPTのSheila Provencherさんによる,3月7日から9日の日記のような記事。エレクトロニック・イラク,3月11日掲載。

プロヴェンチャーさんは,「メタリカ」(米軍が大音量でかけているというやかましい音楽の筆頭格として昨年のいくつかの記事に名が挙げられていた)のTシャツを着たイラク人通訳と話をし,「国際女性の日」にバグダードで行なわれたデモを取材し,「女性の意思」のハナさんと話をし,国連の人権代表およびイラク人人道支援組織の人と話をしています。


「イラク人の身にいつも起こっていることだ」
シェイラ・プロヴェンチャー
Electronic Iraq 原文
2005年3月11日

2005年3月7日

23歳のメタリカTシャツを着た新しい通訳は一緒にいて楽しい人だ。私は、あなたは私よりアメリカ人っぽいと彼をからかうことがある。というのも、彼はポップカルチャーについてとても沢山知っているから。けれども彼はポップカルチャーの装いの下に深刻な側面を持っている:一年前、彼はイラク南部のブッカ牢獄キャンプに11カ月入れられていた。それ以来今に至るまで、自分が何の罪で告発されていたのか彼は知らない。

彼は私に自分の経験を話してくれた:「時によっては、兵士たちと友達になった。彼らは守衛というよりは友人に近かった。『わかるだろう。我々もまた牢獄にいるようなものだ』と彼らは言うものだった。彼らも底にいたくなかったんだ。我々のテントに来てトランプをしたりした」。

「牢獄から出たとき、道に迷ったように感じ落ち込んだ。ブッカ・キャンプでは、少なくともやることがあった----私のキャンプには500人の被拘留者がいて、翻訳しなくてはならなかった。自分が牢獄にいることを忘れられた。釈放されたとき、目的は何もなかった。混乱していた。コンピュータを使おうとしたとき、使い方を忘れたみたいだった。ある日私は市場にいて、食べ物を買うためにタバコで支払おうとポケットに手を入れた。牢獄ではタバコを現金として使ってたんだ。適応するのは難しかった。そこで、私は「女性の意志」で働き始めた。母が働いている人権団体だ。今私は過去を振り返って、これらすべてがある理由で起きたことがわかった」。

2005年3月8日:国際女性の日

我々クリスチャン平和構築チーム(CPT)の4人はバグダードのフィルドス広場でのデモに参加した。イラク女性自由協会と一緒にだった。驚嘆した。頭にスカーフをまとってバナーを掲げた少女たち、黒いアバヤとヒジャブで身を覆った年輩の女性たち、ジーンズとTシャツを着た和解女性たち。彼女たちは男女同権、宗教と法の区別、そしてアメリカ合州国による占領の集結を求めて声を挙げた。やはり占領の集結を望む4人のアメリカ人が参加したことを喜んでいたようだった。暴力でではなく声で抵抗するのは美しいことだった。

デモ行進をしていた道沿いの鉄線から数ヤードしか離れていないところに、コンクリートの割れ目から小さな黄色い花が顔を出しているのが見えた。

それからクリフと私はハナが創設した組織「女性の意志」を訪れた。ハナは目に陽気さと決意とを讃えたダイナミックな女性である。私たちは、イラクにある米軍の牢獄に裁判なしに投獄されているイラク人女性たちについて話をした。彼女たちの状況に注目を集める行動を思いついたとき、ハナはすぐにその行動に飛びついた。「そう、私たちはそれをしなくては」と彼女は言った。「行進するのがたった5人でも、一歩を踏み出せば、他の人たちも後に続く。私はそう信じている」。

2005年3月9日

イラクの生活はローラーコースターに似ている。朝6時半、ベッドと窓が揺れたため目が覚めた。自動車爆弾が一マイルほど先で爆発したのだ。いつも通り何が起きたか見に屋上に上った。黒煙が次から次へとあがっていることから、給油所ではないかと思った。周囲は2週間ほど静かだったが、今日は一日中鈍い「ブーン」が続いた。

爆弾を、テロリストたちがすることとだけ見るのは簡単だが、ここイラクで爆発を体に感ずるとき、私はいつも2003年3月の「衝撃と畏怖」作戦の下ではどんな状況だったのだろうと考えざるを得ない。私が訊ねたイラク人は誰もが、米国の爆撃に比べられるものなど一つもないと語った。今朝、通訳の一人が私に言った:「あなたには想像できないだろう。地獄を旅するようなものだ」。

今日、それから、私は、国連の人権代表、そしてバグダード西部の村出身のイラク人同僚の一人との打合せに参加していた。イラク人の友人は、レジスタンスと米軍駐留の間の細い綱をわたっていた:彼の人道団体はプロジェクトのためにCPAから資金を受けているため、レジスタンスからは占領協力者と見られている。昨年夏に私もあったことのある親切な彼の親友は数週間前、レジスタンスに射殺されていた。けれども私のイラク人同僚にとって、米軍の占領も全く同じように危険なものである。昨年秋、米軍は、彼が村の統治評議会のメンバーだというだけで、レジスタンスではないかとの疑いをかけ、彼を不正に6週間拘留した。彼の車は軍の車列が引き起こした事故に巻き込まれ、発砲を受け、それから戦車に粉砕された。米軍は彼への賠償支払いを拒否した。

彼は国連職員に自分の村で起きていることを伝えた:「午後10時から朝5時まで外出禁止令が布かれる」。

「外出禁止令に違反したらどうなるのか?」と国連使節が訊いた。

友人は憂鬱そうな表情になった。「そのために多くの事故が起きている。兵士たちは誤って家族全員を撃ったりしている----誰かが病院に行かなくてはならなかったり、病気だったりして外出禁止令を破ったとき。多くの誤写がある」。

友人の話を聞いていた私は、米軍兵士に撃たれたイタリア人ジャーナリストとそその護衛の話を読んだときの私の反応を思い起こしていた。最初のショックが去ったあと心に浮かんだ最初のことは:「イラク人の身にいつも起こっていることだ」というものだった。一年前、米軍検問所で誤って撃たれた銃弾だらけのイラク人男性の遺体の写真を私は持っている。

今日の夜、私は電話であるイラク人女性と話をした。彼女の妹は空港の重警備監獄に投獄された。この女性と妹は、昨年7カ月以上投獄されていた。その間、やはり投獄されていた弟の遺体が彼女たちの膝元に投げ込まれた。彼女たちは7月、当局が彼女たちはレジスタンスに関与していないと判断して、ようやく釈放された。2週間前、米軍とイラク軍の兵士たちが彼女の妹の家を再び侵入捜査し、妹を連れ去った。彼女の声は疲れていて悲しげだった。「できればあとで」と彼女は言った。

眠りに就く前、バグダード西部の村に住む友人の言葉を思い出した:「この間ずっと我々と一緒にいるあなたはとても勇敢だ。家族のように思っている」。

勇敢なのは彼のほうだということに彼はほとんど気付いていない。


ファイル作成者:益岡さん
投稿代行(表題&前置き作成含):いけだ
2005-03-14 16:30:55

子どもに対する拷問

米国市民的自由連合(ACLU)が情報公開法で入手した文書から、アブグレイブの被拘留者の中に子どもがいたことがはっきりと明るみに出ました。

子どもに対する拷問についての文書
ラフール・マハジャン
EmpireNotes原文
2005年3月11日

ACLUが最近情報公開法のもとで入手した文書を公開したため、米国のメディアは、アブグレイブの被拘留者の一部は子どもだったことを再び発見した。このことは、昨年スキャンダルが最初に明るみに出たときにそうではないかと思われていたことである。どうやら、ジャニス・カーピンスキー准将とのインタビューの書き起こしが、「11歳以下の子どもが拘留されていることに関する最初の記録された証拠である」らしい。もちろん、誰が記録を行なっているかによるが。

私がリンクしたAP発の記事は、「軍士官たちは、アブグレイブで写真に撮られたような虐待を未成年の被拘留者に対しては行なっていないと述べている」と書いた後で、実際に未成年の被拘留者が受けたいくつかの「虐待」を報じている。例えば次のくだりを見てみよう:

もう一人の兵士は2004年1月、米兵たちがイラク軍将軍の17歳の息子を拘留して体に水をかけ泥を塗ったと語った。息子が寒さの中で凍えるのを将軍に見せることで将軍を「壊した」と。

つまり、父親である将軍を罰するために、米兵たちはその息子を拷問したのである。私は、米軍が、レジスタンスに参加していると米軍が疑いをかけた男たちに関係する女性や子どもを捕虜に取ると以前にも書いたことがある。また、米軍が、これらの捕虜を拷問することについても。私がこれらを書いたのは、昨年の5月から7月であるが、それ以来、この最も見下げ果てた行為について、メディアではほとんど何一つ目にすることがなかった。

日本の自衛隊が参加している占領軍の実態です。

ラフール・マハジャンは『ファルージャ2004年4月』の著者の一人。


投稿者:益岡
2005-03-13 09:42:16

私がイラクについて耳にしたこと (1)

米国によるイラク侵略から2年。日本で小泉政権が言葉への最低限の誠意を崩壊させている中、イラクについて何が語られてきたかを振り返る記事です。長いため、間を置いて順次掲載します。

私がイラクについて耳にしたこと (1)
エリオット・ワインバーガー
ロンドン・レビュー・オブ・ブックス原文
2005年2月3日

1992年、第一次湾岸戦争の一年後、私は、当時国防長官だったディック・チェイニーが米軍がバグダードを侵略して「イラクを奪取し支配しようとして問題に引きずり込まれなかった」ことは賢明だったと語るのを聞いた。私は彼が次のように語るのを聞いた:「私が自問するのは、サダムはこれ以上どれだけの米国人犠牲者を出す価値があるのかという点だ。答えは、まるでないというものだ」。

2001年2月、私は、コリン・パウエルが、サダム・フセインは「大量破壊兵器に関して何ら重要なものを開発していない。彼は隣国に対し通常兵器を使うこともできない」と述べるのを耳にした。

同じ月、私はCIA報告が「イラクが『砂漠のキツネ』作戦以来の機関を大量破壊兵器計画再建に使ったという直接的証拠を我々は有していない」と述べるのを耳にした。

2001年7月、私は、コンドリーザ・ライスが「我々は彼の兵器を彼から奪っておくことに成功している。彼の軍は再建されていない」と述べるのを耳にした。

2001年9月11日、米国に航空機が攻撃を加えた6時間後、私は、ドナルド・ラムズフェルドが、これはイラクを「叩く」チャンスかも知れないと言うのを耳にした。私は彼が:「大規模に、一気に全部やれ。関係があってもなくても」と語るのを耳にした。

私は、コンドリーザ・ライスが「これらのチャンスをどうやって利用するのか?」と訊ねるのを聞いた。

2001年9月11日、私は、ペンタゴンにイラク侵略計画を開始するよう命ずるトップシークレットの文書に米国大統領が署名したことを聞いた。また、その数カ月後、大統領が秘密裡にかつ違法に、議会がアフガニスタンの作戦に承認した7億ドルを新たな前線の準備に振り向けたことを聞いた。

2002年2月、私はある匿名の「上級軍司令官」が次のように言うのを耳にした:「我々は軍と諜報の要員と資源をアフガニスタンからイラクでの将来の戦争準備のために振り向けている」。

私は、米国大統領が、イラクは「比べようもないほど差し迫った脅威」であり、「イラク政権がかつて開発された中で最も殺人的な兵器の一部を今も所有し隠しているのは疑いない」と述べるのを耳にした。

私は、副大統領[ディック・チェイニー]が「簡単に言うと、サダム・フセインが今や大量破壊兵器を有していることは疑いない」と述べるのを耳にした。

私は、米国大統領が米国議会に次のように述べるのを聞いた:「我が国への危険は重大である。我が国への危険は増大している。サダム政権は核兵器を求めており、核分裂物質により1年以内に核兵器を建造できる」。

私は彼が「我々が直面している危機は月々、年々悪化するだろう。これらの脅威を無視することはそれを助長することだ。イラク政権がいつ何時、炭疽菌やVX神経ガスを仲間のテロリストに与えるかわからない。そしてそのうちには核兵器をも」と言うのを耳にした。

私は、米国大統領が一般教書演説の中で、イラクが2万5000リットルの炭疽菌、3万8000リットルのボツリヌス菌、500トンのサリンガス、マスタードガス、神経ガスを製造するに十分な物質を隠していると語るのを耳にした。

私は、大統領がイラクはウラニウム----のちにニジェールからの「イエローケーキ」酸化ウラニウムと特定化された----および「核兵器製造に適した」何千本ものアルミ管を購入しようとしていると言うのを耳にした。

私は副大統領が次のように言うのを聞いた:「彼が核兵器を入手する断固たる決意であること我々は知っており、また彼が実際核兵器を再建したと考えている」。

私は、大統領が次のように言うのを耳にした:「これら19人のハイジャッカーたちが、サダムに武器を与えられて、別の武器と別の計画を持っていたと想像してみよう。我々が経験しなかった恐怖をもたらすには、たった一瓶、一缶、一箱をこの国に持ち込むだけでよい」。

私は、ドナルド・ラムズフェルドが「イラクによる核の脅威は差し迫ったものではないと言う者たちがいる。私はそれほど確かではない」というのを聞いた。

私は、大統領が「アメリカは我々に対する脅威が集結しているのを放置しない。災厄がもたらされる明らかな証拠を前に、我々は最終的な証拠----決定的な証拠----を待つことはできない。それはキノコ雲のかたちで訪れるかも知れないのだ」と言うのを耳にした。

私はコンドリーザ・ライスが「我々はキノコ雲のかたちをした『決定的証拠』を望まない」というのを耳にした。

私は対EU米国大使がヨーロッパの人々に次のように言うのを耳にした:「ヨーロッパにはヒトラーがいたが、誰一人彼に対処しなかった。バグダードには同じタイプの人物がいる」。

私は、コリン・パウエルが国連で次のように言うのを耳にした:「奴らはたった一月で、何千何万という人々を殺すに十分なだけの乾燥生物物質を製造することができる。サダム・フセインは大量の科学兵器を一度も明らかにしていない:マスタード・ガスを搭載した550の砲弾、3万発の空の弾薬、そして現在保有する科学兵器に加えて500トンの化学物質を作るに十分な先駆物質。我々の控えめな見積もりでは、イラクは今日100トンから500トンの科学兵器物質を保有している。最低値100トンの物質でも、サダム・フセインが、100平方マイルの地域に大量犠牲者を生み出すことを可能にする。マンハッタンの5倍の大きさである」。

私は彼が「今日私が述べるすべての言葉は、情報源、確実な情報源が保証しているものである。これらは主張ではない。皆さんに呈示しているのは事実であり、確実な情報に基づく結論なのだ」というのを聞いた。

私は、大統領が次のように言うのを聞いた:「イラクは広い範囲に生物兵器あるいは化学兵器をばらまくために使うことができる有人無人の航空機部隊を拡大している」。イラクは「命令が下されてから45分のうちに生物兵器や化学兵器による攻撃を開始できる」。

私は、トニー・ブレアが「私はサダムがそれらの兵器を破壊する決断をしたことを信じろと求められている。そんな主張は全く馬鹿げていると言おう」というのを耳にした。

私は米国大統領が次のように言うのを聞いた:「我々は、10年来イラクとアルカーイダの上層部が接触してきたことを知っている。我々はイラクがアルカーイダのメンバーに爆弾製造と毒と致命的有毒ガスを訓練したと知らされた。テロリストと同盟することでイラクは痕跡を残さずにアメリカを攻撃することができるようになる」。

私は、副大統領が「アルカーイダとイラク政府の間に関係があるという圧倒的な証拠がある。両者に確固たる関係があることを確信している」と語るのを耳にした。

私は、コリン・パウエルが「イラク政府関係者はアルカーイダとの関係を否認している。こうした否認は単にまるで信頼できない」というのを耳にした。

私は、コンドリーザ・ライスが「記録に残すことができるアルカーイダとサダム・フセインの間の接触があるのはあきらかだ」と言うのを聞いた。

私は、大統領が「アルカーイダとサダムを区別することなどできない」というのを耳にした。

私は、ドナルド・ラムズフェルドが「9月11日の攻撃が大量破壊兵器によって為されていたと想像してみるがよい。3000人ではなく、何万人もの罪のない男女と子どもが犠牲になっていただろう」と言うのを聞いた。

私は、コリン・パウエルが上院に、「真実の瞬間が近づいている」というのを耳にした。「これは理論的問題でも、米国が立腹しているというだけでもない。我々は実際の兵器について話をしている。我哀れは炭疽菌について、ボツリヌス毒について話をしている。我々は核兵器開発計画について話をしている」と語るのを耳にした。

私は、ドナルド・ラムズフェルドが「我が人民の治安にイラク以上に大きな危急の脅威を呈しているテロ国家はない」と言うのを耳にした。

私は、大統領が「苛立ちに毛を逆立てて」次のように言うのを聞いた:「もっと時間がというこれ、彼が武装解除していないことをはっきり知るためにどれだけの時間が必要なのか? 彼は時間稼ぎをしている。欺いている。時間を引き延ばそうとしている。査察団とかくれんぼをしている。はっきりしていることが一つある。彼は武装解除していない。友人の皆さんは過去から教訓を学んだはずだ。まるで出来の悪い映画の再上映のようだ。私は見る気がしない」。

私は、イラク侵略を承認する数日前、ペンタゴンが、機密ブリーフィングで米国上院に、イラクは米国東岸に無名の「無人航空機」で炭疽菌などの生物兵器や化学兵器攻撃を行うことができると説明したことを聞いた。

私は、ドナルド・ラムズフェルドが、米国が知っていることをバグダードに明かすと軍事作戦を危険にさらすかも知れないので、イラクの大量破壊兵器については具体的証拠を提示する気はないと語るのを耳にした。

米国がつきつづけてきた嘘をめぐっては、「戦争とテロを巡る40の嘘」(1)(2)(3)(4)もご覧下さい。


投稿者:益岡
2005-03-13 01:31:05

ファルージャの犠牲者(2004年11月スグレナさんの記事)

イラク侵略開始から2年が、最初のファルージャ総攻撃から1年近くがたとうとしています。イタリアの記者ジュリアナ・スグレナさんをめぐる報道がなされているのを機に、スグレナさんが昨年11月に書いた記事を紹介します。次から次へと起こる出来事の中で、それでも、ファルージャで行われたことを、今も行われていることを忘れないよう(それだけでは十分ではありませんが)。

ファルージャの犠牲者2000人
ジュリアナ・スグレナ
イラク発
イル・マニフェスト紙原文
2004年11月26日

今月11月[2004年11月]は、占領の中で最も多くの血が流された月の一つとして記憶されることになるだろう。今月はじめ以来----まだ今月は終わっていないのだが----、109人の米軍海兵隊員が殺された。4月のファルージャ攻撃よりも既に多い犠牲者数だ。しかしながら、何よりも、最も大きな犠牲を払っているのはイラクの人々である:2085人が米軍の攻撃で殺された。これはイラク治安相カッシム・ダウードが発表したもので、彼は民間人の数を特定していない。同相は、問題は身元認定にあるという。というのも犠牲者のほとんどが身元を認定できる書類を身につけていないから。けれども多くの目撃者たちは、問題は遺体が見分けられないほどに黒こげになっていることにあると語る。これはまた、ナパームが使われたことを疑わせると。ファルージャで犠牲者の数が増加すると同じ時に、オスロからさらに気の滅入るニュースが入ってきた。イラク保健省が、ノルウェイのFAFO応用国際研究所およびUNDPの協力で行なったイラクの子どもたちの健康状態に関する調査報告である。この報告は、戦争開始(2003年3月)以来、5歳未満の子どもで急性栄養失調になっている子どもの数が4%から7.7%とほとんど二倍となったと報じている。さらに、40万人以上が慢性的な下痢とタンパク質不足を被っていると。

世界食糧計画(WFP)は170万人の子どもたちに食料を配布しており、多くの食料を配布したとFAFO研究所のヨン・ペダーソンは言う。だから、栄養失調があることは予想されるが、その人数がこれだけ高いことは理解しにくいと。そして、占領下で悪化した食料欠乏の一部を埋め合わせる国連がなかったどのような事態になっていたかと思わざるを得ない(既に経済制裁のもとで状況は過酷だった)。大人について言えば、9月の段階で650万人のイラク人が、食糧配給に全面的に依存していた。電力の不足とそこから引き起こされる湯を沸かせない状態により、人々の健康状況はさらに悪化することとなっている。下水を含むインフラも極めてよくない状況である。地方部に住む人々の6割と都市部に住む人々の2割が、安全な飲み水にアクセスできないと推定されている。

こうした生活状況が日々人々の怒りを膨らませ、占領に反対させている。けれども、占領軍は終わることなき戦争を続け、選挙の準備をすることに忙しく、この「平定」は安全を意味しないということ(毎日これは明らかである)に気付かないようである。さらにこの「平定」はアメリカ人に仕えるアラウィ政権が呼びかけた選挙に対する合意をもたらしもしない。昨日、アメリカ人たちは自らの伝統に敬意を表してイラクの米軍基地で感謝祭の七面鳥を食べ、感謝祭に敬意を表してバグダード南部の「ポリマス・ロックス」への攻撃を開始した。この攻撃には3000人の海兵隊員と1000人のイラク国家警備隊兵士が参加し、さらに米軍のファルージャ攻撃を補強するためにバスラから連れてこられた英国部隊から数百人の英軍ブラック・ウォッチ兵士が参加した。昨日、サダムのノマンクラツーラが余暇を過ごした首都南部にあるユーフラテス沿いのヴィラを攻撃したのはブラック・ウォッチだった。その目的は、サダムの信奉者たちとその資金を狩り出すことにあった。兵士たちは80人のイラク人を拘束し、爆弾作成に用いられると疑われる装備を没収した。米国人たちがファルージャで発見したと称した火器とは比べ者にならなかった。「ここにはイラク全土のレジスタンスに十分供給できる量の武器がある」とアメリカ人たちは言っていた。彼らはまた、科学兵器製造の工場と説明書を発見したと主張してもいた。

「死の三角地帯」に対する米軍の攻撃は、ファルージャ攻撃ほど大規模ではない。「これから数日の間に、我々は一連の集中攻撃を行う予定だ・・・・・・それは正確さと根気強さと忍耐を特徴とするものになる。それがゲリラ放棄に対抗する鍵だからだ」と海兵隊のデヴィッド・ネバース大尉は昨日語り、「外科的正確さをもった攻撃」について説明した。同じ日、バグダードではたくさんの爆発音が聞こえ、グリーンゾーンからも煙があがっていた。グリーンゾーンの外で、教育省の米国人「顧問」が昨日殺された。アル=ザルカウィのグループが実行を表明した。

選挙が6カ月遅らされないならボイコットすると導師たちが主張しイラク・イスラム党が脅す中でスンニ派のボイコットを避けるため、選挙委員会は、最終的な候補者リストの呈示日を一週間遅らせて12月2日とした。けれども一週間遅らせただけで、スンニ・トライアングルの参加を保証するにはほとんど無意味である。

この記事は2004年11月末にスグレーナ記者がイル・マニフェスト紙で発表したもので、含まれている情報は既報です。けれども、1月末の「選挙」でニュース報道がますます皮相な世界の中で錯乱している今、改めて紹介しておきたいと思いました。

ペンタゴンが「我々はまだ戦争している」と述べたように、イラク占領、ファルージャ虐殺、恣意的拘留や拷問・強姦といった占領軍による戦争犯罪も、抵抗勢力による自爆攻撃も、子どもたちや民間人の犠牲も、現在進行形で続けられています。


投稿者:益岡
2005-03-11 21:51:05

イタリア政府,方針転換か(英インディペンデント,3月10日)

諜報機関員が死亡した件についてのイタリア政府の反応の続報。3月10日,英インディペンデント記事。

ベルルスコーニ首相の発言がイタリア語で為されたものであり,インディペンデントに掲載された時点で一度「翻訳」のプロセスを経ていて,ここではそれをさらに日本語にしているので,訳語の選択によるズレが生じているかもしれません。

また,最初のパラグラフはベルルスコーニ首相が実際にこう発言したのではなく,首相の発言内容をまとめるとこのようなことになる,ということではないかと判断されます。(引用符がないので。)

なお,原文は1週間経つと閲覧が有料になります。

イタリア首相,「人質」対応方針の変更か
Berlusconi signals shift in 'hostages' policy
By Peter Popham in Rome
10 March 2005
http://news.independent.co.uk/europe/story.jsp?story=618446

昨日(9日)イタリア国会上院でシルヴィオ・ベルルスコーニ首相は,イラクをうろうろする(go walkabout)ほどに無分別な(rash)イタリア人は誰であれ,自己責任でやっていることになる(are now on their own)と述べた。首相のこの発言は,先週金曜日にニコラ・カリパリ氏が死亡したことについての首相の初の公式の発言である。

「イタリアの派遣軍と緊密な協力関係にあり,その保護下で行動する場合においてのみ,イタリア政府は安全を保証するという立場にある」と首相は述べた。「テロリストの活動が今なお活発で,攻撃や誘拐のリスクがより大きなイラク国内の他の(=イタリア軍管轄外の)地域において危険を冒す(venture)人々については,それがどんなに高貴で誠実な目的であろうとも,安全を保証することは可能ではない(not possible)。」

これは,慎重な発言であったが,イタリアの方針の転換をはっきりと示していた。昨年4人のイタリア人警備員が誘拐され,そのうち1人が殺害,残る3人は後に無事に解放されているが,それ以来イタリアは,人質に関しては交渉をし,巨額の身代金を支払うという大胆にして他に例のない戦略を追求してきた。

この方針は,ベルルスコーニ首相と首相の側近のアドバイザーであるジャンニ・レッタ氏によって,軍諜報機関と直接連携を取って行なわれてきたのだが,首相の個人的人気という点では大きな見返りをもたらしてきた。

その最もすばらしい瞬間は,昨年9月に訪れた。バグダードにいたボランティア作業者のシモーナ・トレッタさんとシモーナ・パリさんが,3週間の身柄拘束から解放されて帰国し,盛大な歓迎を受けたときである。しかし,米軍の銃撃で交渉団のチーフであるニコラ・カリパリ氏が死亡したことで,イタリア国民に,従来の方針の害と政治的コストを知ることとなった。

ジャンフランコ・フィーニ外相は火曜日に国会で,バグダード空港のキャンプ・ヴィクトリーの米軍に対してイタリア側から,解放された人質のジュリアナ・スグレナさんを連れて行くという連絡をしていなかったことを認めた。
【訳注:他の媒体には「連絡はしてあった」という情報もあります。例えばBBCとか。】

イタリアは自国の人質交渉についての微妙な情報を米軍に明かすことを避けていた。米国が介入を決定しないようにとの意図である。同様に,discretionが必要であるということは,カリパリ氏およびシークレットサーヴィス職員がバグダードのあちこちを,武装したエスコートなしで,イラクのナンバープレートをつけた防備のない車で移動しなければならないということを意味した。

昨日ベルルスコーニ首相が確証を与えたように,カリパリ氏の死亡についての調査は,4週間以内に完了される。そして,首相は「前例のない」譲歩と評したのだが,米国はイタリア軍および外交部門の人員に,調査の上層に参加するよう呼びかけた。

上院に対しベルルスコーニ首相は「イタリアは,人質を取る人々による政治的脅しに屈したことは一度もない」と――言い換えれば,イタリアは軍を撤退させよと頻繁に要求されているがそれを拒んできた,と語った。イタリアが人質解放に成功しているのは,「政府があらゆるチャンネルを,政治的なもの,外交的なもの,諜報部門をすべて活用した」ためだ,と首相は述べた。

イタリアが巨額の身代金を支払い続けているということを,首相は認めることができなかった――先週のジュリアナ・スグレナさんの解放に際しての身代金の額は最高で800万ドルと言われている。それは,火曜日に法務大臣が,身代金を支払うことはイタリアでは犯罪行為(criminal offence)になると指摘したためである。

首相は,米国はカリパリ氏の死に責任のある人物を特定しなければならないと主張した。「最終的な責任について率直に相互が認めることが,……このような大きな悲しみを引き起こしたこの件を決着させる条件である」と首相は述べた。


Wednesday, 9 March, 2005, 20:32 GMT のBBC記事が伝えている「ベルルスコーニの上院での発言」と同じものを伝えている記事ですが,まったく別モノのように見えます。

記事を書いたPeter Pophamさんは,現在はイタリアにいてインディペンデントに書いているようですが,New Zealand Heraldの記事(2001年)もありますので,フリーランスの方かもしれません(推測)。検索結果にはカシミールやクロアチアからの記事もあります。

投稿者:いけだ
2005-03-11 03:02:51

「車は停止していた」とのイタリア政府の発言

「車は警告の光で停止していた」とのイタリア政府の発言,ベルルスコーニ首相の前に,フィーニ外相が行なっていました。BBC3月8日記事。また,この件についての各紙報道についても。

なお,「停止した」などの証言主は,下の方のCNN記事には「車を運転していた人物」とあります。これはおそらく生還したイタリア諜報機関エージェントだろうと思うのですが,あまりにいろいろ記事を読みすぎて,ディテールがわからなくなってしまいました。わかったら確実なことを書くようにします。

イタリア人が死亡した件についての対立は深まる
Rift over Italian death deepens
Last Updated: Tuesday, 8 March, 2005, 12:38 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4328551.stm

イタリアの外相が米国に対し,イラクでのイタリア諜報機関員の死に責任のある者を「特定し罰する」よう求めた。

ジャンフランコ・フィーニ外相は,解放された人質をエスコートしている最中に米軍の発砲によって死亡したニコラ・カリパリ氏に起きたことについて,米国とイタリアとでは言っていることが食い違っていると述べた。

米国は,車両が速度を出しており,部隊が止まれと警告したのに従わなかったために発砲が行なわれたと述べている。

しかしフィーニ外相は,車はせいぜい時速40キロしか出していなかったと述べている。

外相は,カリパリ氏は人質の解放と空港への移送について,米国およびイタリアの関係者には「必要な連絡はすべて」していた,と述べた。

イタリア国内ではイタリア軍をイラクに駐留させることに対する反対が元々強いが,この一件でそれがさらに強まり,ベルルスコーニ首相の政府に答えを見つけるようにという非常に強い圧力が生じている。

BBCのローマ特派員,タスミン・スミスは,フィーニ外相のコメントは,事件の調査にpre-emptしているが,実際にはイタリア国内向けのものであるとしている。

ローマの政治を知る人々によると,事件が第三国の米軍支配下にある地域で起きたため,刑事訴訟を求めることについては,司法権の点で深刻な問題があるという。

カリパリ氏はイタリアでは国民的ヒーローとなり,月曜日の葬儀には数千単位の人々が通りに出て葬列に拍手を送った。

フィーニ外相は,解放された人質と諜報機関員を運んでいた車両は,検問を容易にするために,十分に照明をつけていたと述べている。

しかしながら,路肩から強い光を当てられて車は停止し,そして間をおかず,警告なしに,銃撃が始まった,とフィーニ外相は述べた。

その後自動火器による一斉射撃があり,それが10~15秒続いた,とフィーニ外相は言葉を続けた。

車両に乗っていた人々は,車から生きた状態で引っ張り出された2人目の諜報機関員によって,ようやく身元がわかった,と外相は述べた。

しかしながら,フィーニ外相は,解放された人質のジュリアナ・スグレーナさんの,車は故意に標的にされたという主張を,「根拠がない」として退けた。

「真実と正義を求めます」と外相は述べた,「数時間のうちには,誠実な協力をという願いによって,最初の大きな具体的結果が生まれると思います。」【←直訳なのでわかりづらいと思います。原文はWe hope that within the next few hours this affirmed wish for loyal co-operation will yield its first major concrete result.】

「今回の件は政治的キャンペーンをかき立てる機会となったり,世論に反米感情を広める機会となったりしないであろうと思います。それは存在する理由がありませんから。」【←直訳というかwhichが何を指すのかが今ひとつ確信できないので,中途半端でわかりづらい訳だと思います。原文はWe hope that this is not an opportunity to whip up political campaigns and to sow anti-American sentiment in public opinion, which certainly have no reason to exist.】

火曜日のワシントン・タイムズ紙【←「ワシントン・ポスト」ではなく】には,イタリアの治安当局はスグレーナさんの空港への移送についての事前の調整をまったく行なっていなかったようだというペンタゴンのメモを掲載している。

また,米軍は尋常ではない速度を出している車両には発砲するよう訓練されている,と同紙には書かれている。これは米国側の説明と一致する説明である。

「これは戦争だ」と,そのメモには書かれているという。「イラクの道路やハイウェイでの作戦中に敵からの銃撃によって死亡した米国の兵員はおよそ500人だ。」


上にあるように,8日の時点で,フィーニ外相は「車は光を当てられて停止した」と述べています。

この記事がBBCに出た翌日(英国時間 9 March 2005, 16:48)に,ベルルスコーニ首相が同じく,「車は光を当てられて停止した」と述べました。(このウェブログの1つ前の記事のコメント欄
He said the car carrying Mr Calipari had stopped immediately a light had flashed, conflicting with the account of events given by the US military.


外相の発言という段階では,BBCの特派員の言うように「国内向け」の可能性があったかもしれません。(私としては「国内向け」とは思えないのですが。)

しかし首相がそう発言したということは,また別の意味を持つように思います。

さらにこの件について,上記BBC記事に出ている「ワシントン・タイムズ」報道に関連する部分を,Google Newsから少し拾っておきます。

まずは米国のCNN。
U.S. 'knew agent going to airport'
Wednesday, March 9, 2005 Posted: 11:57 AM EST (1657 GMT)
http://www.cnn.com/2005/WORLD/europe/03/09/italy.sgrena/
重要なところだけ:

イタリアのベルルスコーニ首相は,米軍に射殺された諜報機関員は米軍に対して,新たに解放された人質を空港に移送することになっていると伝えてあった,と述べた。首相はまた,別のイタリア人アタッシェでバグダード空港にいた人物も,米軍の人間に対し,ニコラ・カリパリ氏とジュリアナ・スグレーナさんを乗せた車が空港に向かっていることを伝えてあった,と水曜日のイタリア上院で述べた。

火曜日に,イラク駐留米陸軍のジョージ・ケイシーGeorge Casey軍司令官は,イタリア当局からは車のルートについて何も聞いていなかったと述べている。
ベルルスコーニ首相は,車の運転をしていた人物からの情報によれば,車は低速で走行しており,光が当てられたときにすぐに停車した,と述べている。

またスグレーナさんは日曜日の「イル・マニフェスト」紙で「低速で走行していた」「米軍は何ら理由なく発砲した」と書いている。

ベルルスコーニ首相は国内から厳しい批判にさらされている。首相は上院で「カリパリ氏の死は,同盟国によるものだけに,受け入れがたい」と述べたが,ブッシュ大統領からの書簡および調査について「我が同盟国が真実を見つけたいと思っていることを示す」ものだと述べた。

イラクの米軍は火曜日に,この件を調査するチームの設立を宣言している。


……記事にはこのほか「意図的に狙われたのでは」というスグレーナさんの疑念についてのマクリーン報道官の「ありえない」という発言,身代金支払いがあったとの報道がイタリアではあること(政府は否定している),さらに「そもそも拉致がなければ今回の銃撃もなかった」「イラクを拉致誘拐犯の手に残して国際社会が手を引くことを確実にすることが彼らの目的」というベルルスコーニ首相の発言,などが書かれています。

英国の「タイムズ」紙の記事も,CNNの記事とよく似ています。

それからフランスのインターナショナル・ヘラルド・トリビューン。解説記事。
After the checkpoint shooting
William Pfaff International Herald Tribune
Thursday, March 10, 2005
http://www.iht.com/articles/2005/03/09/news/edpfaff.html
2004年3月のマドリッドの爆弾テロで,世論の反対にも関わらずイラク戦争を支持したスペインのアスナール首相(当時)とブッシュ大統領との関係が崩れることとなった,という書き出しから推測される通りの内容。最後の部分:
ワシントンがこの件についての納得のいく調査結果を出すことができず,誰にも責任のない不運な事故であったと主張するようなことがあれば,ベルルルスコーニは圧力に耐えることはできないだろう。

不運な事故であったことは確かだ。しかしこれまでに,不運な事故が発生した環境を許したとして米軍指揮官が責任を問われてきている。イタリアはまた,米軍の不注意については苦い記憶がある。1988年に米海兵隊飛行士らが航空機操縦技術を見せようとして登山のケーブルカーのケーブルを切断し,ケーブルカーの乗客を死なせているのだ。

証拠を隠そうとしたのちに,飛行士らは米国で軍事裁判を受けた。彼らは罰を与えられることなく除隊となった。あれは事故だったのである。


カナダの「グローブ&メール」紙は,フィーニ外相の発言内容について,Shooting in Iraq accidental, Rome says(イラクでの銃撃は事故とイタリア政府)という見出しを立てて報じていますが,内容は上に訳出したBBC記事と同じです。ただ,編集が違うので,一見別のことを書いているように見えます。

また,金曜日の出来事を書いたスグレーナさんの記事(イル・マニフェスト掲載)の英語版が,英ガーディアンに掲載されています。

投稿者:いけだ
2005-03-10 03:35:48

【BBC速報】車は停車していたとベルルスコーニ語る

BBC NEWSトップページの「主なニュース」のテロップで,
Italian PM says hostage's car stopped before US forces opened fire.

米軍が発砲する前に,人質の車は停車していたとイタリア首相語る

とありました。

More soonの段階(=記事はまだ書かれていない段階)なので,とりあえずキャプチャ画像だけ。

Italian PM says hostage's car stopped before US forces opened fire. More soon. -- BBC NEWS

※日本時間はGMTに+9時間なので,↑でキャプチャしたBBCのページの最終更新時刻は,10日の0:37です。

投稿者:いけだ
2005-03-10 01:09:13

------------------------

コメント欄における追記:
■ 記事が出ました。
「車は停車していた」と首相が述べているのは,下から2パラグラフ目です。

Italy pushes US over slain agent
Last Updated: Wednesday, 9 March, 2005, 16:48 GMT(日本時間で10日1:48)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4333839.stm

Italian prime minister Silvio Berlusconi has said the US must take responsibility for its role in the killing of Nicola Calipari in Iraq.

Mr Berlusconi said his government had demanded "maximum collaboration" from the US, and a joint inquiry with Italy had been promised.

US troops fired on the car carrying Italian agent Mr Calipari and freed hostage Giuliana Sgrena.

The US military in Iraq has begun an investigation into Friday's shooting.

The inquiry is being led by Brig Gen Peter Vangjel and is expected to take up to four weeks to complete.

Relations between the US and Italy have been strained by the incident.

Mr Berlusconi told the Italian senate that the US must take some responsibility for the killing if it was to be put behind them.

"Only a frank and reciprocal recognition of eventual responsibility is the condition for closure of the incident which was so irrational and that caused so much sorrow," he said.

He said the car carrying Mr Calipari had stopped immediately a light had flashed, conflicting with the account of events given by the US military.

Mr Calipari has become a national hero and Italy's leaders joined hundreds of fellow citizens at his funeral.
いけだ (2005-03-10 01:48:38)

■ BBC記事がヴァージョンアップ
↑にコピペしたBBC記事ですが
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4333839.stm

記事が出たおよそ1時間後にヴァージョンアップしています。
タイムスタンプはLast Updated: Wednesday, 9 March, 2005, 17:40 GMT

(BBCは同じURLで記事を更新することが頻繁です。)
いけだ (2005-03-10 03:35:43)

我々は今でもイラクで戦争をしている

アルジャジーラから、ペンタゴンの「今でも戦争している」発言と、ジュリアナ・スグレーナ記者への発砲について(既に事件は当ページで紹介されていますが)。

ペンタゴン:我々は今でもイラクで戦争をしている
2005年3月8日
アルジャジーラ原文

ペンタゴン職員は、イタリアの諜報エージェントニコラ・カリパリを殺したあと、アメリカは今もイラクで戦争をしていると述べた。一方、イタリアの記者ジュリアナ・スグレーナは米国が彼女を殺そうと計画したと語った。

ペンタゴンのこの発言は、米国が公式にイラクでの戦争が終わったと宣言した2003年5月1日からほとんど2年もたってから出たものである。

ワシントン・タイムズ紙に掲載された内部のペンタゴン・メモは次のように述べている:「これは戦争である。イラクの道路や高速道路で活動している際、敵の銃撃により、約500人の隊員が殺された」。

「そのジャーナリストは真っ暗な中を高速で運転しており、初期報告によると、多くの警告を発したにもかかわらずそれに反応しなかった」。

「さらに、イタリアの治安部隊が空港への移動を上手くできるよう措置を取っていたことを示すものはない」。

このペンタゴン・メモは、イタリアの治安部隊は、イタリアの「イル・マニフェスト」紙で働くスグレーナの安全な移動を手配してはいないと述べた。スグレーナは、誘拐者たちから解放されたあと、バグダードで空港に来るまで向かう途中、米軍が発砲したために負傷した。

金曜日のこの事件----イラク在住のイタリア人諜報オフィサのトップだったカリパリが殺された----は米国とイタリアの関係を緊張させ、現在米国国務省による全面的な調査が行われている。

多くの警告

米軍は、兵士たちはスグレーナの車の運転手に多くの警告を発したと述べた。また、発砲したときに速いスピートでその車が近づいてきていたとも。

スグレーナは、自分たちの車は速くはなかったと述べ、自分は、殺すことを目的として意図的な標的となったと述べた。というのも、米国は誘拐者との交渉に反対していたからであると。米国国務省はこれを否定している。

「制服を着た我々の兵士たちが意図的に罪のない民間人を標的とするなどと示唆するのは馬鹿げている」とホワイトハウスの報道官スコット・マクレランは言う。「この事故を我々は残念に思っている。何が起きたか全面的に調査を行う予定だ」。

スグレーナはアルジャジーラに対し、自分を拘束した者たちが彼女に、米軍は彼女がイラクから生きて出ることを許さないだろうと警告したと語った。

スグレーナは言う:「彼らは私に言った。『今や立ち去るのも自由だ。けれども注意しなくてはならない。というのも、米軍とイラク警察は、あなたをイラクから生きて出させはしないだろうから』」。

「彼らはまた、私が安全に立ち去ることができるよう全力を尽くすが、米軍兵士たちがそれを許さないかも知れないと述べた。まさに彼らはこう言ったのだ」。

「釈放される前、私はそれを反米プロパガンダの一種だろうと思った。けれども発砲が起きたとき、釈放前に彼らが言ったことを思い出した」。

「興味深いパラドクスだ。実際に起きたことはまさに彼らが言った通りのことだった」。

さらなる注目

ワシントン・タイムズ紙が意見を聞い退役軍士官で軍事アナリストのロバート・マジニスは、イタリア人たちはイラク内の移動にもっと注意を払うべきだったと述べた。

「イタリアのシークレット・サービスはこれをバグダードのジェームズ・ボンド映画と思っていたように私には思われる」とマジニスは言った。

米軍士官の一人は、カリパリはジェームズ・ボンド役のように振舞っていたと語る:「彼らは夜、誘拐されたジャーナリストを車に乗せ、イラクで最も危険な道に密集する検問所を見つからず、撃たれずに通り抜けることができると考えていたかのようだ」。

この事件は、イラクで継続的に起きている友軍の攻撃による事故にスポットライトをあてることとなった。こうした事故は、車を運転している者たちが路肩の検問所で止まるよう指示する警告に気付かず、車両が武器ではないかと恐れる米軍兵士に撃たれるものである。

車やトラックは、爆弾や通り過ぎざまの発砲によく使われる武器である。

検問所

米軍の士官は、その夜その検問所を通ったすべての車の中で、撃たれた車両はその記者が乗った一台だけだったと述べた。

「その車の振舞いの何かが、兵士たちの発砲を促した」とこの匿名を求めた士官は言う。

兵士たちは、スグレーナとイタリアのエージェントが、イタリアに帰る便に乗るため空港に向かっている途中だとは知らなかったと言う。

この記事を紹介しようと思った何よりの理由は、「『制服を着た我々の兵士たちが意図的に罪のない民間人を標的とするなどと示唆するのは馬鹿げている』とホワイトハウスの報道官スコット・マクレランは言う」というくだりにあります。

例えば、『ファルージャ2004年4月』に掲載されたジョー・ワイルディングさんの証言:

女性たちが叫び声をあげて入ってきた。胸や顔を手のひらで叩いて祈りながら。お母さん【ウンミ】、と一人が泣き叫んでいた。私はその女性を抱きかかえた。それから、コンサルタント兼診療所の所長代理マキが私をベッドのところに連れていった。ベッドには、銃による怪我を頭に負った10歳くらいの子どもが横になっていた。隣のベッドでは、もっと小さな子どもが、同じような怪我で治療を受けていた。この子どもたちとおばあさんがファルージャから避難しようと家を出たところを、米軍の狙撃兵が撃ったのだ。

「こちらへ」とマキが言って、私を一人、ある部屋に案内した。そこには、お腹に受けた銃創を縫ったばかりの、年老いた女性がいた。女性は、それとは別に脚にも怪我をしていて、そちらには包帯が巻かれていたが、彼女が寝ているベッドには血が染み込んでいた。この女性は白旗を今も手に握りしめている。彼女の話も同じ。「バグダッドに向かおうと家を出たら、米軍の狙撃兵に撃たれたのです」。

国際法を犯して侵略を行なったブッシュがイラクに送り込んだ「制服を着た我々の兵士たち」は、大規模な空襲で無差別な殺人を行うだけでなく、多くの罪のない民間人を狙い澄ました発砲により射殺してきました。

イタリア人記者の乗った車への発砲の真実がどうであれ、米軍兵士たちが民間人であろうが構わずに射殺すること、狙い澄ましてでも射殺することははっきりしています。


投稿者:益岡
2005-03-09 20:12:58

2003年3月の英軍初の死者は友軍の誤射か

イタリアの情報機関員が死亡したバグダードのエアポート・ロードでの米軍の発砲(当ウェブログ過去記事)に続き,南部でブルガリア軍兵士がパトロール中に米軍に撃たれて死亡(Reuters記事asahi.com記事によるとブルガリア国軍のウェブサイトへの匿名の書き込みで発覚),と,味方への発砲が続いて報じられていますが,英国でもfriendly fire(友軍への誤爆)について警察の捜査が始まりました――2年前の出来事についての捜査です。

2003年3月の開戦直後,米軍が英軍に対して爆撃してしまうという出来事は立て続けにありました(一例として当時の記事←これについてはデイリーミラーがShocking and Awful<Shock and Aweのもじりという見出しを立てていたことを鮮明に覚えています)。

今回警察の捜査が開始されるのは,米軍から英軍への誤爆ではなく,英軍内部の誤爆についてです――2003年3月,開戦からわずか3日後ににバスラ近くのアル=ズバイルで死亡したスティーヴン・ロバーツ軍曹(当時33歳)の件。

改めて,“とりあえず”のニュースソースであるBBCで検索してみると:

・ロバーツ軍曹は2003年のイラク侵略における英軍初の死者である。
・最初に名前が伝えられたときの記事では「友軍への誤爆」で死亡したとは書いていない。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/2883583.stm
Tuesday, 25 March, 2003
He was shot on Sunday while trying to calm rioting civilians near al-Zubayr.


・葬儀を報じる記事にも「友軍への誤爆」で死亡したとは書いていない。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/cornwall/2974761.stm
Friday, 25 April, 2003
The 33-year-old Desert Rats tank commander was shot through the chest during a riot in Al Zubayr, near Basra, just three days after the conflict began.


・死亡から8ヵ月後,「ボディアーマーを着けていなかった」ことについてロバーツ夫人が国防省に説明を求める。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/3233942.stm
Tuesday, 25 November, 2003
Sergeant Steve Roberts, a 33 year-old tank commander, was shot by an Iraqi attacker in Al Zubayr, just three days into the war.

But Samantha soon learned a shortage of vital equipment may have contributed to her husband's death. It turned out he was without body armour.

Although he was apparently issued with a flak jacket, he was then asked to give it up because other soldiers in infantry units had a greater need.


・12月,ロバーツ軍曹がボディーアーマーを着けていれば死んでいなかったのではとの国防省報告書。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/3332085.stm
Thursday, 18 December, 2003

・装備の不足について,フーン国防大臣への明確な批判が出る。→数日後,フーン国防大臣は公的な謝罪は拒否(記事
http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/cornwall/3334275.stm
Friday, 19 December, 2003
・またこの記事には「友軍誤爆」の可能性が否定できないとの記述が。
There has also been doubt placed on whether Sergeant Roberts was actually killed by Iraqi dissidents or friendly fire.

A senior officer from the 2nd Royal Tank Regiment wrote to his family saying another commander had fired to help Sergeant Roberts.

The letter said the Iraqi was killed but "tragically Steve was also hit".


・2004年1月,サンデーミラーが「友軍誤爆ではないのか」と報道。パブリック・インクワイアリーが発足。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/cornwall/3366917.stm
Sunday, 4 January, 2004
A story in the Sunday Mirror backs the claims made by Sergeant Roberts' widow Sam, from Shipley in West Yorkshire, and mother Marion Chapman that he was killed by two machine gun bullets from his own side.


・夫人が「夫は装備が不足しているとテープに録音していました」と語る。(テープは葬儀のときに夫人の手に渡った。)
http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/3398525.stm
Thursday, 15 January, 2004
・このBBC記事には「イラク人によって射殺された」と断定の記述。
He was shot dead by Iraqis as he tried to control a riot in Basra on 24 March.


このあとBBCには,2004年3月の死亡から1年の記事があり(ここでもduring an attack by Iraqi dissidents outside Basraとの記述),11月には夫人が戦没者記念日のイベントに参加の報道があり,そしていきなり2005年3月7日に,「警察による捜査開始」の記事。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/4326313.stm
Monday, 7 March, 2005
The death of a UK tank commander in Iraq, killed by "friendly fire" after having to give up his body armour, is being investigated by police.

Sgt Steven Roberts, 33, of Shipley, West Yorkshire, died in Basra in March 2003 when a colleague shot dead an Iraqi civilian and hit him.

Scotland Yard said Attorney General Lord Goldsmith had ordered an investigation into both deaths.

ボディーアーマーを他人に譲った後で「友軍誤爆」で死亡した英軍戦車指揮官の死について,警察による捜査が行なわれつつある。

ウェスト・ヨークシャーのシプリー在住だったスティーヴン・ロバーツ軍曹(当時33歳)は,2003年3月に同僚がイラクの民間人を射殺した際に自身も被弾し,バスラで死亡した。

スコットランドヤードによると,ゴールドスミス司法長官が2件の死についての捜査を命令した。


……BBCだけ見てると話がさっぱり見えてこないのですが……ボディーアーマーがあれば死ななかったとしてフーン国防大臣が批判されていた記事は,その当時よく読んでいました。しかし「友軍誤爆」はどこから?

という点がガーディアンに。2005年2月8日。

MoD admits liability for death
Richard Norton-Taylor
Tuesday February 8, 2005
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1407895,00.html

英国防省は,イラクで英軍初の戦死者となったスティーヴン・ロバーツ軍曹の死についての法的責任を認める(will accept),と,軍曹の夫人の弁護士が昨日述べた。

今回の動きで,イラクで事故の結果として死亡したほかの兵士の家族にとっても道が開けるかもしれない。

the 2nd Royal Tank Regiment所属のロバーツ軍曹(当時33歳)は,2003年3月24日,石を持って襲い掛かってきたイラク人を払いのけようとしているときに死亡した。

バスラ近くのズバイルではデモンストレーションが行なわれており,その時にはすでに終わりつつあるようだったが,別の兵士がピストルを抜いてイラク人に向けて発砲した。その弾が誤ってロバーツ軍曹に当たった。国防省の内部報告書では,軍曹のフラックジャケットにセラミックのプレートが入っていれば死ななかったかもしれないとしている。軍曹はプレートを支給されていたが,部隊全員に行き渡るには数が不足していたため,軍曹は別の兵士に自分のプレートを譲っていた。

この銃撃については現在ロンドン市警が捜査中であり,陸軍将校1人と兵士4人が刑事裁判にかけられる可能性がある。

ロバーツ軍曹の夫人サマンサさんの弁護士をつとめるジェラルディン・マックールさんは昨日,この件についての法的責任を国防省は認めることを決定したと述べた。同弁護士によると,当初国防省はロバーツ軍曹の死は戦闘中に兵士が死亡した場合の「戦闘免責(combat immunity)」にカバーされると主張していた。

「しかしイラクでは,いかに戦時とはいえ,避けることができたことがたくさん起きていました」と同弁護士は述べた。

同弁護士はイラクで任務に着いた兵士たちの20家族の代理人を務めており,国防省はロバーツ軍曹以外の件も見直すことになるかもしれないと述べた。


話を整理すると,
・2003年3月24日,バスラ近郊でデモがあり,英軍が鎮圧しようとした。
・その際,本来身に着けているはずだったボディーアーマーを他人に譲ってしまっていたロバーツ軍曹が,英軍兵士の弾に当たって,死亡した。
……ここまでは英軍内部の問題ですが,
・このとき,ロバーツ軍曹だけでなく,イラクの民間人(civillian)も1人死亡した。

March 06, 2005のサンデー・タイムズの記事によると:
Roberts, 33, from Shipley, Yorkshire, was serving as a tank commander with the 2nd Royal Tank Regiment, near Basra when he was shot in the stomach and chest in March 2003. At the time he was trying to fend off an Iraqi who had attacked him during a riot.

Detectives have been told that although the riot seemed to be dying down, another soldier is said to have pulled out a pistol and fired at the Iraqi.

The Iraqi was killed but a stray shot apparently hit Roberts by mistake. The soldier is alleged to have ignored the army’s rules of engagement.

※太字にした語句は同一人物を指します(英語の書き方の原則に基づいた判断)。


つまり,軍曹に襲い掛かった(ガーディアン記事には「石を持って」とある)イラク人に対して,英軍兵士が発砲した。そしてそのイラク人は死亡した。同時に流れ弾が軍曹に当たった。発砲した兵士は軍規を無視していたことになる,と。

当初報じられていたのは「英兵死亡」であり,「イラクの民間人も死亡」は,BBC(2003年開戦直後は明らかに「戦争支持」だった――英メディアはほとんどそうでしたが)の記事には,書かれていないようです。(私の見落としの可能性もあります。)

こういった話が,イラク全土で一体いくつあることやら。

なお,ガーディアンがdemonstrationと書いているものを,タイムズがriotと書いているのも,ちょっと興味深いことです。

上記以外の関連記事:
http://www.timesonline.co.uk/article/0,,2-1474761,00.html
February 08, 2005

http://news.scotsman.com/latest.cfm?id=4100533
Mon 7 Feb 2005

Google Newsで"steven roberts"を検索

ところでデモ隊への発砲であるということになれば――軍曹に襲い掛かったイラク人の“武器”が「石」ならばなおさら――法的にはどうなのでしょうか? 

そのうちに「向こうから撃ってきたので反撃した」という話に?(←ブラックジョークではなく。)

1972年1月30日のデリー(ロンドンデリー)でも,当時は
being shot at first by two snipers in flats overlooking the street. It claims acid bombs were also thrown.

と主張されていました。(source)

---------------------------
この記事は英国のニュースなので,自分の個人ウェブログにポストしようと思って書いたのですが,よくよく考えるとイラクのこと(公式の「戦争」中に,デモ参加者が軍の発砲によって死亡している)なので,こちらのウェブログにポストすることにしました。元々個人ウェブログを想定して書いたので,最後とか特に英国の話になってますがご容赦ください。

投稿者:いけだ

※追記:
英軍関連では,【国防省に対して、怒りに満ちて訴える湾岸帰還兵たち。】BBC News(2004/11/30)(@反戦翻訳団さん,2005年03月06日)もご参照のほど。
2005-03-08 22:31:03

サマワの女性の話

クリスチャン平和構築チームによる、サマワの女性団体代表のお話の紹介。断片だけなので全体の状況はつかみにくいですが。

サマワの女性の話
Peggy Gish
2005年3月5日
Electronic Iraq 原文

「これまで生きてきた中で2度、暗殺未遂の目に遭いました。一度は昨年7月、もう一度は1月の選挙前です。やろうとしたのは、権力の座に復帰しようと試みている地元のバアス党員たちだと思っています」と自由女性組織の代表ヌーア[名前は変えてある]は語った。彼女がこう語ったのは2月25日、サマワにある彼女の事務所で、私たちCPT(クリスチャン平和構築チーム)の3人および3人のチーム・メンバーに対してだった。彼女が憂慮を語りセンターの仕事を語っていくにつれ、私たちは攻撃の背後にあったかも知れないものを感じとるようになった。

「地元のテロリストたちはたった50ドルで人を殺します」と彼女は言う。戦争以来、彼女はコミュニティに蔓延した汚職について強い批判の声をあげてきた。「多額の再建資金が何も結果を残さないプロジェクトに流入しました。袖の下があったことを私たちは知っています。というのも筒抜けで、金を受け取る手が見えたから」。

女性たちのセンターはまた、女性の失業率が高いこと、識字教育、女性の憲法上の権利、虐待された女性の支援に力を入れている。ヌーアは、女性への虐待の話を語った。離婚してホームレスにさせられたり、家族から追いやられたりといったことである。「あまりに多くの若い女性が、13歳といった若さで結婚するので、教育を受けられません。この事態は終わらさなくてはなりません」。彼女は、先だってのイラク選挙で、文字を読めない多くの女性が男性の指示に従って投票したと嘆く。

ヌーアは、資金と許可を得ようとしている3つの建設プロジェクトについて語った。その一つは幼稚園、もう一つは児童公園である。高等教育のためにバグダードに行くのは女性にとって困難かつ危険なので、センターはまた女性が学べる大学をサマワに作りたいと考えている。これらへの資金をこれまで得ることができていない理由は、自分が女性だからだと彼女は考えている。「私がサマワ評議会の評議員だということは無関係で、私は無視されている」。

CPTを自由女性組織に紹介してくれたイラク人ジャーナリストは、私たちに、170人の女性たちが参加した憲法に関するワークショップのビデオを見せてくれた。一日前、センターが主催したものである。ワークショップで、ヌーアは、女性の権利を保障しない限り憲法を承認する投票をしないよう助言した。

女性の権利に対する彼女の意識はどのように育まれたのか、また部族指導者や宗教指導者たちの彼女の仕事への反応はどのようなものかを聞かれたヌーアは、次のように答えた:「最初私がしていることにショックを受けました。けれども、それから彼らは、妻や娘たちを、私たちのプログラムを支援するため、あるいはそれに参加するために送ってきました」。彼女は続けて、「私はこれまでずっと女性の権利に関する考えを持ってきました。少女だったころも、他の子どもたちの問題解決を助けていました。サダム・フセインのもとで、他の女性たちと秘密の議論をしてきました」。

「コーランは女性に完全な権利を認めています」と彼女は言う。「コーランはアダムの家族について語っています。男性も女性も含むものです。カリフも男性でも女性でもいいのです。いずれにせよ、女性が自分たちの権利のために活動しなければ、誰が女性のために何かをするというのでしょうか?」

クリスチャン平和構築チームは全教会が参加する暴力削減プログラムで、歴史的な平和教会を起源とする。訓練を受けたチームのワーカが世界中の紛争地域に住んでいる。CPTは2002年10月以来イラクにいる。CPTについてのさらなる情報はhttp://www.cpt.orgを参照。CPTプロジェクトの写真はhttp://www.cpt.org/gallery


投稿者:益岡
2005-03-08 21:32:27

アモリヤーの難民キャンプ(CPT,3月6日)

クリスチャン・ピースメイカーズ・チームのシーラ・プロヴェンチャーさん(米国人女性)が,ファルージャ西方のアモリヤー村にある難民キャンプを訪問したときのレポート。エレクトロニック・イラク,3月6日掲載記事。


「お願いです,あなたの国の軍人のご家族に伝えてください・・・」
"Please, Tell Your Military Families..."
Sheila Provencher, Electronic Iraq, 6 March 2005
http://electroniciraq.net/news/1899.shtml
イラクに身を置くことは,イラクについて読むことやテレビで見ることとは大きく違っている。私は出発する前の週にアンマンで恐ろしく,不安に感じていた。当然のことながら,友人は全員,私がバグダードに戻ることについてやめておいた方がいいんじゃないのかと言った。あまりに危険だ,道で拉致される,外国人はイラク人の命を危険にさらすことにもなりかねない。

しかしイラクでは――1地区離れたところで「ばーんという爆音」や銃声をときおり聞くにしても――この場所は基本的には「家」だ。何百万という人々の家なのだ。私のいる地区では,前と同じ子どもたちが通りを走ってきて私の手を握る。商店をやっている友人たちが私のアラビア語を見てくれては,いいねと親指を上げてくれる。私のホストファミリーは,一度脅されたが,また私にステイしなさいと言う。人権活動をしているイラク人の同僚たちは,CPTがまだここにいることを喜んでくれている。彼らはたとえ危険があっても私たちに留まっていてほしいという。

先週,その理由のひとつがわかった。恐ろしいことが起きていて,あまりに多くの人が話を語る人は誰もいないのだと感じている。先週,私はファルージャ周辺部を見,避難民たちと話をし,数え切れないほどの民間人の死について直接の証言をいくつか聞いた。こういった話は読んだり聞いたりしがたいものである。

また,PTSDについてもさらに読んだ。イラクで他の人間を殺したり,友人が殺されるのを見たりした後では,通常の生活に適応することができない帰還兵についても。

下記の回想記はいつものものより長くて申し訳ないのですが,何があったかを伝える術がほかにないので。

平和と神のみ恵みを
シーラ・プロヴェンチャー

----------------------------------

ファルージャ地区は,まるで崩れ落ちた砂の城か放棄された廃墟のようだ。CPTの同僚のアランと私,それにイラク人の人権活動家1人と薬剤師1人,そして運転手とが,ハイウェイを通りながら目を凝らす。(2005年2月24日のことである。私たちはアモリヤー(Amoriyah)の難民キャンプに向かっていた。ファルージャとラマディの中間の村だ。)【訳注:バグダードの西にファルージャがあり,さらにその西にラマディがある。そのため,ラマディ方面に向かうには,ファルージャを通ることになる。】

ファルージャの外周部は,道路からわずか150メートルのところにある。少なくとも3軒に1軒の家屋は破壊されている。天井は崩落,壁はなくなっているか砕けている。家屋は無人で,通りも空っぽである。1マイル続く車の列がハイウェイからファルージャ市へ入るメインの道路に伸びている。おびただしい数の検問所を通り,大変に時間を食うのでほとんどの男性たちは車の外に出て,喋ったり,目を細めて太陽を見たりしながら,待っている。

ラマディに向かうハイウェイは閉鎖されていて,アモリヤーへは裏道を行かなければならない。私たちを迎えてくれているイラク人は女性の人権活動家で非常にタフな女性だが,彼女は米軍はラマディを数ヶ月前のファルージャ同様に包囲し攻撃していると言う。そしてその攻撃はレジスタンスを「破る」ためのものだと。

恐怖を感じて当然のところだ。でもどういうわけか恐怖感はなかった。奇妙な平穏だ,花開き始めたばかりのイラクの農地を抜ける裏道を行くのは。アンズの木々や白いリンゴの花,ナツメヤシの木々や大麦やアルファルファの畑を通り過ぎる。牛が草を食んでいる。女性や子どもや男性が,畑で作業をしている。若い男性がひとり,6フィートの苗木を持って道路を歩いている。結婚の花飾りをつけた車が反対車線を通っていく。

アモリヤーに到着した。近隣の工業団地の社員のためにつくられた,画一的な白い6階建ての集合住宅群から成るコミュニティ。こんにち,アモリヤーには,米軍のファルージャ攻撃を逃れてきた600以上の家族が暮らしている。

小学校へ行く――そこは今は難民キャンプとなっている。間に合わせのテントが5張,中くらいの大きさの部屋を1部屋埋めている。1張に1家族。この部屋の天井はタイルが剥がれ落ちかけている。窓は紙でふさいである。床には水溜りができている。樽の形をしたガスの調理コンロが部屋の真ん中に鎮座している。自分の年齢を覚えていない年輩の女性が私たちを歓迎し,彼女の親族全体が――息子たちとその妻とその子どもたち――ここに暮らしているのだと言う。小さなリアアド・アド・ディーンに会う。このキャンプで生まれた生後2ヶ月の赤ちゃんだ。

ザネブは13歳の女の子で,にこにこしているけれど同時に深刻そうだ。彼女は外国人の注意を引こうと大騒ぎする年少の子どもたちの世話をしている。それから父親・おじたちが話をするために入ってくる。苦しみについて語られることがたっぷりとある早口のアラビア語についてゆけない。イラク人の友人が通訳してくれる。ほとんどの人々は爆撃で家を失った。家族の誰かや隣人を失った者もいる。みな怒っている。

しばらくして,私たちは別の部屋に移動する。40家族が共有しているバスルームか廊下を行ったところの部屋だ。若い男性が前に進み出る。「退去期限がわからなかったんですよ」と彼は言う。「僕は偶然爆撃が始まった日に町を出たんですが,そしたら戻れなくなってしまった。弟は,精神的にハンディキャップがあるんですが,取り残されました。攻撃の後で戻ったときには,弟は行方知れずでした。死亡者リストも見ましたし,刑務所にも問い合わせたのですが,答えはなかったです。アメリカ人は僕にイラク国家警備隊に問い合わせるようにと言ったので,国家警備隊に問い合わせたんですが,これも答えなしでした。」

「お願いです」と彼は言う。「この悲劇を世界中に伝えてください。瓦礫の下い全員が埋まっている家族もあるんです。」

子どもたちが押し合いへし合いして寄ってくる。「ジョージ・ブッシュのこと,好きですか?」とある幼い少女が尋ねる。「あなたは?」と私が応じる。「いいえ,私は彼のことが好きではありません」と彼女は言う。

教室が着る物やら皿やら毛布やら人々やらで一杯になってしまって,子どもたちの通学はできるのだろうか? 答え:子どもたちは裏庭で勉強している。灰緑色のテントが砂利を敷いた運動場をいっぱいにしていて,机や黒板がテントをいっぱいにしている。子どもたちはじりじりと上がる暑さの中に座り,教師が授業を進めるのに集中しようとしている。門の側にかかっている100パーセント英語の看板は,このテント学校は「ヒューマン・アピール・インターナショナルとイラク政府の教育省の合同プロジェクト」であると宣言している。アランが校長補佐に,どうして看板がアラビア語でなく英語なのかと尋ねる。「見せるためだけのものですから」と彼女は言う。「彼らはメディアに,彼らがイラクのために何かをしていると考えてもらいたがっているのです。」アランは彼女に,イラク政府のことを満足のいくものと考えているかどうかを尋ねた。彼女はとても大きな声で「ノー!」と言って答えた。

クラスが変わり,子どもたちがわらわらと寄ってきた。私は自分にできる簡単なアラビア語で,子どもたちにアメリカの人たちに言いたいことはないですか,と訊いた。

「いつかファルージャの自分の家に帰る」と,少なくとも5人の子どもが言う。

そのとき誰かが運転手にメモを渡した。すぐに立ち去らなければならないと書かれていた。イラク人の活動家の友人が,簡単には動揺したりしない女性なのに,おびえていることを感じた。どうやら「アメリカ大使館から来たアメリカ人」(アランと私のことだが,アランはカナダ人だ)が学校にいるという噂が広まってしまったようだ。私たちのホストもトラブルが起きるのではないかと心配している。難民キャンプの男性2人が,自身の安全を危険にさらして,予備の車で私たちをハイウェイまで送ってくれた。そして,私たち自身の車に乗り込むときに,バグダードへの帰路が無事でありますようにと祈ってくれた。

. . . . . . . . . .

彼らが私たちをそこから送り出したあのすばやさを,私は決して忘れないだろう。しっかりと築かれた信頼関係なしには,私たちがいることが地域に安定よりむしろ危険を引き寄せるのだと気づいたときに,アランと私が感じた無力感も,決して忘れないだろう。アメリカ人はダメージを与えるのだから,すべてのアメリカ人は容疑者である。

ファルージャに分相応の武器庫やレジスタンス戦士がいたということは私は疑っていない。多くの兵士たちの個人としての善意も私は疑っていない。兵士たちの中には,ファルージャ市民が包囲戦を切り抜けられる一助にと糧食を差し出した者もいるとイラク赤新月のリーダーから私は聞いた。しかし私は,イラクの男性・女性・子どもたち――米軍の圧倒的な攻撃でその生活が取り返しのつかないほど傷つけられた(あるいは終わらされた)人々の証言も疑っていない。暴力的レジスタンスの現実は,あのような圧倒的な暴力的反応の理由となることはできない。さらに,軍事的反応はうまく作用しない――憎悪を強固なものとし,決意を深めさせるだけである。

女性たちや子どもたちが通りで死んでいるのを見たある若いファルージャ住民が私にこう言った。「お願いです,米軍の家族のみなさんに,彼らの子どもたちがどんなことをやれと命令されているかを伝えてください。」

私は心配だ。アモリヤー難民キャンプの子どもたちのことが。今このときにも包囲されているかもしれないラマディの人々のことが。そして,私たちが暴力をもっともらしい手段として支持し続けたらアメリカの子どもたちに何が起きるのかが。


クリスチャン・ピースメイカーズ・チームについては,ウェブサイトをご参照ください。


投稿者:いけだ
2005-03-07 06:10:02