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2005/04/06

ドキュメンタリー映画『ファルージャからの証言』――イラク人ジャーナリストの苛烈な体験も。

ダール・ジャマイルのサイトで紹介されている映像作品(ドキュメンタリー)『ファルージャからの証言 Testimonies from Falluja』の紹介記事(4月1日)と、撮影したイラク人カメラマンのインタビュー。

『ファルージャからの証言』
'Testimonies from Falluja'
Sonia Nettnin, PalestineChronicle.com
Friday, April 01 2005
http://www.uruknet.info?p=10860
またはhttp://www.palestinechronicle.com/story.php?
sid=200504010628066




「ある将校がいけない言葉を使ったから、イラク人男性がその将校をぴしゃっとはたいた。すると将校はその男性を殴りつけた。男性の腕を折り、両腕と両脚を縛った。それから戦車が……」

『ファルージャからの証言』は、2004年10月と11月の米軍によるファルージャ攻撃を体験したイラク人たちの証言を集めたものである。

実際に体験した者の口から空から加えられる爆撃が語られる。ビデオ映像には路上に転がる焼けただれ粉砕された死体が映される。子どもの死体もある。傍らには破壊された建造物。米国のメインストリーム・メディアは、この戦争のこういった面を報じなかった。

バックグラウンドで爆発が続くなか、カメラマンのイザム・ラシドは、生き延びるために走る人々を追う。男たちは女や子どもたちに学校まで走れと言う。学校なら生き残れる可能性がより高いと考えているからだ。ひとりの男が女たちのグループに向かって叫ぶ。「神は最も偉大なり。」

米軍は、今回の攻撃は10月の終わりに始まったと伝えているが、2~3の証言では10月の半ばには始まっていたという。ちょうどラマダーンの始まりのころだ。飲食を断ち、祈り、内省するための、ムスリムにとっての聖なる月の始まるころ。

米軍の侵攻と人々の殺戮のタイミングのため、米国はイスラムをも攻撃しているのだと考えるようになったひとりの男性がいる。

ファルージャ・モスクのシャイフは、砲兵隊6隊がファルージャを攻撃したと説明する。路上での米兵に対する攻撃の間に、米兵らは一般市民の車6台を銃撃した。米兵は中に人がいる家屋をランダムに銃撃した。「ええ、見ましたよ。若い人たちが殺され、手足をもがれ、戦車で踏み潰されるのを」とシャイフは言う。

屋上から銃撃をし、建物を爆撃する米兵の映像が、イラク人による証言のさらなる裏づけとなる。ファルージャのスカイラインは煙と火薬に縁取られ、その真ん中で兵士たちが奇声を上げている。数々の証言で、米兵と対峙した際のそれぞれの経験が仔細に述べられる。

言語障害のあるひとりの男性が自身の経験を説明する。ある将校がいけない言葉を使ったから、イラク人男性がその将校をぴしゃっとはたいた。すると将校はその男性を殴りつけた。男性の腕を折り、両腕と両脚を縛った。それから戦車がその男性を踏み潰した。証言者はスタッカートのようなアラビア語を使い。証言を終える際に2本の指を見せる。【訳注:「2本の指を見せる」とは、いわゆるtwo-finger saluteのこと。つまりf**k offのこと。】

この証言者は殺人を目撃したために、米兵らは彼を拘束し、フードをかぶせた。そして彼の持っていた300,000イラク・ディナールと200ドルを取り上げて、二度と戻ってくるんじゃないと告げた。

米国は何故ファルージャを攻撃したのか? ニュースで報道されていたところでは、米国は一連の拉致・斬首・自爆の首謀者であるとされるアブ・ムサブ・アル=ザルカウィを追っていた。イラク国内の反乱を率いているとされていた人物である。さらに、米軍はファルージャには3000人のレジスタンス戦士がいると推定していた。彼らは米国主導の占領に対するレジスタンスの象徴だった。そして米軍は彼ら全員(の根絶)を求めた。

空からの爆撃は数日の間、夜も昼も続いた。爆発音は非常に大きく、ある男性の耳の聞こえない娘は、上方を飛ぶ爆弾の破片に驚いて叫び始めた。米軍はまた家屋を強制捜索した。2人の少女が、ある夜銃を持った米兵たちが、数家族16人が眠る部屋に押し入ってきたと語る。強制捜索を行ないながら米兵たちは人々を蹴りつけ、男性たちを集めて手を縛り、それから車で去っていった。米兵についてどう思うかと尋ねられると、年長の少女が「よくない。私は好きじゃない。だってお行儀悪いから」と答える。

今回のファルージャ攻撃以来、多くの人々が自宅を失ってしまっている。警察や国家警備隊が家具調度を盗んでしまった。多くの人々が、隣接する町に、難民として暮らしている。生き残った男たちの一部は収容所だ。ファルージャを後にしたとき、人々は夏物の服しか持っていなかった。現在彼らは、厚手の衣料も燃料も仕事もなく、テント生活を送っている。子どもたちは学校に行けていない。女たちは屋外の水道でプラスチックの桶で洗濯をしている。彼女たちがそこで洗う食器もプラスチック製だ。女たちは地面にしゃがみこんでこれらの大変な作業を行なう。「夜になると冷え込みが耐えられないほどだ」とある男性が言う。

女性活動家であるハナ・イブラヒムさんによると、これらの家族たちにはシェルターが必要なだけでなく、医師も食料も薬もお金も必要なのだという。ひとりの男性が、2004年4月のファルージャ攻撃以来体調を崩してしまった息子を抱いている。血色が悪く髪の毛のないこの息子は、インタビューを始める直前に、父親に抱かれたまま嘔吐していた。父親は息子を病院に連れて行ったが、治療はできない。全体として、子どもたちの多くが体調を崩している。そして人々は難民となったことで屈辱を感じている。

2004年11月12日のファルージャの映像には、砂漠とゴーストタウンと、焼けた車と家々が映されている。死体が路上にごろごろしている。柱状になった煙が空に伸びている。

バックグラウンドにオルガンの音楽が流れるなか、人々は地面に膝をつく。傍らには見渡す限りの墓の列。

『ファルージャからの証言』は、Al Qitaf Artistic Productionの作品。監督兼プロデューサーはハムディ・ジャシム(Hamodi Jasim)。カメラにイザム・ラシド(Isam Rashid)。音楽はアハメド・ジハド(Ahmed Jihad)。編集はハッサン・アル=ジャフ(Hassan Al-Jaff)。吹き替えはダール・ジャマイル(Dahr Jamail)。証言はアラビア語で行なわれ、ジャマイルがボイスオーバーで英語で説明している。この作品の収益の一部は、これらイラク人ジャーナリストと映画制作者のチームがこの先独立の立場でメディアとして活動するための資金として当てられる。DVDの配給はPepperSpray Productionsから。


PepperSpray Productionsのページはここです。長さは33分7秒。価格は$10(+送料:米国内$2。米国外は別途問い合わせをとのこと)。このDVDは個人視聴用の映像クオリティで、放送用のクオリティのものは別途発売予定があるとのことです。

さらに、このドキュメンタリーのカメラを担当したイザム・ラシドさんのインタビューが、英Socialist Worker Onlineの2月19日号にありましたので、これも日本語にしておきます。

真実を見せることも抵抗の一形態である
To show the reality is also a form of resistance
Socialist Worker Online > archive > 19 February 2005 | issue 1939
http://www.socialistworker.co.uk/article.php4?article_id=5893

カメラマンのイザム・ラシド・アブデル・ラーマン(Issam Rashid Abdel Rahman)は、占領に反対する抗議デモを撮影していたら面倒なことになってしまった。本誌のサイモン・アサフが話を聞いた。

私はいつも、占領に反対する抗議デモや、人々の権利を求めるデモを撮影していました。それが原因で面倒なことになってしまいました。初めて逮捕されたのは、2003年でしたが、そのときは数時間で身柄を解放されました。でも2度目はそんな程度じゃ済まなかったのです。

2004年1月30日、朝の3時に米兵たちが私の自宅に現れました。私服のイラク警察官を1人伴っていました。私が撮影したものが気に食わないからつかまえに来たのだろうとわかっていました。私はドアを開けました。じゃないと壊されるんじゃないかと思いましたからね。

礼儀正しく応じましたよ。無礼な奴だと思われたら、家は破壊され家族は殴られますからね。年老いた父や家族たちと同居していましたから――子どもも2人いました。2歳と4歳です――米兵たちに暴力をふるう口実を与えたくなかった。だから私は英語で「どうぞお入りください。ようこそおいでになりました」と言いました。

彼らは私に、ジャーナリストのイザム・ラシド・アブデル・ラーマンか、と尋ねました。私ははいそうですと答え、抵抗しませんでした。彼らはカメラとフィルムとテープなどを渡せと要求しました。その通りにしました。

けれども彼らは、私が他の素材を隠していると考えたんですね。彼らは家じゅうをひっくり返しました。78歳になる父や子どもたちのボディチェックまでしたんです。何も見つけませんでしたが――それでも私は刑務所に連行されました。

4日後、私はアダミヤの刑務所に移されました。彼らはビニールの手かせで私の両手を縛り、頭に袋をかぶせました。なので昼なのか夜なのかも私にはわかりませんでした。

何日も食事を与えられず、飲み水もほとんどありませんでした。私は空腹で、喉が渇いていて、恐怖にすくんでいました。

一番つらかったのが手かせです。眠りたいときですら、ずっと手かせをされて頭に袋をされたままで、しかも後ろ手にされていました。こんなふうに、何日も縛られていたんです。

時々息がしづらくなりました。特に夜はそうでした。手かせのせいで血液の流れがストップしてしまって、手は感覚がなくなっていました。唯一親切にしてくれたのが、メキシコ系の、ラティーノの米兵でした。私がつらそうにしているのを見て手かせを緩め、頭の袋をしばらく取って、コーラを1缶くれたんです。

ある夜、知らない人が私の房室に入ってきて尋問を始めました。その人は私の名前を尋ねましたが、私が答えると、私の身体を壁に押し付けて同じ質問を繰り返すのです。私はジャーナリストです、カメラマンですと言うと、また私の身体を壁に押し付けました。

私はその人に、撮影したのは女性の権利を求める抗議デモのようなものばかりだ、と言いました。カメラもフィルムも没収されているから、私が撮影したものは見られますよとも言いました。

その人は私を殴り続けました。情報がほしかったわけじゃないんですね。単に私を脅かしたかったんです。それから私は別の部屋に移されて、また拷問されました。しかし今度は、彼らは私の家族全員を知っているぞと言うのです。私の家族の名を挙げて、職場も言うのです。子どもが通っている学校も知っているし、子どもの誕生日まで知っていると。非常におそろしかったです。

彼らは私の父の家を襲撃するぞと言いました。私から何を得たがっているのか、なぜこんなふうに私を扱うのか、私は何度も何度も彼らに尋ねました。けれども彼らは言わなかった。ただ脅かしていただけなんですね。

最終的には――私には知る由もありませんでしたが――イラクのジャーナリストたちが、アメリカの方々も含めて、私の身柄の解放を求める運動を始めてくれて。英国のNUJのジャーナリスト組合も支援してくださって、大変に感謝しています。

私は解放されましたが、また逮捕されました。今度は、モスクへの米軍の攻撃を撮影したからです。昨年11月、金曜礼拝に集まった多くの信者を殴打し殺害した件*注です。

バグダードのアブ・ハニファ・モスクは1500人ほどの信者でいっぱいになっていました。50人ほどの米兵とイラク国家警備隊の兵士がモスクを取り囲んでいました。兵士たちはスタン・グリネード【訳注:殺傷ではなく混乱させることを目的とした榴弾】を投げたり、モスクから立ち去れと人々に向かって叫んだりしていました。

私は撮影を開始しました。モスクから逃げようとしている信者を兵士たちが殴っているのを撮影しました。兵士たちはライフルで人々を殴り、蹴飛ばしていました。

人々はパニックを起こし始めました。「アッラーアクバル(神は偉大なり)」と叫び出す人々もいました。そしてアメリカ人は、これを耳にすると、信者たちに向けて発砲したのです。4人が死に、ほかに多くのけが人が出ました。

ひとりの米軍将校が、私がこの攻撃を撮影しているのを見て、私に殴りかかってきました。幸いなことに、イラク人警官が私が殴られているのを見てカメラを救い出してくれました。カメラは私の命ですから。けれども、テープは彼に没収されました。

彼らは私を軍の車両に連行し、また殴打しまいた。何人かの兵士が、私の腕に煙草を押し付けました。最終的にはIDカードを示して脱出しました。私のIDは、祈りの場を守るボランティアのモスクの警備員であるという証明です。6時間ひどい扱いをした挙句、彼らはようやく私を解放しました。神に感謝します。

彼らがイラクにもたらしているのは奇妙な民主主義です。私たちの国は、みじめな場所になってしまいました。けれども多くの人々が、自分たちにできる方法で、抵抗しています。

私にとって最も重要な抵抗は、シーア派とスンニ派が団結して立ち、アメリカ人に私たちを分断させないようにすることです。スンニ派とシーア派が占領に反対してデモを行なうこと、シーア派がファルージャの人々を助けるために現れること――これが抵抗です。そして私にとっての抵抗とは、カメラです――私の国で起きていることを撮影して、公に示すことです。

イザム・ラシド・アブデル・ラーマンはフリーランスのテレビ・カメラマン。これまでチャンネル4をはじめとする多くの報道エージェンシーで仕事をしてきた。

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*訳注:
2004年11月のアブ・ハニファ・モスクでの銃撃事件については、当ウェブログ過去記事ではダール・ジャマイルの記事およびBBCの記事。(←4月7~10日にかけてサーバがつながらないかもしれません。)また、当ウェブログでは日本語にしてはいませんが、ダール・ジャマイルの2004年11月26日記事もぜひ。】


なお、2つの記事で名前の表記が Isam / Issam とばらついているのは、原文のママです。

2つ目のインタビューが掲載された英国のソーシャリスト・ワーカー2月19日号は、オンラインで見るとファルージャ特集号のようなものだったようで、2004年4月のファルージャで負傷者の治療に当たったイスマエル医師の記事も掲載されています(→益岡さんによる日本語化ファイル)。

投稿者:いけだ
2005-04-06 19:19:39

「アブ・グレイブのスティーヴより」

アブ・グレイブの米兵からのメール。最初に原文(英語)を、続けて日本語を。(あんまりうまく日本語にできていないと思いますが。。。)


US Casualties: An Email From US Soldier Stationed At Abu Garib[sic] Prison
April 04, 2005

I am an American soldier here and don't want to be. Yesterday we got hit by Iraqis and twenty four of us died and forty seven injured. My government has been hiding the true number of our casualties since the beginning. We American soldiers know that there are thirteen thousand of us that have died and forty nine thousand injured and thirty three thousand of the injured were bad enough to be forced out of the military and crippled for the rest of their lives. If only I could get my hands on Bush or Rumsfeld.

Steve from Abu Ghraib


米軍死傷者数:アブ・グレイブ刑務所に駐屯している米兵からのメール
2005年4月4日

僕は米兵でここに駐屯しているんですが、自分で望んで居るわけではありません。昨日、イラク人の襲撃を受け、米軍部隊のうち24人が死に、47人が負傷しました。僕の政府は最初っから、本当の死傷者数を隠し続けてきました。僕ら米兵にはわかっていることですが、死亡したのは13000人、負傷したのは49000人、負傷した兵士のうち33000人はあまりに怪我がひどくて除隊を余儀なくされ、残りの人生を不自由な身体で過ごさなければなりません。僕の手をブッシュかラムズフェルドに届かせることさえできればと思います。

アブ・グレイブのスティーヴより



齊藤力二朗さんのアラブの声MLで流れてきたものです。

投稿者:いけだ
2005-04-06 09:11:27

【重要な事務的ご連絡】本家のサーバ(news handler)停止中の閲覧について

以下は念のため転記しておくものです。

先にお伝えしたように,本家のサーバ(news handler)で,4月7日から10日にかけて,下記の日程でサーバ停止を含むサーバ移行作業が行なわれます。(今ご覧になっているblogspot.comのサイトは停止しません。)

4月7日10:00~4月8日22:00
→teanotwar.blogtribe.orgは閲覧のみ可能。記事の更新はミラーサイト(http://teanotwar.blogspot.com =今ご覧になっているここ)で行います(必要な方はブックマークをお願いします)。

4月8日22:00~
→サーバ停止。teanotwar.blogtribe.orgは閲覧もできなくなります。

4月10日13:00~
→検証作業開始。この時点で閲覧できるようになります。(更新については,動作が保証されたとのサーバ管理人さんのアナウンスがあるまでは,ミラーサイト=teanotwar.blogspot.com =今ご覧になっているここをベースに行います。)

……上記のような次第にて,4月8日22:00から10日13:00までは閲覧ができない状態になると思われます。

その期間内の過去ログ閲覧については下記の通りです。

1)このウェブログ開始時(2004年6月)から2004年11月21日02:34:45の投稿:
web.archive.orgにアーカイヴされていますので,これをご利用ください。

2)2004年11月21日12:05:56の投稿から2004年最後の投稿:
→web.archive.orgにもアーカイヴされていないので,基本的に閲覧できません。Googleのキャッシュは存在しますが,サクサク閲覧できるというわけではありませんのでご注意ください。

3)2005年になってからの投稿:
→ミラーサイト(http://teanotwar.blogspot.com =今ご覧になっているここ)に転載してあります。(一部,事務的なご連絡を除く。)

以上,ご不便をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。

なお,上記期間内に当ウェブログの過去記事をお読みになる可能性がおありの方で確実に読みたいという方は,4月6日中に各自でダウンロードしておいてください。(ただしサーバがあまり安定していないときもありますので,巡回・DLツールでも保存されないこともあるかもしれません。)

ダウンロードには,例えば次のようなソフトウェアが利用できます。(すべてvectorにリンク。各ソフトについてのお問い合わせは各ソフトの作者さんまでお願いします。)

*Windows NT/2000/XP
ダウンロード > WindowsNT/2000/XP > インターネット&通信 > Web用ユーティリティ > ダウンロード

*Windows95/98/Me
ダウンロード > Windows95/98/Me > インターネット&通信 > Web用ユーティリティ > ダウンロード
ダウンロード > Windows95/98/Me > インターネット&通信 > Web用ユーティリティ > Web自動巡回

*Mac
ダウンロード > Mac > インターネット&通信 > Web用ユーティリティ > Web自動巡回

(サーバ停止期間中は,たまたま仕事が多忙のため,お問い合わせには応じられないと思います。あしからずご了承ください。)

以上よろしくお願いいたします。

投稿者:いけだ(当ウェブログ事務管理担当)

アブ・グレイブとCIA(ロイター,4月4日)

アブ・グレイブが重武装した民兵に襲撃された(BBC,4月3日)とのことですが,ここではその件ではなく,昨年明るみに出た「拷問/虐待」についての記事を,続けて見ていきたいと思います。

3月30日にuruknet.info記事に書かれていた件ミラーのURL)の詳細,という感じです。4月4日のロイターの記事。

アブ・グレイブについての調査で,イラク人の死におけるCIAの役割が示唆される
Abu Ghraib Probe Suggests CIA Role in Iraqi Deaths
Mon Apr 4, 2005 06:04 PM ET
By David Morgan
http://www.reuters.com/

【ワシントン発】ブッシュ政権の法律家は攻撃的な尋問方針を進めていたが,イラクで被拘束者が死亡した数件の事例について,CIAの尋問が一定の役割を果たした可能性がある。

米国当局は,イラクにおいてCIAに尋問され死亡した人物1名についてのみ,正式に情報を開示した。この人物はマナデル・アル=ジャマディさん(Manadel al-Jamadi)で,登録されずにアブ・グレイブに収容されていた「幽霊(ghost)」囚人。2003年11月4日,同刑務所のシャワー室で手かせをされた状態で死亡した。

この件について,アブ・グレイブの軍情報部および軍警察によって軍調査官らに提出された宣誓されたステートメントには,アル=ジャマディさんのケースとつながりのないCIA拘束者の死亡事例が少なくとも4例,言及されている。

ACLUが入手したこの文書は,昨年9月,アブ・グレイブに登録されていないCIAによる拘束者が存在することを最初に明らかにした軍の調査のために集められたものである。

これらの文書は先月,ACLUのウェブサイトにアップロードされた。軍は「OGA」という略語を使っているが,これは「other government agency」の頭文字で,これはまず例外なくCIAのことを指すものである。

1通の文書は,アル=ジャマディさんの死亡する2ヶ月前の2003年9月に,尋問中に死亡した「OGA」被収容者について述べている。別の文書には,10月にも死亡事例があったことが示唆されており,また別の文書では,刑務所のシャワーに鎖でつながれている間に死亡した被拘束者のことが書かれている。また,4通目の文書には,尋問中に心臓の問題で死亡した被拘束者がいたことが述べられている。

これらの疑惑の根拠は,兵士らが聞いたことであるが,兵士らは具体的な裏づけは提供していない。文書には詳細な点はほとんど提供されておらず,証人や軍の兵士や上官の名前は編集されて消されている。

情報当局高官はこれらのステートメントを根拠のないうわさであるなどとして一蹴した。政府はアル=ジャマディさんは海軍特殊部隊に拘束される際に負った傷が元で死亡したとしている。

しかし,2003年11月にイラク西部で軍の尋問中に死亡したイラク軍将校の件については,CIAが役割を果たしたかもしれないと認めている。

アブ・グレイブでの軍調査を進めたジョージ・フェイ少将は,ロイターに対し,アブ・グレイブで尋問に関連して死亡したと確定しているのはアル=ジャマディさんだけだと語った。

しかし同少将のチームが提出した報告書には,アブ・グレイブ以外での少なくともほかに3件の死亡事例に,CIAが関係しているかもしれないとある。軍情報部のassistant deputy chief of staffであるフェイ少将は,「少なくとも3件あるが,もっと多くあったかもしれない。OGAが関わっていたかもしれないし関わっていなかったかもしれない――まだ結論は出ていない」と,インタビューで答えている。

アブ・グレイブ外部での尋問中の死亡は,フェイ少将の任務外であったため,同少将は情報を,当時のイラク米軍司令官だったリカルド・サンチェス中将に渡した。

結局は疑惑は,Richard Formica陸軍准将に主導される調査に任されたが,その調査結果はいまだに機密扱いとなっている。

CIAの監察官は,およそ6件の囚人虐待疑惑についてレビューしているところだが,CIAが関わった可能性のあるアブ・グレイブでの死亡事例は,アル=ジャマディさんのみであると述べている。

同監察官はアフガニスタンでCIAに拘束された人物の死亡事例2件について,法務省に提出している。1件はノースカロライナ州の地裁での裁判となる。

ACLUの法務スタッフであるアムリット・シン氏は,最近CIAは拘束した人物についての情報を公開すべきであるとの連邦法廷命令を勝ち取ったが,軍の文書はCIAに拘束されている人々の死亡事例の件数が実際よりも少なく報告されていることを示している可能性があると言う。「CIAは収容した人々を定石的に拷問していたことを,これらの文書は示唆しています。」シン氏はCIAが軍より苛烈な尋問手法を使う上で,ブッシュ政権が許可を与えたと考えている。

CIAのポーター・ゴス(Porter Goss)長官は,先月の上院委員会で,現在CIAは拷問に関する米国の法律に従っていることは確実としている。一方でCIAは後に,過去においても現在においても,尋問手法は法を守ったものであると宣言するステートメントを出している。

上院情報委員会の委員長をつとめる共和党のパット・ロバーツ上院議員は,現在のCIAの調査で十分であるとし,CIAの拷問を調査すべきとの民主党からの要求に抵抗している。

元情報職員らは,虐待疑惑は2001年9月11日以降の方針変更から生じたものであると考えている。「CIAは,国家安全保障委員会とホワイトハウスからの指示に従っているだけであり,CIAが独自にこういったことを考え出しているわけではない」と,ある元職員は述べている。

2002年8月に法務省によって準備された legal opinionが拷問について定義しているが,その定義は狭く,これが威圧的タクティクスの使用につながったとの批判がある。

アブ・グレイブでの虐待が明らかになったあと,昨夏ホワイトハウスは公式にこのポリシーを棄て,12月に拷問についてのより広い定義に置き換えた。


これとほぼ同じ記事が,aljazeera publishing(カタールではなくUAE:詳細はabout us)にも出ています→CIA interrogations played role in Iraqi detainees deaths, 4/5/2005 9:00:00 AM GMT。こちらは読者の感想・意見が同じページに投稿されています。

投稿者:いけだ
2005-04-05 23:52:54

「拷問/虐待」とサンチェス中将,アブ・グレイブとCIA

ACLUが入手した文書に示されていた,当時駐イラク米軍司令官であったリカルド・サンチェス中将と「尋問テクニック」について,またアブ・グレイブ以外での「拷問・虐待」について,さらにCIAとの関わりなど――3月30日のBBC記事など。

米国のthe American Civil Liberties Union(ACLU)は,イラクおよびアフガニスタンにおける囚人虐待の責任者であるとしてドナルド・ラムズフェルド国防長官を訴えた裁判(→4月1日のACLUプレスリリース)での一連の手続きにおいて,さまざまな文書を入手してきました。アブ・グレイブに子どもが収容されていたことが,この3月に明らかになったのも,ACLUが入手した文書によってでした(このことについてのラフール・マハジャンの記述,およびBBCの記事)。

この後,3月末にACLUが入手した文書により,さらに,当時の米軍司令官サンチェス中将が,各種尋問テクニックを知っていたこと,またアブ・グレイブ以外の収容施設での拷問/虐待行為についての軍の内部調査の詳細などが明らかになっています。

3月30日の,英BBCのあっさりした報道記事と,イタリアの英語サイトuruknetの詳しい記事を。

まずはBBCです。
US memo shows Iraq jail methods
Last Updated: Wednesday, 30 March, 2005, 04:24 GMT
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/4392519.stm
※概略

米国のthe American Civil Liberties Union(ACLU)が米国情報公開法により入手した2003年9月付けの文書によると,当時の駐イラク米軍最高司令官,リカルド・サンチェス中将が,各種の尋問テクニックを許可していた(authorised)。

これらの尋問テクニックには,犬をけしかける,方向をわからなくする,ストレスのかかる体勢を取らせる,大音量の音楽をかける,照明をつけっぱなしにする,部屋の温度を極端に上げるまたは下げるなどする,睡眠のパターンを乱す,不快な臭いを放つ,孤立させる,といったものが含まれている。また,米国以外の国の人物が尋問を行なっていると信じさせるために「偽の旗(false flag)」を使うことも許可していた。

マズルをつけた軍用犬を使うことに関しては,このメモには「アラブ人が犬を恐れることを利用しつつ,一方で尋問中の安全を維持する」とある。

ACLUでは,これらの手法は一般に認められている手法ではなく,サンチェス中将に責任を問うべき(should be made accountable)としている。

これらの手法はすべてサンチェス中将の認可を得ていたが,1ヵ月後に軍の法律家からの反対のために撤回されていた。

サンチェス中将は,これらのテクニックについては毎回,申請と認可の手続きが取られた上で行なわれていたとし,自分は一度もその許可を与えたことはないと述べている。

当初ペンタゴンは国家安全保障上の理由でこのメモの公開を拒否していたが,ACLUは情報公開法に基づいて法的手続きを行ない,その結果,メモは3月25日にACLUに渡された。

ACLUでは,文書にある29のテクニックのうち少なくとも12が,軍の現場マニュアルで認められている限界をはるかに超えるものであるとしている。

ACLUの法律家であるアムリット・シン(Amrit Singh)はACLUの声明文で「サンチェス中将は,明らかにジュネーヴ条約に違反し,軍の基準をも逸脱した尋問テクニックを認めていた。被拘束者に対する広範な虐待に責任を負う,中将をはじめとする軍高官は,説明責任を負うべきである」と述べている。

アブ・グレイブ刑務所で米軍兵士らによってイラク人囚人が虐待を受けたのは,サンチェス中将が総司令官をつとめていた時期のことであった。

軍の調査では,これらの虐待は幹部らによって定められた方針の結果生じたものではない,との結論になっている。


同じニュースについて書かれている,uruknet.info(イタリア;記事は英語)の,BBCよりはるかに主張系の記事によると,問題の文書はサンチェス中将によって2003年9月14日に書かれたもの。

また,「ペンタゴンは3月21日までにこの文書を渡すことになっていたのに,イースター休暇直前の25日になってやっと出してきた」,また,「ACLUに渡される前に,文書を収録したCD-ROMが一部の報道関係者に渡されていた」とのこと。

uruknet.infoの記事の要点となる部分を訳出しておきます。

このサンチェス・メモは,2003年4月にラムズフェルド国防長官に承認された尋問テクニック・リストより広範囲なものであり,2003年秋にジェフリー・ミラー将軍(当時,グアンタナモ湾米軍キャンプのトップ)がイラクを訪問した時期と重なっている。グアンタナモでは苛烈な尋問テクニックが用いられている。

サンチェス・メモのすぐ後に起きた虐待の疑惑についての軍の内部調査の報告書には,アブ・グレイブ以外での同種の件が示されている。

2003年12月にモスルのthe 101st Airborne Division管轄地域内,the Brigade Holding Area (BHA) of the 311th Military Intelligence unitで,20歳のイラク人男性が米軍に拘束されている間にあごを砕かれた。この男性は父親がサダム・フェダイーンの一員だったことがあるために拘束された。この男性は,米兵にあごを殴りつけられたと語り,「一晩中水をかけられていた。立たされたりしゃがまされたりした。夜から翌日にかけてずっと殴られた。木曜日にあごを殴られた。その後水を与えられたがまるで飲めなかった」と述べている。

この事件の調査にあたった調査官は,モスルの施設での広範な虐待の証拠を発見している。「the 311th MIに所属する兵士および/または通訳が,被収容者の肉体的拷問(physical torture)を行なったという証拠がある」と調査官は書いている。また,被収容者の虐待は「受容できるpracticeであり,経験の少ない歩兵隊警備員に,ほとんどガイダンスのように示された。……ジュネーヴ条約の第三条約および第四条約に違反している」とも書いている。

兵士らによって用いられた手法には,ヘヴィメタルを大音量でかける,拡声器を使って怒鳴りつける,水のボトルで殴る,長時間にわたって運動を強要する,冷たい水をかける,睡眠を奪う,などといったものがある。

兵士のひとりによると,「一晩中金属の扉を叩いたり,うるさい音楽をかけたり,怒鳴りつけたりして,囚人を寝かさないようにしていた。これらが指示されていた」という。殴ってはならないと指示されていたとこの兵士は言うが,別の部隊員は司令官が「囚人の首に膝を乗せて床に押し付けていた」のを目撃している。「この司令官は非常に攻撃的で囚人の扱いが乱暴だった。」

これらの手法は,尋問を進めることを目的としていたものであろう。ある将校は「これをすると疲れてしまう。疲れるとうっかりするものだ」と述べている。

この件の2日前の2003年12月9日,アブ・マリク・ケナミ(Abu Malik Kenami)という囚人が死亡した。死因は心臓発作と思われる。ある署名のない文書には「5日から9日にかけて,ケナミは収容施設内のルールに従っていなかった。彼への罰はups and downsだった。Ups and downsとは,囚人を短時間のうちに連続して立たせたり座らせたりする矯正テクニックのことである」とある。ケナミには心臓病の病歴はなく,検視解剖も行なわれていない。

この調査官は,the 311th Military Intelligence unit司令官に対する懲戒処分は一切提言していない。

別の調査では,2003年6月に起きた件で,タジのTask Force Iron Gunner, a unit of the 4th Infantry Divisionが対象となっている。

心理作戦(Psychological Operations: PSYOP)の将校が,しばしばイラク人全般をターゲットとする無差別的・犯罪的性格の拘束や作戦を行なっていたことを示す報告がある。この将校によれば,「Task Force Gunnerは地域の一般市民を拘束していたが,その根拠はただの思いつきに過ぎないものであった。当初人々は,100ドル相当を所持していたとの理由で拘束され連行されてきた。……このタスクフォースはその金銭を取り上げ,そのまま返却しないことも多かった。……尋問された650人以上のうち,少しでも情報的価値があると証明されたのはわずか20人だった。」

この将校は,司令官は「誰が『悪い奴』で収容すべきなのかを判断するときにオーソドックスではない方法を」使っていた,と述べる。「手を振ってみせて相手が同じように応じなかった場合には逮捕させていた。」

あるとき,このユニットがパトロール中に発砲を受けた。「事件現場近辺の一般家屋に家宅捜索が行なわれた。……降服せよとの告知で,その家の住民(女性と子どもがだいたい19人と男性が3人)が降服した。住民が家から出ると,ブラッドリーが家に対しておよそ1分間の銃撃を加え,家は家族の見ている前で炎上した。」

さらにまた,砲兵隊の車列に対し発砲したとされる車両に,この車列が発砲したというケースもある。この将校は「しかし報告書には武器が回収されたとの記述がない」と書いている。「遺体はタジの軍事施設にすぐに埋められ,居場所を尋ねてきた家族が一時的に収容され,翌日遺体の引き取りに来るようにと言われた。(死亡した人の)父親は翌日再訪し,息子たちの遺体を掘り出さなければならなかった。」

この将校によれば,「この〔編集されている〕は毎回,活動中のタスクフォース・メンバーがイラク国民を銃撃し殺すことは,受容範囲内であり,必要なことですらある,ということをはっきりさせていた」。

この他にも多くの事例がこれらの文書には報告されている。ある文書には,バグダード近くに駐留する将校が,軍規違反で有罪を申し立てたとある。この将校は「ある囚人の服をすべて脱がせ,その囚人を,全裸のまま公衆の面前を帰らせるよう,部下に積極的に指示した」。

the 41st Infantryのある司令官は,2003年3月のイラク侵攻当初に,部隊に対して「戦争捕虜をとるのではなく,敵は全員,戦闘中であれ負傷しているのであれ降服してきたのであれ,殺せ」と命令したとして訴えられている。

2003年8月16日付けの文書には,ある将校が部下の一人に対し,「囚人を連れ戻して殴りつけてゲロを吐かせろ」と(f***を入れて)命令した,とある。Husaybahにいた兵士はMTVの番組「Jackass」の投稿ネタにするつもりでビデオを撮影した。そのビデオでその兵士は「こいつの腹を殴ります。これがJackass Iraqです」と言い,囚人を殴った。

これらは,ACLUが入手した大量の文書の最新のものであるにすぎない。3月9日,ACLUは自身のサイトに,CIAの「ghost detainees」に関する一連の文書を掲載した。その中には,CIAと軍情報機関がアブ・グレイブにおいて,同刑務所をCIAの秘密囚人(secret prisoners)を拘置しておくために用いることで合意したという声明もある。これらの囚人は国際赤十字委員会からも隠されている。

先週,関連する文書をワシントン・ポスト紙が入手した。3月24日の同紙記事によれば,「未登録の,CIAによる拘束者が,2003年末の1週間の間に数度,アブ・グレイブに連行されていた。そして……特別の独房に隠されていた。1ケタのID番号をつけられたこれらの収容者を追跡するため,軍警察はrough systemを考案し,一方で名前も挙げられず告知もされず説明もなく死亡した(drop off)者もいる」。

ワシントン・ポスト紙が入手した文書には,同刑務所での最高位の軍情報部将校であるColonel Thomas PappasとLieutenant Colonel Steven Jordanが,幽霊囚人の扱いをめぐるCIAとの協議に関わっていたことが示されている。文書のうち1通は,サンチェス中将の供述であり,イラクにおける情報部将校トップのMajor General Barbara Fastが「OGA(Other Government Agency, すなわちCIAを言う)によって使われる独房の配置について知らされていた」としている。

CIAの幽霊囚人は,アブ・グレイブでの虐待写真に写されている人々の中にもいる。氷につけられたManadel a-Jamadiの死体の写真があるが,Manadel a-JamadiはおそらくCIAが拘束した人物である。これらの文書は,イラクでの情報将校上層部が,アブ・グレイブが囚人を隠すために用いられていることを知っていたということを示すものである。そしてそれは,国際法の元では違法行為である。


BBCおよびuruknet記事で報告されている文書をはじめとする各種文書そのものがACLUのサイトで閲覧可能(PDF)。ですが,全部で30,000ページだそうです……。

上記2件の記事で言及されている「サンチェス中将のかかわり」についてのプレスリリース(1ページ)はMarch 29, 2005付けと,March 31, 2005で出ています。

uruknetの記事の最後の方にある,「アブ・グレイブとCIA」については,4月4日にロイターが報じています。→日本語にしましたミラーのURL)

投稿者:いけだ
2005-04-05 22:16:00