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2006/03/11

ファルージャ2004年4月:アルジャジーラ記者の目撃談(終)

 
2004年4月。米軍は、ファルージャを包囲し、子どもや女性、老人を含む住民を無差別に射殺し、爆弾で焼き殺した。犠牲者の数は700人にのぼると言われている。現地から報道していたアルジャジーラ記者のインタビュー、最終回。

特報:アルジャジーラ記者が2004年4月米軍によるファルージャ包囲の残忍な事態を自らの目撃体験に基づいて回想する
デモクラシー・ナウ!
2006年2月22日
デモクラシー・ナウ原文

2004年4月、米国はファルージャ----米軍の占領に対するイラク人レジスタンスを象徴することになる、バグダードから西にあるスンニ派の町である- ---に最初の攻撃を加えた。この攻撃が行われたのは、私営の治安企業ブラックウォーター社の4人の米軍契約要員がファルージャで残忍に殺されたあとであった。ファルージャ包囲は、米国の占領の中でも最も残虐な攻撃の一つとなった。その4月の2週間にわたり、地元のゲリラが米国によるファルージャ占領に抵抗したため、30人の米軍海兵隊が殺された。約600人のイラク人が殺され、1000人以上が負傷した。米軍は、当時、殺されたイラク人の大部分はレジスタンスのメンバーだったと主張したが、ファルージャ内からのメディア報告は、死者の中には民間人がとても多く含まれていたことを示していた。

アルジャジーラは、包囲されたファルージャの中から報道を続けたわずかなニュース局の一つで、アルジャジーラの特約ビデオはCNNからBBCにいたるあらゆるネットワークで報じられた。アルジャジーラのアフメド・マンスール記者とカメラマンのライス・ムシュタクはそのときファルージャの中にいて、包囲の期間を通してファルージャの路上から軍属せずに報道を行った。デモクラシー・ナウ!特約の今回の番組では、彼らが、初めて、自分たちの経験を詳しいインタビューに答えて語る。

私たちは今月(2月)上旬、カタールのドーハで彼らと会った。このインタビューはアルジャジーラの通約アリ・マタールが訳したものである。テレビをご覧のみなさんには、これから見る映像のいくつかが生々しいことを事前にお断りしておく。

アフメド・マンスール:アルジャジーラの特派員
ライス・ムシュタク:アルジャジーラのカメラマン
アルジャジーラ英語サイト

荒い書き起こし。この書き起こしは無料で提供しているが、寄付をいただければ、テレビ放送のときに聾者と弱聴者へのキャプションをつけることができる。親切な寄付に感謝します。寄付:$25, $50, $100,more...


エイミー・グッドマン:アルジャジーラのカメラマン、ライス・ムシュタクとアフメド・マンスールへの特約インタビューを続けます。アフメド・マンスールさんに、米軍兵士たちの標的とされたと思うかどうか聞いてみました。

アフメド・マンスール:人々は、私たちに発砲したのは米軍の戦車だと教えてくれました。その地域のすべての人がです。実際、発砲は、その方角から来ました。

エイミー・グッドマン:米軍は、あなたが誰でどこにいたか知っていると思いますか?

アフメド・マンスール:米軍は私たちのいた場所を監視できました。私たちは、その屋上、その場所からライブで報道していたのです。私たちは電話3機と衛星通信をしていました。ですから、米軍がそれを監視していた可能性はあります。私たちは人々と話しました----病院の地区で、そしてすべてライブでした。また、ジュラン地区の戦闘を撮影しました。私たちがいたのは地区で最も高い建物で、有名だったのです。この地域にアルジャジーラの報道陣がいることは誰もが知っていました。私たちはファルージャの戦闘を撮影し、戦闘機の爆撃を撮影し、遺体を病院につれていく車を撮影しました。それをアルジャジーラでライブで報道し、世界中がそれを見ていたのです。そこで、キミット将軍がある夜、姿を現し、「アフメド・マンスールは嘘を広めている」と言ったのです。私たちが発砲を受けたのはそのあとでした。米軍は、自分たちの戦車が発砲している相手が誰だったか、正確に知っていたと思います。不明の間違いというようなものではありませんでした。直接的なものでした。そこで私たちは命を落とさなかったので、今も生き延びています。

エイミー・グッドマン:では、映像や報告、ビデオと記事を、衛星で送っていたのですね?

アフメド・マンスール:そうです。直接、ライブで。

エイミー・グッドマン:直接。さて、そうしますと、アフメド・マンスールさんが言ったことについてですが、ライスさん、あなたは、建物のどこにいたのですか?

ライス・ムシュタク:私たちが建物の屋上にいたときは、イラク、バグダード占領から1周年の日でした。ですから、その日、ライブで報道することになっていたのです。けれども、戦闘が激化したので、私たちはカメラを屋上に据え、ゲストをつれてインタビューを屋上でしたのです。ときどきカメラの位置を変えて路上を撮影し、人々が町を逃れようと動く光景、救急車を撮しました。審判の日、最後の審判の日のようでした。これから何を撮影するか、自分でもわからなかったほどです。何を撮すことになるのだろう? アフメド・マンスールさんは、その場所の写真を撮るよう言いました。写真を撮ろうとしたちょうどその瞬間、飛行機が通りかかり、それを撮ったときもう一機がやってきて、人々は走り始めました。大きな重圧でした。彼らは私たちがいる場所を正確に監視できたでしょう。通信機がなくても、電話の信号がありました。アル=スラヤの携帯電話で衛星を使うものでした。何時間にもわたる衛星生通信と放送の様子はどうだったでしょう。アフメドは、実際、下に降りて・・・・・・

エイミー・グッドマン:アフメド・マンスールさん?

アフメド・マンスール:下に降りたとき、私は、アルジャジーラの社長ワダー・ハンファールが電話をしてきて、キミット将軍が私を非難したと言ったことを聞きました。私たちはアルジャジーラを見ることが出来ませんでした。違う世界にいたのです。同僚の一人が「行こう」と言いました。私は朝から晩まで顔も手も洗わずにいました。そこで彼は、「顔を洗ってから戻ろう」と言ったのです。発砲が始まったのはそのときでした。

ライス・ムシュタク:屋上には他の人たちもいました。彼らは、米軍から激しい発砲があったと言いました。そこで私たちは下に降りて、階段に避難しました。私はカメラを三脚からはずして床に起きました。機材に手が届かなくなりました。発電機やSNG装置です。屋根に戻るのを恐れていました。

私自身は、個人的に、自分たちが標的となっていると感じていました。それが正直な気持ちです。あの状況で、率直に、私たちが標的とされていたのです。何度も、私は夜寝ようとしました。米軍兵士が町に侵入してきて私たちを捕まえたら何をされるだろうと想像しました。そして、心の中で、何を想像すればよいだろう、何も言いたくはないけれど、ジャーナリストとして怯えていました。とても怖かったのです。誤爆を恐れるのはいいかもしれませんが、プロとしての任務を実行することを怖がるべきではありません。私たちは屋上に立って写真を撮っていました。米軍が私たちに発砲しました。

8、9回、居場所を変えました。アフメド・マンスールと一緒に、最初の日に包囲されたいた場所から、町の中心部へ行くために、場所を変えたのです。狙撃手がいたので、私たちは、壁から壁、家から家へとすばやく移動しなくてはなりませんでした。大きな機材と通信機の大きな箱を抱え、壁から壁、家から家に、それを持ち上げながら。私はカメラを二機と三脚、バッテリーと充電器、そのた色々な機材を運んでいました。食べ物を運ぶことさえできませんでした。食べ物は持っていなかったのです。

エイミー・グッドマン:マンスールさん。

食事については、その日、4月の9日の朝、一人の人がやってきて、私たちは----わたしはライスに「この場所の写真を撮って」と言って、彼が振り向く前に「いや、そっちの場所の写真を撮るよう」と言っていました。全部の写真を撮りたかったのです。すべてが変化していましたから。ある人が私にクッキーをくれたので、それを朝食にしました。彼は「食べてるのか?」と聞いたので「いや」と答えると、彼はクッキーをくれました。それはポケットに入れました。夜中の1時に、着替えようとしてポケットに手を入れて、クッキーがあったので、丸一日何も食べていないことに気づきました。何も考えていませんでした。家族の死についても考えませんでした。とはいえ、小さな娘が「パパ、いつ帰ってくるの?」と聞いたことは別ですが。私は、これから何が起きるだろうということだけ考えていました。

ファルージャの現実を全世界に伝えたかったのです。世界中に、この包囲された人々に何が起きているか知ってもらいたかったのです。町を出ることはまったく考えていませんでした。ファルージャにとどまり、住民と一緒に運命にまかせようとしたのです。人々が死ぬなら、私たちも彼らと一緒でした。逃れるなら、私も逃れる。どんな可能性についても考えないことにしました。捕まったら米軍は私に何をするだろうということも、家族のことも、何も。私はファルージャの人のことだけ考えました。いつも、病院に電話をして「新しいけが人が出たか? 新しい死者は?」と聞いていました。

あちこちの地域に爆撃が加えられ、「アフメド、動くな。お前は標的にされている。いつでも殺される可能性がある」と言う人もいました。誰も何一つ身を守るものはありませんでした。私に会う人は誰もが、「何で道を歩き回るんだ?」と聞きました。私たちの命を心配した人々は、「奴らはお前を殺してしまう。銃を持っている奴は誰でもお前を殺すことができる。ここでは誰も何の守りもない」と言いました。それにもかかわらず、私たちは何も考えずに、人々に真実を伝えることだけを考えました。それにもかかわらず、彼らは私たちのことを嘘つきと非難したのです。ただ、自分たちが真実を見たくないというだけの理由で。彼らは、世界が事実と現実を見ることを望まなかったのです。

エイミー・グッドマン:マンスールさん、イラクに戻る予定はありますか?

アフメド・マンスール:戻ろうと思いますが、我々の事務所が----私がファルージャを立ち去ったのは、そうしなくてはならなかったからです。私は、内部に葬儀を抱えてファルージャを立ち去りました。人々、素朴なを後に残して、彼らを見捨てたくはなかたのです。人々と一緒に残りたかったのです。これまでたくさんの戦争を報道してきました。アフガニスタンでは3年です。イラクのクウェート侵略も目にしました。そしてクウェートの人々と2カ月一緒にいました。ボスニア・ヘルツェゴビナで人々に起きていることの真実を伝えることもしました。戦争を取材してきました。

私は、自分の仕事と任務に、人間としての責任を感じています。そして、ジャーナリストとしての自分の仕事を愛しています----スタジオで番組を作る人以上に。私は人々と一緒に、人々の中にいるのが好きで、出来事の中を行き、出来事を生きる人々が、私のペンと番組と記事を通して自分たちを表明するよう託していることに責任を感じています。けれども、ファルージャで起きたことを私が報道したためにアルジャジーラに巨大な圧力が加えられたため、アルジャジーラは私が再びファルージャに戻る手助けをできなくなっています。そして、イラクの事務所は閉鎖され、今も閉鎖されたままです。けれども、いつでもそしていつか、命を奪われている抑圧された人々のために、真実を伝えるためにどこへでも出かけて、世界のどこであれ人々の声を伝えたいと思います。それがたとえアメリカ合州国であっても。

エイミー・グッドマン:ライス・ムシュタクさん、イラクに戻ろうと思いますか?

ライシュ・ムシュタク:戻りたいです。ファルージャを立ち去ったとき、2日間で一度出たのですが、そのときは誰も私に立ち去るよう強制はしませんでした。誰も私を無理矢理働かされはしませんでした。局でさえ、誰も戻るよう言わなかったのです。私は、自分でこれをしなくてはならないと思ったために、戻ったのです。続けなくてはなりませんでした。自分の国だったので、戻りたいのです。私はイラク出身です。ドーハに来たのが、イラクを離れる初めての経験です。35年間、私はイラクに住んでいました。イラクにある道路の一つ一つ、地区の一つ一つ、路地の一つ一つ、学校の一つ一つに、私の思い出があり、人生の歴史があります。私は自分の歴史と自分の国を熱望しています。今は何も残されていなくても。民主主義もなく、破滅以外何もなくても。

写真家としては、世界のどこででも働く意志があります。写真家として、私は紛争地域----何と呼んでもいいのですが----で働くタイプですし、世界中のどこにでも行きます。それが誰でどんな人なのかは気にしません。真実を伝えるために行くのです。私は話しも書きもしません。カメラの目とレンズがあるだけです。それが私の報道で、それが私にあるものです。写真を勝手に創り出したりねつ造することはできません。

エイミー・グッドマン:アルジャジーラのライス・ムシュタクとアフメド・マンスールによる、2004年4月の残忍なファルージャ包囲に関する最初の詳しいインタビューでした。さて、それからもう一つ。アーカンソー・デモクラティック=ガゼット紙によると、米軍が米国に「リトル・ファルージャ」を建設して、兵士の都市戦訓練に使うとのことです。イースト・アーカンソーで、ファルージャの道をまね、バザールやオフィス・ビル、学校も模造するとのことです。爆弾跡や銃弾もあり、運転手が車の窓から発砲し、敵の車両につっこみ、ロケット爆弾を避けるための練習ができるよう2マイルの道も造るそうです。この偽都市の3ブロックは今年夏にオープンする予定です。アーカンソー・デモクラット=ガゼットによると、外国の戦闘地域がオープンするのはそこだけではないそうです。ノース・リトル・ロックの「リトル・モガデシォ」では、訓練生は50フィートの柱に固定されたヘリコプターから懸垂下降し、コンクリートの小屋と路地からなる迷路を抜け、標的を撃ってドアを爆破するということです。

私たちの訳した本『ファルージャ2004年4月』(ラフール・マハジャン他・現代企画室)、そしてジャーナリスト土井敏邦さんのDVD『ファルージャ2004年4月』をぜひご覧下さい。

イラク侵略から3年、ファルージャでの最初の虐殺から約2年がたとうとしています。3月18日には、世界一斉の反戦行動が計画されています。東京でも日本の各地でも、ピースパレードが予定されています。ぜひご参加下さい。

とても悲しいニュースが入ってきました。クリスチャン平和構築チーム(CPT)に属し、イラクで活動していて拘束された4人のうちの一人、米国人トム・フォックスの遺体が発見されたそうです。トム・フォックス自身が書いた記事としては、今日、バグダードはかなり静かな一日だった子どもたちのためにが、本ブログでも紹介されています。

投稿者:益岡

ファルージャ2004年4月:アルジャジーラ記者の目撃談(2)

 
2004年4月。米軍は、ファルージャを包囲し、子どもや女性、老人を含む住民を無差別に射殺し、爆弾で焼き殺した。犠牲者の数は700人にのぼると言われている。現地から報道していたアルジャジーラ記者のインタビュー、第二部。

特報:アルジャジーラ記者が2004年4月米軍によるファルージャ包囲の残忍な事態を自らの目撃体験に基づいて回想する
デモクラシー・ナウ!
2006年2月22日
デモクラシー・ナウ原文

2004年4月、米国はファルージャ----米軍の占領に対するイラク人レジスタンスを象徴することになる、バグダードから西にあるスンニ派の町である- ---に最初の攻撃を加えた。この攻撃が行われたのは、私営の治安企業ブラックウォーター社の4人の米軍契約要員がファルージャで残忍に殺されたあとであった。ファルージャ包囲は、米国の占領の中でも最も残虐な攻撃の一つとなった。その4月の2週間にわたり、地元のゲリラが米国によるファルージャ占領に抵抗したため、30人の米軍海兵隊が殺された。約600人のイラク人が殺され、1000人以上が負傷した。米軍は、当時、殺されたイラク人の大部分はレジスタンスのメンバーだったと主張したが、ファルージャ内からのメディア報告は、死者の中には民間人がとても多く含まれていたことを示していた。

アルジャジーラは、包囲されたファルージャの中から報道を続けたわずかなニュース局の一つで、アルジャジーラの特約ビデオはCNNからBBCにいたるあらゆるネットワークで報じられた。アルジャジーラのアフメド・マンスール記者とカメラマンのライス・ムシュタクはそのときファルージャの中にいて、包囲の期間を通してファルージャの路上から軍属せずに報道を行った。デモクラシー・ナウ!特約の今回の番組では、彼らが、初めて、自分たちの経験を詳しいインタビューに答えて語る。

私たちは今月(2月)上旬、カタールのドーハで彼らと会った。このインタビューはアルジャジーラの通約アリ・マタールが訳したものである。テレビをご覧のみなさんには、これから見る映像のいくつかが生々しいことを事前にお断りしておく。

アフメド・マンスール:アルジャジーラの特派員
ライス・ムシュタク:アルジャジーラのカメラマン
アルジャジーラ英語サイト

荒い書き起こし。この書き起こしは無料で提供しているが、寄付をいただければ、テレビ放送のときに聾者と弱聴者へのキャプションをつけることができる。親切な寄付に感謝します。寄付:$25, $50, $100,more...

エイミー・グッドマン:では、アルジャジーラのアフメド・マンスールとカメラマンのライス・ムシュタクとに今月(2月)上旬、カタールのドーハで行ったインタビューに戻りましょう。お二人は、2004年4月ファルージャが米軍に最初に包囲されたときに、ファルージャの中から報道を続けました。この包囲攻撃は米軍のイラク占領の中でも最も残忍な攻撃の一つで、米軍海兵隊30人と約600人のイラク人が殺されました。彼らがファルージャでの経験を語るのは初めてです。このインタビューはアルジャジーラのアリ・マタールの翻訳によるものです。カメラマンのライス・ムシュタクがお話を続けます。

ライス・ムシュタク:それが初日でした。私はファルージャ包囲が終わるまでそこにいました。10日にファルージャを出てから12日に戻ってきて、町にとどまったのです。アフメドが話した9日は、ファルージャにとって審判の日のようでした。とても厳しい日で、とても困難でした。二日にわたる包囲の恐ろしい経験があったからです。包囲の最初の日、最初の2日でしょうか、私たちはトイレに行くこともできませんでした。というのも、イラク西部のファルージャでは、通常トイレは部屋の外にあり、トイレに行こうとしてドアをあけると、狙撃手の銃のレーザーが向けられたからです。米軍の狙撃手たちと私たちの間は50メートルくらいしかありませんでした。戦車もありました。窓から撮したのですが、路上を動き回っていました。

病院に向かって到着したとき、どんな気持ちだったことか。第一、私は人間です。第二に、私は子どもたちの遺体を目にしたのです。責任を感じました。写真家として、報道チームとして、ここで活動しているのは私たちだけで、ここで起きたことの歴史を書くのは私たちだけだったのです。これは巨大な重荷でした。とても疲れていましたし、アフメドも疲れていました。報道チーム全員が疲れていました。けれども、同時に、ほかに誰がこれらの人々の写真を撮れたでしょう? 驚くべきことでした。次から次へと様々な光景が現れたのです。

私自身、この目である女性を見ました----ちょっとタバコをすうために座っていたときです。年老いた女性が子供と一緒にやってきました。大きなトラックに乗って、ファルージャを立ち去った、いや立ち去ろうとしていたのです。それから15分後に、彼女の体はバラバラになって戻ってきました。そして医療関係者さえ----救急車のドアを開いて私は写真を撮っていたのですが、遺体を見てすぐさま恐ろしい光景からあとずさりしました。近くに立っていた一人を覚えていますが、彼が、イラクの地元訛りで、「勇気を持て。名誉ある人間であれ。自分の母親だったらとそうぞうするんだ。彼女を一人で放っておくのか? 彼女を見捨てるのか?」と言いました。そこで人々は彼女を運び出し、埋葬しようとしたのです。

その同じ日、私は----いや、三日後ですが、全人生で最も困難な光景を目にしました。ファルージャには、ハミズさんという家族がいました。ハミズはジュラン地区の住人で、米軍兵士は、ファルージャ中心部に行くためにジュラン地区を奪取しようとしていました。ハミズ一家は自分の家に集まっていました。姉と家族と娘たちです。4家族ほどが一カ所にいました。子どもたち、若い女性と母親たち。ふつう、男性は、子どもと女性のプライバシーのために、その場を離れるものです。飛行機がこの家を爆破しました。地区全体を米軍機が爆撃したのです。遺体は病院に運び込まれました。私は病院に行きました。子どもたちと女性たちの遺体の海があるだけでした。ほとんどが子どもでした。というのも、農民は通常、子どもが多いからです。信じがたい、想像さえ出来ない光景でした。

私は写真を撮りました。無理矢理写真を撮るよう自分に言い聞かせましたが、私自身も泣きじゃくっていました。カメラを子どもから父親のハミズに移したのです。彼がたった一人家族で残されたのです。彼は子どもたちと話していました。アフメドという名前の小さな子どもがいました。彼はその子にいつも話しかけていたので、そのときも、アフメドのニックネームであるハムーディという名で話しかけていました。彼は眠った子どもに話しかけていたのです。手にはおもちゃの車が握られていました。子どもの頭は半分無くなっていました。ハミズは子どもに話しかけていました。「戻っておいで、大切なハムーディ。膝に乗ってごらん。お前の父さんの膝に」。もう一人の娘にも話しかけていました。五体がそろって傷のない遺体は一つも見あたりませんでした。みんな切り刻まれていました。航空機からの爆撃です。何が起こるか想像できるでしょう。とても打ちひしがれる光景でした。

同時に、正直にまた率直に言えば、人々は大きな責任を感じていました。これほどまでに断固とした市民を見たことはありませんでした。武装した人も軍人もいなかったのですが、皆とても強い人々でした。思ったのですが、町の人々は----私はバグダードの、よく知られた家族の出身です。思ったのですが、都市の住人は文化が高く、教育も受けていて、優れた人格を持っていると考えていました。でも、ファルージャで、そのときその場にいた人々の中では、私は小さな生徒のようでした。我慢して、協力して。ある女性はファルージャの町の外に出て、けが人のために料理を作ってきました。

ほんとうに驚くべき光景だったのは、一人の男性----年老いて、背中が曲がっていました。彼の仕事は、米軍兵士たちが救急車を狙っていたので、負傷者を助けに救急車が出動すると必ず、救急車に向けて米軍は発砲したのです。そこで彼は、65歳だったのですが、夜に出かけていました。遺体やけが人のところに行って、運ぼうとしていたのです。たった一人のけが人を運ぶためにまる一夜をかけたこともありました。遺体を車に乗せて、町中に運んできたのです。イスラムの伝統にしたがって、布に包み、敬意をこめて埋葬するために。

そして、同僚のアフメドが言ったように、サッカー競技場は墓地になっていて、隣接するハイ・ナザール、ナザル地区では、人々はまた、自宅に遺体を埋葬していました。自宅の庭にです。ある男性は、安全な場所がないかとそっと外をのぞいて狙撃手に撃たれ、死にました。誰一人外にでる勇気がなかったので、遺体の足をひっぱって庭に運び、穴を掘って遺体を埋めたのです。ですから、戦闘のあと、ファルージャの人々の多くは自宅の庭をふたたび掘り返して、遺体を墓地に運びました。

一人の子どもを覚えています。これについては、アフメドさんにも言うのを忘れていました。工業地区のハイ[聞き取れず]で一人の女性に会いました。米軍の制圧下にあった地域です。彼女は子どもに母乳をあげていました。その赤ちゃんは死にました。病気だったかも知れませんし、別の理由だったかも知れません。家を出て町に行くことは禁じられていました。彼女は、その地区の工場で働く守衛の妻でした。米軍兵士の食事の残り物もあって、その写真も撮りました。その地区に私が行ってから、赤ちゃんは死に、人々は墓地で埋葬するために町の中心部に行きたいと言いましたが、米軍は「だめだ。この場所を離れてはならない。戦闘中だ」と行ったのです。ですから、彼らは幼い娘を工場の中に埋めました。その赤ちゃんが埋葬された穴を私も見ました。

また別のこともあります。ファルージャを立ち去って、バグダードにいたときのことです。我々の事務所は、双方の側を報道しようとしました。そこで米軍は、写真家と記者に米軍と一緒に行くよう求めてきたのです。ファルージャを包囲している米軍です。2日間休んだときだったので、その地に夜、行きました。町の中心にいたあとで、米軍とともに町の外に来たのです。ファルージャを包囲した米軍海兵隊に随行して、チヌーク機に乗ってグリーンゾーンからそこに行き、米軍キャンプに着いたのです。着いてから二日目に、ファルージャを包囲する部隊の司令官の記者会見がありました。第一部隊? 第一歩兵部隊だったと思います。彼らは、通信社の記者たちを相手に記者会見を行っていたのです。アメリカやヨーロッパ、その他の通信社の記者たちでした。彼らが座る中で、司令官は、文字通り、「我々は、戦場で良好に前進を続けている。そして町にいるテロリストたちと戦士たちを殺す大勝利を収めている」と言いました。ジャーナリストたちがいたので、彼に「民間人はどうなったのか?」と聞きました。彼の答えは、「ああ、民間人なんかいないよ。一人もいないよ。アルジャジーラTVやメディアで見た遺体は、民間人の服を着た戦闘員なんだ」というものでした。

自制を失い、私は「子どもたちはどうなったんだ? 子どもも、民間人の服を着た戦闘員だというのか?」と聞きました。そう聞いたのです。私たちはあまり多くの写真を撮りませんでした。わずかな断片以外報道もできませんでした。たこのように足があってファルージャで起きていたことの写真を撮っていたとしても、あまりに恐ろしい光景だったのです。ファルージャの中を移動することはできませんでした。眠ることもできませんでした。本当です。そこで過ごした40日間で、私は、起きたことの記録を55時間分撮影しただけです。ですから、メディアに現れたものは、現実のほんのわずかな一部にすぎないのです。

エイミー・グッドマン:ファルージャにいたときビデオを撮って、それを持ち出してきましたか?

アフメド・マンスール:ライス、あなたが撮った写真は、ファルージャを出るときに持ってきた?

ライス・ムシュタク:いいえ。ファルージャの中でそれらの写真を撮り、包囲が終わったあとでビデオを撮って、事務所に来たのです。

エイミー・グッドマン:ドナルド・ラムズフェルドが、あなたの報道を「悪辣で不正確で許し難いもので、アルジャジーラのやっていることは唾棄すべきことだ」----これは彼自身の言葉ですが----と言ったことを指摘しておきたいと思います。私の同僚ジェレミー・スカヒルが記事で言っていることによると、デイリー・ミラー紙は翌日、ブッシュがブレアに自分の計画を語ったそうです。ミラー紙にそれを伝えた情報源によると「彼は、カタールそして各地のアルジャジーラを爆破したいと明言した。ブッシュがそうしたいこと、ブレアはそうさせたくないことははっきりしていた」。デイリー・ミラー紙のこの引用は、ダウニング・ストリート・メモ、私たちは見ていないのですが、このメモのときです。アフメド・マンスールさん、思うに、人々が、まだ公開されていないこのメモについて耳にしたときには、その概要は見た人がいるということでしたが、2004年4月、ファルージャ包囲のさなかに、この言葉が言われたこの時期の文脈を知りませんでした。アフメド・マンスールさん、どう思いますか?

アフメド・マンスール:もちろん、現在に至るまで、英国政府にこの文書を公表あるいは公開するよう求めています。情報を全部手に入れるためです。アルジャジーラに向けられた多くの報道があります。米国政府はアルジャジーラに怒りを向けています。この文書の信頼性については深くはわかりません。というのも、アルジャジーラの経営陣は英国政府にこの問題を明らかにするか公開するよう求めたのです。

私に言えるのは、私たちはジャーナリストとしての義務を果たしたということです。この戦闘が米国で起きていて、私がそれを取材していて、殺されているのが米国市民だったとしても、私は自分がファルージャでしたこととまったく同じことをしたでしょう。それは、人間性一般に対する私たちの、ジャーナリストとしての義務だからです。自分たちがいる場所から、それがどこであれ、誰がそこにいようと、民間人でも、真実を伝えること。私たちの役割は、民間人の身に起きていることについての真実を伝えることでした。それを文章と写真で行ったのです。誰一人それを否定することはできないでしょう。全世界がその真実とそれらの事実を伝えたのです。それでも、ライスも私も言うように、それは現実のほんの一部でしかないのです。

お聞きしたいのですが、アメリカ人たちが、第二の戦闘のとき、ファルージャにジャーナリストもメディアもテレビも誰一人入ることを拒否したのはどうしてでしょうか? 自分たちに軍属する者たちだけに制限したのはどうしてでしょうか? ジャーナリストたちが米国の制服を着て、米軍の戦闘機や戦車で米軍に随伴し、これやあれやを言われるままに報じることがプロフェッショナリズムだというのでしょうか? 戦闘は両側から報告しなければなりません。私たちは民間人にまざって報道しました。一方で、彼らは、イラクを占領しこの攻撃を加える米軍部隊に軍属するジャーナリストたちを擁して、お望みのものを報道させています。私たちは公平さとバランスを創り出し、真実が失われないようにしたのです。

エイミー・グッドマン:ライス・ムシュタクさん、あなたは、友人が屋上から撃たれたのを目撃しましたね? それはいつのことでしたか?

ライス・ムシュタク:カルバラでの出来事です。5カ月目でした。15日たってファルージャを出たあと、カルバラのマフディ軍と米軍の間で衝突が続いていたのです。交渉がもたれていましたが、毎日のように衝突と攻撃がありました。米軍はカルバラの中心にある大きなモスクに向けて進軍しようとし、マフディ軍はそのモスクに避難しようとしていました。彼らはモスクを包囲していました。米軍兵士たちは、マフディ軍の生き残りを完全に殲滅しようと夜に進軍し、マフディ軍は日中に戻ってくるという感じでした。そうして一進一退していました。私たちは米軍とマフディ軍の間にあるホテルにいて、ジャーナリストで記者であるアブデル・アル=ディムおよび機材要員たちと一緒にいました。

私たちは大きなチームで、私には助手がいました。ラシードという名の友人で私の補佐でした。エイミー、私たちは毎日、写真家として危険地帯や戦闘地にいました。毎日夜になると建物の屋上にいって耳を澄ませました。暗闇でしたが、音を聞くために。戦闘を予測できるような、声や部隊の進軍の音が聞こえるだろうか? そうすれば写真を撮る準備ができる。そんなわけで、私は屋上に行きました。ホテルの近くで大きな爆発があり、発砲音を聞き、戦車が大モスクに向かって進むのを見ました。そこで部屋に降りて、チームに、戦闘が起きつつあると言ったのです。

皆が屋上に上りました。私は小さな壁の陰に隠れ、防弾服を着て、写真を撮っていました。皆に、下に降りるよう言いました。標的になるかもしれなかったからです。そこでみんな下におりましたが、私の助手は私の後ろに立っていました。たぶん50センチくらいしか離れていないところです。私は写真を撮っていました。写真を撮っていた地域はとても暗かったので、できるだけはっきりした写真を撮るためにシャッター速度を遅くしようとしました。そして写真を撮ろうとしたとき、縦断が私のそばをかすり、その写真さえ撮すほどでした。

そこで、私はラシードに、「ラシード、奴らは我々に向かって発砲しているんじゃないか?」と言いました。ラシードがすでに倒れたことに気づかなかったのです。ラシードは倒れていたのですが、私は気づかず、写真を撮り続けていました。その直後に、私が隠れていた壁に対して一斉攻撃がありました。ものすごい集中攻撃だったので、私は隠れ、カメラを手にして伏せ、あたりを見たときに、ラシードが血塗れになっていました。集中的な発砲を受けました。私は他のクルーに向かって叫び呼ぶことさえできず、少しの間、まったく無力に感じていました。前に進もうとし、発砲のためにあとずさりしました。少し銃撃が少なくなったとき、私はラシードの足をもってゆさぶり、「ラシード!ラシード!」と言いました。彼は答えなかったので、私は彼の顔のところに行き、頭に銃弾を3発受けているのを目にしました。彼には5人の子どもがいました。一番上は、9歳です。

それから、クルーの他のメンバーがやってきたのですが、私たちへの発砲があったために遺体を屋上からおろすことはできませんでした。翌朝ようやく遺体をおろすことができましたが、彼は夜中の12時半から朝の6時までそこにいたことになります。私たちは朝が来るのを待っていました。米軍がもしかしたら撤退するかも知れないと思ったからです。米軍が私たちに発砲することを恐れていました。ラシードの遺体を運ぶためには立たなくてはならなかったのですから。私たちはホテルにいましたが、ホテルへの発砲も続きました。ホテルには誰もいなかったので、私たちは分かれることにしました。各階に一人。私は最上階にいました。その下には記者が一人、さらにその下の階には補佐。発電機があって電気が通っていました。私たちは明かりを消しましたが、移動することはできませんでした。というのも、階段が、ガラス張りでできていたので、特別な装置があれば、外から丸見えだったからです。

私は自問しました。どうしてジャーナリストが標的とされるのだろう? アフメド・マンスール氏が、報道のために攻撃を受けるのはどうしてだろう? 特定の報道をしたことで、特定のジャーナリストが逮捕されるのはどうしてだろう? エイミーさん、マンスールはペンを、ライス・ムシュタクはカメラを手にしているだけです。銃は持っていません。機関銃も、大砲も持っていないのです。第二次世界対戦の、スターリングラード包囲戦のドキュメンタリーを見るならば、「ああ、あなたはスターリングラードでヒトラー軍の側にいたのか、共産主義軍の側にいたのか?」と聞くでしょう。記者たちは、その一部ではありません。記者は、起きていることを報告するのです。そこにいた私たちが、もし米軍が路上にバラを植えているのを見るならば、それだって報道するでしょう。本当です。

エイミー・グッドマン:カメラマンのライス・ムシュタクとアルジャジーラのアフメド・マンスールが、2004年、自分たちが目撃した状況を語っているところです。

[休憩]

白旗を掲げてファルージャから逃れようとする母親と子どもをバラバラにして殺し、遺体を運ぶ救急車に向けて発砲する米軍の公式報道は「我々は、戦場で良好に前進を続けている。そして町にいるテロリストたちと戦士たちを殺す大勝利を収めている」。

小泉純一郎首相が「成功させなくてはなりませんね」といったのは、2004年11月に行われた、こうした虐殺の、第二弾。

投稿者:益岡