2006年12月30日、「その日」の人々(2)~シーア派
'He is already history'
Sunday December 31, 2006
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1980557,00.html
1つ前の記事では「スンニ派」の様子についての部分を紹介しましたが、以下は「シーア派」の様子について、この記事から。
【サダム・フセインが処刑された30日、スンニ派のエリアは静かだった。】
一方で、シーア派のエリアではまったく様相が異なっていた。30日の夜明け、処刑されたと公表されたときには、バグダードの空には散発的な祝砲が響いた。午後になって処刑時の模様が放送されると、いっそう多くの祝砲が鳴り響いた。面積が広く貧しいシーア派地域のサドルシティでは、数十から数百人の民兵や子供たちが銃を空中に掲げていた。シーア派の宗教家の写真や絵を掲げて通りで踊る人たちもいた。ピックアップ・トラックの荷台に、サダム・フセインの人形が棒で吊り下げられ、男たちがゴム草履の裏で人形をパシパシと叩く――侮蔑のしぐさである。ダーワ党に近いシーア派のテレビ局が、サダムの死体の粒子の粗い映像を映し出す。首はおかしな角度に捻じ曲がり、頬には血の跡がある。しかし、イラクの人々に、かつての独裁者が処刑されたのだということをはっきり示すことを意図された映像でも、何かというと陰謀論に傾く人々にとっては十分ではなかった。
「絞首刑のときは、オレンジ色のジャンプスーツを着せられるに決まってるじゃないか。サダムはコート姿だった。なぜだ? アメリカ人が奴をどっかほかのとこに連れて行ったからだよ」と、カラダ地区のシーア派の学生、アリは言う。40歳のシーア派女性、ウンム・フセインは、アリよりも複雑な心境を示す。彼女は多発自動車爆弾で自宅といとこを失い、夫はその爆弾で身体が不自由になった。
「もちろんうれしいですよ。彼のおかげで私たちは何を得たでしょう。彼はイラクを破壊し、私たちを戦争に送り込み、それから私たちは食料にさえ困るようになった。彼は私たちに何も与えてくれませんでした。私たちは貧困の中で暮らすことになりました。」コンクリート・ブロックの小さな家の前で彼女の子供たちはサッカーをして遊び、夫はそばに座っている。彼女は夫を見やり、こう言う。「けれども、サダムが処刑されたからといって、夫の健康が戻りますか? 戻ってきませんよ。」
'He is already history'(「彼はとっくに過去の人だ」)というこの記事の見出しは、つまり、「現在にも未来にも関係がない、どうでもいい」ということです。これは、マリキ首相の「イラクの歴史の黒いページはめくられ、暴君は死んだ(a black page of Iraq's history has been turned and the tyrant has died)」というコメントや、ブッシュ大統領の「民主国家としてのイラクの重要な一里塚(an important milestone on Iraq's course to becoming a democracy)」という(適当にジェネレータにかければ完成しそうな)コメントが、普通の人々の感じていることとはいかにかけ離れているかを端的に示すものです。
同時に、こういう記事は、大統領や首相といった立場にある人たちの発言だけで「歴史」が構成されていくということに対する歯止めの役割を果たします。
サダム・フセインの死刑執行に対する各国政治家や政府の反応の一覧は:
Saddam hanged: Reaction in quotes
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/6218597.stm
クルド人政治家の発言が興味深いので引用しておきます。
IRAQI KURDISH POLITICIAN MAHMOUD OSMAN
"Of course, Saddam has committed too many crimes. He deserves for those crimes capital punishment. But so quickly done, so quickly executed... and only in one case - it would leave the other cases and leave a lot of secrets without being known."
クルド人政治家、マフムード・オスマン:
「確かにサダムはあまりに多くの犯罪を犯した。死刑は妥当なものだ。しかしこれほど性急に進められ、これほど速く執行されるとは・・・しかもたった1つの犯罪で――これではほかの犯罪は決着がつかないままになるし、多くの秘密が今後ずっと知られることがなくなってしまう。」
サダム・フセインの死刑判決は、「1982年7月8日のドゥジャイル(Dujail)での148人殺害」における「人道に反する罪」によるものです。ドゥジャイルはシーア派の街で、ダーワ党の拠点だそうです。
マフムード・オスマンが言う「ほかの犯罪」には、それこそうちの近所のコンビニのなかにある商品を超えるくらいの殺人そのほかもろもろの暴虐行為が含まれているでしょうが、そのひとつが、。1988年3月のハラブジャの毒ガス事件です。
2003年3月20日の「開戦」前に、開戦論者の多くが「だってサダムはクルドで毒ガスを撒いて自国民を数千単位で惨殺したではないか」と主張し、自分たち(の考え)を正当化していました。政府の人々があのときにどう言っていたかは正確には記憶していないし、それを調べる手間も今はかけられないのですが、少なくとも、新聞記事などでは「毒ガスで自国民を殺すような暴君だ。正義の裁きを求める声が国際的に上がることに何ら不思議はない」といった主張は、数多く見られました。開戦反対を唱える人たちに対しては、「ハラブジャ虐殺のような残虐な行為を見過ごすのか。まるで隠れポルポト支持者だ」といった悪口雑言が投げつけられたりもした。
けれども、ブッシュが「公正な裁判(a fair trial)」、「サダム政権では存在しなかった真の正義(the kind of justice he denied the victims of his brutal regime)」と称揚した今回の裁判と処刑は、「クルドでの毒ガス」を問うたものではなかったのです。
クルド人の落胆は、例えばthe Los Angeles Timesの"Kurdish survivors' feelings conflicted"という記事(@12月31日)などに詳細に書かれています。
ガイスは12月31日のオブザーヴァー記事で、「何かというと陰謀論に傾く人々」が映像を見ても「サダムはアメリカの手でどっかに逃がされた」とすら考えていることを報告していますが、世界各地で、「何かというと陰謀論に傾く人々」はもちろん、イラン・イラク戦争における米国の役割(ラムズフェルドとサダムの握手、など)と、2003年のイラク戦争における米国のやり方(ありもしない理由のでっち上げ、など)を知っている人々も、「ハラブジャ虐殺でサダム・フセインが裁かれなかったこと」の意味を読もうとするでしょう。
まあ、今年は「裁判中に被告が急病死して、裁判で事実を明らかにすることができなかったばかりか、正義の判決を下すこともそれを執行することもできなかった」という事例がありましたので(3月の、ミロシェヴィッチの急死)、当局がそうなるおそれを考えて、なるべく迅速に執行しようとした、という見方もあるのかもしれませんが。