ファルージャ2004年4月:アルジャジーラ記者の目撃談(1)
2004年4月。米軍は、ファルージャを包囲し、子どもや女性、老人を含む住民を無差別に射殺し、爆弾で焼き殺した。犠牲者の数は700人にのぼると言われている。現地から報道していたアルジャジーラ記者のインタビュー、第一部。
特報:アルジャジーラ記者が2004年4月米軍によるファルージャ包囲の残忍な事態を自らの目撃体験に基づいて回想する
デモクラシー・ナウ!
2006年2月22日
デモクラシー・ナウ原文
2004年4月、米国はファルージャ----米軍の占領に対するイラク人レジスタンスを象徴することになる、バグダードから西にあるスンニ派の町である----に最初の攻撃を加えた。この攻撃が行われたのは、私営の治安企業ブラックウォーター社の4人の米軍契約要員がファルージャで残忍に殺されたあとであった。ファルージャ包囲は、米国の占領の中でも最も残虐な攻撃の一つとなった。その4月の2週間にわたり、地元のゲリラが米国によるファルージャ占領に抵抗したため、30人の米軍海兵隊が殺された。約600人のイラク人が殺され、1000人以上が負傷した。米軍は、当時、殺されたイラク人の大部分はレジスタンスのメンバーだったと主張したが、ファルージャ内からのメディア報告は、死者の中には民間人がとても多く含まれていたことを示していた。
アルジャジーラは、包囲されたファルージャの中から報道を続けたわずかなニュース局の一つで、アルジャジーラの特約ビデオはCNNからBBCにいたるあらゆるネットワークで報じられた。アルジャジーラのアフメド・マンスール記者とカメラマンのライス・ムシュタクはそのときファルージャの中にいて、包囲の期間を通してファルージャの路上から軍属せずに報道を行った。デモクラシー・ナウ!特約の今回の番組では、彼らが、初めて、自分たちの経験を詳しいインタビューに答えて語る。
私たちは今月(2月)上旬、カタールのドーハで彼らと会った。このインタビューはアルジャジーラの通約アリ・マタールが訳したものである。テレビをご覧のみなさんには、これから見る映像のいくつかが生々しいことを事前にお断りしておく。
アフメド・マンスール:アルジャジーラの特派員
ライス・ムシュタク:アルジャジーラのカメラマン
アルジャジーラ英語サイト
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エイミー・グッドマン:アルジャジーラのアフメド・マンスールとカメラマンのライス・ムシュタクはファルージャの中にいて、包囲の全期間、軍属せずに路上から報道を続けました。今回のデモクラシー・ナウ!特約インタビューで、彼らは、インタビューに答えて初めて自分たちの経験を詳しく語ってくれました。私たちは今月上旬カタールのドーハで彼らと会いました。インタビューはアルジャジーラの通訳アリ・マタールが訳したものです。テレビをご覧のみなさんには、これから見る映像のいくつかが生々しいものであることを事前にお断りしておきます。このインタビューでは、まず最初にアフメド・マンスールさんにファルージャにいた日々を語ってもらいます。
アフメド・マンスール:それらの日々に起きたことについて語る十分な時間がないので、2004年4月9日のことをお話ししましょう。それはファルージャにとってまるで審判の日のようでした。私たちは米軍兵士と狙撃手たちにより2日間にわたって包囲されていました。動くこともできなかったので、危険を冒してどんなことがあってもいいから町の真ん中に行こうとしました。お互いに相談しました。私たちの中には、「いや、ここにいよう」と言った人もいました。私は、「狙撃手が我々を撃ったとしても、動いた方がよい」と言いました。
居場所から出たときに、ファルージャの全体が----子どもも女性も老人も----白旗を掲げて徒歩あるいは車で町を離れようとしているのを目にしました。本当に私たちにとって破滅的な日でした。病院のある、町の中心部にきたとき、私は自分が目にした恐怖で正気を失うところでした。人々はめいめい色々な方向、あらゆる方角に向かっていました。ライスともう一人の同僚が私と一緒にいて、この破滅的な状況を撮し出すには1000台以上のカメラが必要だと思いました。恐怖、テロ、空襲、死者を運び出す救急車。私はライスと同僚に叫んでいました。「カメラ!カメラ!」と叫んでいたのです。周囲の写真を撮ることができるように。
最終的に、私は平静を取り戻さなくてはならないと感じました。恐怖は手の着けようもないほど大きく、私たちの記者としての力を超えていました。ファルージャには記者たちがまったくいませんでした。町に入ることができた取材チームは私たちだけだったのです。ですから、私たちが、そこで起きていることを全世界に伝えなくてはなりませんでした。とてつもなく難しい使命でした。それまでの4、5日、私たちは一睡もしていなかったのです。立って動き回り話をすることがどうしてできたのかもわかりません。私はライスを見て、ストレスでカメラを持ち上げることすらできないのだなと感じていました。それでも、彼はカメラを持って、行ったり来たりしていました。私たちはこの写真を世界に広めようとしていたのです。そして、飛行機からの爆撃を受けている民間人の全員に対して、殺される危機の下にある人々の全員に対して、私は責任を感じていました。ですから、この苦しみの光景を全世界に伝えなくてはならなかったのです。それはきわめて困難でした。
私たちは何とかそれを成功させたかったのです。この光景を全世界に伝え広めるという人道的使命を果たしたかったのです。大きなストレスで、ライス----たぶん私は自分でマイクを持っていたのです----ライスが重いカメラを持って、あちこち行き来していました。とても長い一日でした。この一日だけで、私の残り全生涯と同じくらいの長さだと思いました。ボスニアとヘルツェゴビナやアフガニスタンでも取材したこともあったのに、です。それでも、私の記者としての立場で、さらに人間としても、まさにその日が最も長い一日でした。
エイミー・グッドマン:あなたがそこにいて、米軍の対応はどうでしたか? 彼らは、アルジャジーラのファルージャ撤退、あなたたちのファルージャからの撤退が停戦の条件だとは言いませんでしたか?
アフメド・マンスール:そうです。それが最初の条件でした。そしてその日に、イラクの米軍報道官マーク・キミット将軍が、私を名指しで非難したのです。軍報道官がジャーナリストを名指しで非難したのはそれが初めてのことでした。彼は、「アフメド・マンスールはファルージャから嘘を伝えている」と行ったのです。そこで私たちの同僚ハムード・クリシェンが彼に質問しました。「アフメドは画像だけを伝えている。彼の報道で出される写真そのものが嘘をつくというのでしょうか?」と。キミットはそれに答えませんでした。彼に答えなかったのです。私たちはいつも写真を出します。そして、先ほども言い、今また強調しますが、私たちは真実を伝えませんでした。そこで起きたこと100%に相当するものを伝えることはできなかったのです。
ライスは、確か金曜日か土曜日の朝、つまり4月の9日か10日の朝だったと思いますが、立つことさえできなくなって撤退しました。7日間にわたって不眠不休で、大きなストレスを抱えていたのです。ファルージャ住民の交渉団が米軍と交渉しに行ったとき、私たちは、停戦の第一条件はアフメド・マンスールがファルージャから退去することだと言われました。最初、私は自分の義務を果たさなければ町から出ていかないと言いました。この命令で町を立ち去ることはできなかったのです。けれども、相談したとき----アルジャジーラの管理部門が私と話をし、私は自分のチームに相談したのですが、私たちは平和のために来たのだということになりました。私たちが立ち去ることで町が平和になるのならば、すぐに立ち去ろうと決めました。実際、停戦のために私に町を立ち去らせる圧力がはっきりしたとき、立ち去ることを決め、実際すぐに立ち去ったのです。
エイミー・グッドマン:それはいつのことですか?
アフメド・マンスール:4月10日です。
エイミー・グッドマン:私は、『ネイション』誌に掲載された、同僚ジェレミー・スカヒルの記事を見ています。彼は、4月11日に、上級米軍報道官マーク・キミットが、米国人が意図的に女性や子どもを殺している光景を報道する局は正当な報道源ではないと宣言したと言っています。それはプロパガンダであり、嘘であるというのです。そして、その二日後、いや4日後でしょうか、4月15日に、ドナルド・ラムズフェルドは、アルジャジーラの報道を「悪辣で不正確で許し難いもので、アルジャジーラのやっていることは唾棄すべきことだ」と言っています。
アフメド・マンスール:彼らは私たちに対する非難をやめませんでした。それで、結局私たちは、子どもや老人や女性が何十人も戦争で殺され負傷した写真を報じたのです。何百人という民間人が、子どもも一緒に、白旗を掲げて、米軍兵士たちに、町を出るまで発砲しないよう呼びかけている写真を報道しました。私たちは写真を報道したのですが、ライスが同僚たちと一緒に自ら、子どもや女性の家族の遺体の写真を撮ったのです。私たちはそれを全世界に向けて示しました。嘘つきがいるとすると、それは、私たちが世界に示した写真を嘘であるように見せようとする者たちです。実際、ファルージャには墓地があって、500人近い民間人が殺されて埋葬されました。サッカー競技場が墓地になりました。今ファルージャに行けば、墓地となったサッカー競技場に、殉教者たち、女性と子ども、老人と市民が葬られているのを目にするでしょう。
エイミー・グッドマン:ライス・ムシュタク、あなたは今アフメドのお話で出てきたカメラマンで、カメラを持っていたといいます。ファルージャに着いたのはいつですか?
ライス・ムシュタク:私たちがファルージャに行ったのは、4月の3日だったと思います。ファルージャに行き、完全に封鎖される前だったので、町に入ることができました。ファルージャに入ってから包囲が始まる前のあいだに、私たちは責任の重さをますます感じました。というのは、町にはほかに報道陣がいなかったからです。最初、私は写真家としてファルージャ行きを志願したのです。誰かファルージャに行きたい者はいないかと聞かれて、私が行ったのです。というのも、画像と写真を伝えたかったからです。第二に、私はアフメド・マンスールさんと仕事をしたかったのです。彼はアラブ世界で有名なジャーナリストで、ファルージャで初めて私は彼と働く経験をしたのです。
ファルージャに入ってファルージャ包囲が始まったとき、私たちはチームとして相談会議を開き、役割責任を分散することにしました。また、どうやって移動し取材できるだろうか相談したのです。というのも、状況はとても困難でしたから。私たちがいた地域は米軍兵士に最も近いところで、包囲され、日中動くことができたのは、たった一日でした。私たちは衝突があったあとで外に出て写真をとり、暴力の嵐のあとの写真を撮ろうとしました。
カメラで最初に撮った写真、最初の写真は、アフメドが記憶しているように、焼かれ、完全に燃えてしまった人間の写真でした。彼は怪我をしていました。家族が病院に運ぼうとしていたのですが、病院は米軍の陣に近く、車には赤新月と赤十字の印があったのです。家族は彼をピックアップに乗せ、荷台に載せたのですが、それが攻撃を受けました。そしてこの人を見たとき、このけが人は火まみれで燃え、焼けてしまいました。彼の体からは煙さえ出ていました。その場面に行って、見ることはできませんでした。
私は彼をそのままにして、遠くに立っていました。目に映るものはとても酷く恐ろしいものでした。というのも、その日、病院に行ったとき、たくさんの怪我をした子どもが病院にいて、つれてこられた子どもたちの中には、すでに家族が死んでしまった子どもたちもいました。父親や両親はつきそっていなかったのです。その日は私にとって恐ろしいショックで、ひどくショックでした。多くの戦争を報道してきましたが、戦争を報ずるたびに、遺体と死者と子どもたちを見るたびに、ほんとうに子どもたちを見かけるたびにいつも、私は小さな自分の娘を思いだしたのです。
結局のところ、私も人間で、子どもがいます。怪我をした少女を見たり、家族を失ったり殺された子どもを見たときはいつも、自分の小さな娘を思い出します。そして私は、そうした子どもたちを守るためにここにいなくてはいけないと思うのです。これを全世界に伝え、子どもたちをこんな風に殺すことを、弱い立場におかれた質素な人たちを殺すのをやめさせたいと。この気持ちで私は打ちのめされました。完全に打ちのめされました。私は圧倒され、仕事と人間性を区別しようとは試みたのですが、そうできないこともありました。
エイミー・グッドマン:アルジャジーラのアフメド・マンスールとカメラマンのライス・ムシュタクです。二人は2004年4月、ファルージャで独立した報道を行っていました。
[休憩]
第二次世界大戦下、絶滅収容所で大量に殺されていたユダヤ人。すぐ近くに住んでいた人々も、ユダヤ人が連れ去られた各地に住んでいた人々も、少なからぬ人が、「そんなことが起きているとは知らなかったのだ」と、あとになって語っています。ラムズフェルドやキミットの嘘を信ずるように、ヒトラーやゲッペルスの嘘を受け入れながら。
長いので、次回に続きます。
投稿者:益岡