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2006/03/15

CPTのトム・フォックスさん。

3月11日(土)、昨年11月から拉致されていたCPTのトム・フォックスさんが、バグダードで遺体で発見されたとの報道がありました。

遺体発見の数日前、拉致から100日を経過したすぐ後にアルジャジーラで「人質ビデオ」が放映されたのですが(詳細はリンク先のコメント欄参照)、そのビデオにトム・フォックスさんだけ姿がなく、安否がわからない状態でした。

BBCアルジャジーラ、ガーディアン(<URL控え忘れ)などによると、遺体は毛布に包まれビニール袋に入れられて、マンスール地区(バグダードの高級エリア)のゴミ集積場の段ボール箱の山の中に置かれていたそうです。警察が発見したその遺体が西洋人であったため、イラク治安当局から米軍に引き渡され、米軍からご家族に連絡が行ったそうです。身元はすぐに確認されたようです。

遺体は両手両足を縛られており、銃殺されていたとのこと。背中に殴打の後があり、また「銃殺される前に拷問を受けていた」と書かれている記事もあります。

CPTのステートメントは取り急ぎ内容だけ、「拉致から100日」の記事のコメント欄に入れてあります。

以下はCPTのメンバーとしてイラクでトム・フォックスさんと一緒に行動していたジャスティン・アレクサンダーさん(英国籍:関連過去記事)の追悼文@ジャスティンさんのブログと、トム・フォックスさんのブログの最後の記事です。

Goodbye my friend
Saturday, March 11
原文:http://www.justinalexander.net/2006/03/goodbye-my-friend.htm

トム・フォックスのことはこれからもずっと、大切な友人として、僕は記憶し続ける。僕が出会う可能性のある人の中で、トムほどにキリストのような非暴力のモデルとなる人、手本にしたいような人はいない。イラクの混沌とした状況のさなか、ストレスにさらされつつも、トムは常に穏やかさを保ち、一貫した信仰を守り、上品なユーモアのセンスを失うことがなかった。僕が、イラクで僕たちの周囲で起きていた何かについて恐れたり心配したり怒ったりして、脈拍が1分に100回になっていても、トムと話をすればひんやりとした池で泳いでいるような気分になり、すべての不安は徐々に消えていった。下の写真は2005年1月に撮影した。そのとき僕はシカゴでCPTのトレーニングを受けていて、そこでトムと初めて会った。その年の大半を、僕たちは一緒にイラクで過ごした。4月20日に僕個人を特定した殺すぞという脅迫があることを知ったときも、トムは僕と一緒にいた。彼は祈り、そして僕がどうしたらいいのか決める上で、相談相手になってくれた。一番恐ろしいときに最も大きな力を持っていたのは、トムからの支えだった。

Mr Tom Fox

彼の死は、僕たち全員にとっての喪失だ。けれども彼はそれを無駄とは考えないはずだ。さまざまな危険のことは彼は重々承知していた。というのは、最初にイラクに滞在したのが2004年の秋で、当時は拉致が多発していて、CPTの友人たちもたくさん連れ去られていたからだ。トムは自分の死で彼自身に注目が集まるのではなく、占領が作り出した混沌の中に閉じ込められている2500万人のイラクの人々の苦しみに注目が集まることを望むだろう。彼の後に続いて、何千という人々が非暴力の道を選ぶことを僕は望んでいる。それは高い代償を伴うものかもしれないにせよ。

報道によると、トムが殴打され拷問された証拠があるという。苦痛の中にあって、彼は、キリストのように、自分をそんな目に遭わせている人々への許しをと叫んだだろうか。トムを殺した人々は、トムを非人間化していたに違いない。「アメリカ人」だとか「人質」だとかいうふうに。けれどもトムは、そういう人たちのことを大切な神の子として尊んでいた。彼が11月25日、つまり拉致される前日に書いた「私たちはなぜここにいるのか」というストレートな省察を読むと、考え方がわかる。

「ここイラクで全景を眺めていると、非人間化というのは人を互いに結びつける有効な方法なのではないかと思えてくる。米軍は『テロリスト』を追い、殺すことに邁進しているが、この非人間化のことば(=『テロリスト』)の結果として、『テロリスト』だけでなく、イラクの多くの町や村で、何もしていないイラク人たち――男性も女性も子供も――をも殺している。暴力への道の第一歩は、私がある人を非人間化するところから始まるように思われる。……同胞たる人間に対し、非人間化するレッテルを貼り付けることでその人の人間性を奪うやいなや、最終的には拷問、負傷、死といった結果になりかねないプロセスを、私は始めることになる。『私たちはなぜここにいるのか?』私たち内部に存在する非人間化のありとあらゆる側面を根絶するために、私たちはここにいる。抑圧者によって非人間化されている人々とともに立ち、その非人間化に反対して立ち続けるために、私たちはここにいる。私たちは、自分自身も含めて人々に、神の子供たちを誰一人として非人間化することのないようにするために、ここにいる。他人を非人間化する者がいかに自身のたましいを非人間化していようとも。」

Mr Tom Fox working in Falluja

僕がこれこそがトムだと思う写真は、オレンジ色のジャンプスーツを着て、ムスリム・ピースメイカー・チームズのシーア派イラク人同僚たちと一緒に、破壊されたスンニ派の都市、ファルージャの通りを掃除しているときに撮影された一枚だ。2005年5月の撮影。コミュニティ間の和解を求め、占領によってもたらされた破壊を修復しようとしているイラク人の同僚たちを支持して、少しでも身体を張って動こうというトムが、ここにいた。

トムの死に際しての、CPTのステートメント

トムのブログの抜粋

(11:51 PM)


トム・フォックスさんのウェブログは:
Waiting In the Light
http://waitinginthelight.blogspot.com/

2005年11月8日、ファルージャからの「ことばなど何もない」というエントリが、最後になっています。この後、25日に、ジャスティンさんの記事にもあるCPTの定期レポート(だと思う)の文章、Why are We Here?を書いて、26日に拉致されました。

2004年10月に「バグダード初日」で始まったブログの最後のエントリは、ファルージャ訪問記です。(これをお書きになったときには、これが最後のブログ更新になるとは思いもしていなかったでしょう。)

私なりの祈りと感謝を示すため、これを日本語に。

Tuesday, November 08, 2005
There Are No Words
原文:http://waitinginthelight.blogspot.com/2005/11/there-are-no-words.html

「ファルージャの人たちの抱えている現実の問題はあまりに大きく、どのような言葉でもそれを的確に表すことはできません。」米軍主導の攻撃から1年後、いまだこの街から拭い去ることのできない苦難を語るファルージャの宗教者のことばである。

「このモスクにいた男性たちはすべて私の近隣の人たちでした。彼らはテロリストではありませんでした。」ある若い男性のことばである。彼が、負傷者と家を失った男性ばかりの部屋を後にした30分後に米軍がモスクを急襲した。そのモスクは、床に横たわる非武装の男性を米兵が射殺している様子をおさめたビデオで知られているモスクである。【訳注:モスクでの射殺については当ウェブログ過去記事@2005年5月をご参照ください。】

「1月にイラク政府が変わってからというもの、家屋を建て直す費用がまったくもらえなくなってしまいました。」CPTメンバーにいまだ破壊されたままのエリアを案内しながら、ファルージャの市民のリーダーが語ったことばである。

ことばなど何も出てこない。アメリカ人と多くのイラク人によって、「テロリストの町」ということばによって悪魔化された都市。住民たちが「モスクの町」と呼ぶ都市。住民ですらも検問所を通らねばならず、通過に1時間かかることもしばしばという都市。そして、まさにその検問所によって、経済的に窒息死させられつつあるひとつの都市。

昨年11月、米軍が1500人と推定するテロリストたちを掃討するために、米軍はこの人口30万の都市を攻撃した。CPTとムスリム・ピースメイカー・チームズのメンバーは、友人や連絡係と会い、この悲惨な出来事を記念する行事か何かの予定があるかどうかを確認するために、ファルージャにやってきた。

私たちへの返事は、記憶と抵抗と復活のエネルギーのことばだった。宗教者は、何人もの市民のリーダーが1周年を記念した行動の提案を持ってきたと語った。彼らの提案とは、パキスタンの地震の被災者たちのための救援活動に寄付する資金を作ろう、というものだった。宗教者は、イスラームのおしえでは、自分自身への支援を求める前に、ほんとうに支援を必要としている人に目を向けなさいとしているのですよ、と言った。

最近、別の中東の国を訪れたというその宗教者は、訪問中にリビアの宗教者に会ったのだそうだ。リビアの宗教者は、彼の町などリビア各地で、生まれた女の子が「ファルージャ」と名づけられていますよ、私の町だけで800人以上のファルージャちゃんがいます、と語った。

ことばでは不足だ。けれども私たちにはことばしかない。現在のファルージャでの生活の状態については、「集団懲罰」とか「ゲットー化」といったことばが浮かぶ。

毎日ファルージャの人々が直面している大きな傷を癒すことのできることばや行ないなどあろうか。この日の午後、私たちが行った先ではどこでも、幼い男の子たちがわたしたちのことばに耳を傾け、私たちが会いに行った人たちのことばに耳を傾けていた。1年前の出来事とそれによる傷を追体験しながら彼らは何を思っているのだろうか、と私はずっと考えていた。彼らが大きくなるにつれて、これらの出来事はどのような影響をこの子たちに及ぼすだろうか。

ことばなど何もない。

posted by Tom Fox @ 1:33 AM


トム・フォックスさんはもちろん信仰心のあついクリスチャンです(クエーカー)。その彼が、記事の中で何度も繰り返しwordsと書き、それと同時にThere Are No Wordsとことばで書いているのをたどって、安直ですが新約聖書のとても有名な部分を連想しました。

はじめに言葉があり,言葉は神と共にあり,言葉は神であった。

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

-- ヨハネによる福音書
出典:http://www.cozoh.org/denmo/John.htm
http://ebible.org/web/John.htm#


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CPTのサイトに、トム・フォックスさんの写真のページがあります。パレスチナの「壁」での写真、シリア国境地帯での写真など。

また、CPTの人々が寄稿してきたElectronic Iraqでは、トム・フォックスさんの特集のページがあります。ご自身のブログの記事でEIに寄稿されたもののほか、CPTのSheila Provencherさん、Joe Carrさんの文章、シンディ・シーハンさんがトム・フォックスさんのご家族に宛てた文章など。

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■当ウェブログの関連過去記事
今日、バグダードはかなり静かな一日だった
トム・フォックス(2005年5月23日)
http://teanotwar.blogtribe.org/
entry-cb5d7018f57935aac6201612ea0e6ffa.html

またはhttp://teanotwar.blogspot.com/2005/05/blog-post_25.html

子どもたちのために
トム・フォックス(2005年6月29日)
http://teanotwar.blogtribe.org/
entry-5ebf90b1be50593c517408dc9ca90a3f.html

またはhttp://teanotwar.blogspot.com/2005/07/blog-post_04.html

銃弾とお菓子と
Matthew Chandler, 10 May 2005
http://teanotwar.blogtribe.org/
entry-b4d59d399ec477e630cd54239cebece2.html

またはhttp://teanotwar.blogspot.com/2005/05/cpt.html

CPTメンバー拉致の件(2005年12月2日)
http://teanotwar.blogtribe.org/
entry-6e917400015cd360d8996778ccd48c5f.html

またはhttp://teanotwar.blogspot.com/2005/12/cpt.html

CPTメンバー拉致から100日。(2006年3月6日)
http://teanotwar.blogtribe.org/
entry-e12d5ec3d0f727f0cfe86eb0f22f4e9e.html

またはhttp://teanotwar.blogspot.com/2006/03/cpt100.html

■パキスタン地震
ウィキペディア
「オバハン」こと督永忠子さん@「日・パ旅行社」さん(パキスタン)の支援活動の日記
日・パ・ウェルフェアー・アソシエーション(現地責任者は督永忠子さん)

■トラバ先:
P-navi Infoさん「日記:トム・フォックスさんの記事」

投稿者:いけだ

■――追記
この記事だけでなく、メノナイト派の牧師さんでいらっしゃるPeter Poohさんのブログの3月19日記事、「CPTワーカー、トム・フォックス兄の召天の連絡に接して」もお読みいただければと思います。
http://blog.so-net.ne.jp/peterpooh/2006-03-19

イラクのブログ――Riverbendが「ブログ大賞」受賞/Aunt Najmaの学校に迫撃砲攻撃

バグダードのウェブログ、Truth About Iraqis経由。

2001年から毎年開催されているthe Bloggies (TM) のAnnual Blog Awards(年間最優秀ブログ賞)、2006年発表の第5回(2005年末に一般推薦&投票&選定)で、RiverbendのBaghdad Burningが、「中東・アフリカ部門」の「最優秀賞」に選ばれました。

下はBlog Awardsサイトのキャプチャ画像。賞品提供のスポンサー名の方が目立つレイアウトですが。。。



http://2006.bloggies.com/

私もRiverbend blogには投票してたので単純にうれしいです。(でも英国関係で投票したブログは受賞を逃しました。残念。)

Riverbendには賞金£10(2000円くらい)と、$200相当のウェブデザインが贈呈されるそうです。

ちなみに、第4回(2005年)の「中東・アフリカ部門」はSalam Paxの旧ブログ(Where is Raed?)が大賞、Faiza blog(A Family in Baghdad)がノミネート。その前年の第3回(2004年)もSalam Pax blogが大賞、Riverbend blogがノミネート。(その前は「中東・アフリカ部門」はありません。)

2002年からやってるSalam Pax blogは別格として(いやー、あの当時は「Salam Paxは実在するのか?」なんて騒ぎにもなりましたね)、2003年夏から2004年にかけて「イラクのブログ」はブームの様相を呈し、一瞬だけですが米国から「言論の自由のシンボル」として扱われ、見る間に100を超える「イラク人による英語ブログ」ができました。

英語で日記を書けるということは、彼ら/彼女らが「ごくふつうのイラク人」ではないということかもしれないけれど、それでも英語ブロガーたちがいなかったら、うちらは昔どおり、大方はマスメディアの伝える範囲でしか状況を知りえなかった。メディアの記者のいない場所のことは知らされることなく、カオスの只中にある人は、『ホテル・ルワンダ』の主人公のように、外国のジャーナリストに「世界に伝えてください。そうすれば……」という思いを託すしかなかった。2000年代に入って、言語の壁は今でも変わらずそこにあるけれど、それでも職業ジャーナリストがいかない所の情報は入ってこないというのは、100パーセントのことではなくなった。(むろん、ジャーナリストもブロガーもいない地域というのはたくさんあるのですが。)これは大きなことだと思います。

なお、最初のイラク・ブロガー、Salam Paxがblogger.comを使っていたせいだと思いますが、「イラクのブロガー」は9割以上がblogger.comユーザーです。blogger.com(Googleに買収される前でしたが)も彼に協力的で、トラフィックの急激な増加にも対応できるようにしたりしてたので、心象がよかったのかもしれません。それと、Where is Raed?の最初のころはアルファベットしか通らなかったのですが(Raedが「っつか俺ら英語で話してるのおかしくね?」とブログ上で言ってた)、ほどなくしてblogger.comが文字コードをUTF-8にして2バイト文字(アラビア文字含む)が使えるようになりました。今はblogger.comを利用したバイリンガルのブログもあり、アラビア語だけのブログもあります。

Iraq Blog Countによると、現在の「イラクのブログ」は延べで200くらいです。(でも、定期的に更新されているのは100ないかな。)

Riverbend blogはそれら「イラクのブログ」の中でも“古参”(2003年夏開始)で、しかも数あるブログの中でも有数の内容の濃さをずっと維持しています。

単純に「Riverbendすごいー、おめでとー」と言いたい気分です。

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「イラクのブログ」については、更新がありそうなものをピックアップして「はてなRSSリーダー」に登録してあります。更新されたブログの記事の出だしの数百字分が、この1箇所で読めます。みなさまもどうかご活用ください。
http://r.hatena.ne.jp/teanotwar/
※量が多かったので、一部、更新停止になってるのにうっかり登録しちゃっています。もしまた更新されたら私が読みたいからという理由で登録したものもあります。登録時にRSSが読み込めなくて登録できてないものもあります。そのうちにまた整理します。

このRSSリーダーには、ある意味、Riverbend以上に「イラクのアンネ」に近い(特に年齢が)モスルのAunt Najma(筆名)のA Star from Mosulなど、70以上のブログを登録してあります。

# それにしても、イラクでみっちり教育を受ける高校生の英語は何でこんなにきれいなんだろう。>モスルのAunt Najma

そのモスルのAunt Najmaの最新記事はちょっとショッキングです。

まず、ある晩家にかかってきた電話で、大叔父さん(お母さんのおじさん)の死を知らされます。大叔父さんは70代後半で、帰宅途中に米軍に撃たれたそうです。何発も発砲を受け、腕と首と胸に3発が命中し、亡くなったそうです。米軍は謝罪した(sorryと言った)そうです。

翌朝、フランス語の試験を控えて早起きしたAunt Najmaは、悲しいという気持ちよりむしろショックを感じつつ、試験勉強をしてから、出勤するお母さん(モスル大学の先生)と妹たちと一緒にタクシーで学校に向かいます。

タクシーを降りるとどこか様子がおかしいことに気づきます。学校に入るとみんな泣いている(それすらも特に珍しくはないのだそうです)。友達のひとりが「爆弾が云々」と喋っているのを聞いて、Aunt Najmaは事態を飲み込みます。実際には迫撃砲と思われるものが1発、学校に撃ち込まれたのでした。学校は臨時休校、生徒は即帰宅。校長先生の話では、近くにある警察を狙ったものかもしれないとのことですが、それも定かではない。

彼女の学校の旧校舎には、最近、別の学校(宗教学校)の生徒たちが移ってきていて、それでも生徒が入りきらないので、彼女たちが学んでいる新校舎にも生徒が来ている、さらに昼には男子の学校の生徒たちも間借りしにくる、という状態で、彼女の学校は相当混雑しているようです。

Aunt Najmaは「自分は爆発のあったときにはその場にいなかったのだから、爆発が特に恐かったということじゃない。ただ、私たちが標的にされたということがわからない。公立の女子進学高と女子宗教学校を攻撃するなんて、彼らはいったい何を考えてるんだろう? あと、『彼ら』って誰なんだろう?」と結んでいます。

そのあと、同じ学校の友達のブログ(モスルの女子高生ブロガーズ)とお母さんのブログの記事へのリンクがあります。(Aunt Najmaのところは家族ブロガーでもある。)

お母さんの記事には、大叔父さんの死についてより詳しく書かれています。大叔父さんは78歳。車の中で撃たれて死んでいるのを、イラク警察が発見し、大叔父さんが所持していた携帯電話の一番上の番号に連絡した。(Aunt Najma blogによると、電話を受けたのがAunt Najmaのいとこで、数日後に結婚式を控えた女性で、「死んだ」ということまでは知らされなかったそうです。ということは、推測ですが、電話に出たのが若い女性だったことで警察官には「撃たれた」とまでしか伝えられなかったのかもしれません。そして亡くなった老人の名前や住所を確認し、同居家族に伝えた。。。いずれにしても痛々しいことです。)

またコメント欄より、当日大叔父さんの家の一帯で米軍とイラク警察による検査があり、大叔父さんの妻と娘が車のところまで連れて行かれて(おそらく身元確認のため)、米軍から「ミステイクだった」と説明を受けたとのこと。

コメント欄ではアメリカ人から「マケイン上院議員にメールしました」といったコメントも寄せられています。

投稿者:いけだ