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2005/07/12

ファルージャ:人権活動家の言葉

 
英テレグラフ紙が「ファルージャからイラク各地に暴力を輸出する民兵を武力で追放した」と称する2004年の米軍の作戦に対する目撃証言。

ファルージャ:人権活動家の言葉
ジョー・ワイルディング
2005年4月2日
英国ブリストルにて
平和を求める退役軍人HP原文

私は2004年4月10日と11日、そして2004年4月14日から16日まで、ファルージャの町に行った。

4月10日、私は、何名もの独立ジャーナリストと活動家を乗せたバスで町に入った。医薬品を運び込むためだった。道路に設けられた米軍の検問所を通り抜けるのは不可能だと別のジャーナリストが教えてくれていたので、私たちは、舗装されていない裏道を通った。

私たちは、野戦病院として活動している診療所に行った。そこの医者たちは、米軍によりファルージャの中央病院はむりやり閉鎖させられ、それより小さな病院はまだ機能はしているものの、「狙撃手通り」と医者達が呼ぶもののために、その病院に行くことは極めて難しい----つまりその病院への道は米軍の狙撃手が支配している----と私たちに語った。

診療所には麻酔がなかった。町全体の電気が遮断されていたため、診療所は発電機を使っていた。血液の袋は飲み物を入れる冷蔵庫に保管され、お湯の蛇口で暖められた。これらは発電機が動いているときだけ使えるものだった。そこは病院として設置されたところではなかったので、私たちが毛布を運び込むまで寝具もなかった。

私たちが到着してまもなく、一つの家族が自家用車で診療所にやってきた。男の子が、頭に銃弾の傷を受けていた。若い女性も銃による傷があった。その家族は、食料も水も電気もないので家を逃れようとしたのだと言っていた。家族が住む地域は米軍に支配されており、家を出たときに狙撃手に撃たれたのだと、彼らは言った。

年老いた女性が一人運び込まれた。今度も自家用車で。彼女は腹部と足に銃傷を受けていた。彼女は白旗を持っていた。彼女の息子は、自分たちもまた米軍が支配していると言われる地域に住んでおり、家を逃れようとしたところ彼女が狙撃手に撃たれたと話した。

診療所の外には、銃弾による穴がたくさんあいた救急車が一台あった。銃弾の穴は、フロントガラス、横のドア、リアガラスにもあいていた。医師たちは、米軍兵士たちが救急車----武器も戦士も乗せていなかった----を探し、それから運転手を撃ったのだと教えてくれた。私たちは、外国人として、救急車ででかけ、怪我をした人々を連れてくるよう頼まれた。というのも、イラク人の運転手が米軍が制圧している地域に行くと、必ず撃たれるからだ。

3人のグループ----私と米国籍の一人とイラク人女性通訳----がピックアップの後ろに乗って出掛けた。赤新月の付いた白旗を掲げ、さらに米英のパスポートも掲げた。私たちは「中間地帯」の端まで車で行き、それから米軍の支配地域に歩いて行った。私たちは非武装の外国人で、怪我人と死者を連れ去ろうとしているのだと叫びながら。そのとき、私たちは怪我人と死者を連れ去ることを許された。米軍海兵隊は屋根の上に陣取っていた。海兵隊の一人が、それから、私たちの後ろを走ってきて、武器を捨てろと叫んだ。私たちは武器を持っていなかった----持っていたのは死体だけだった----ので、彼にそう言うと、彼は自分の場所に戻っていった。

私たちはまた、救急車にのって、患者を運び出しにより小さな病院にも行った。患者をバグダードに避難させることができるように。米軍の狙撃手たちが病院に至る道を支配していたため、イラク人の救急車チームが病人を避難させることはできなかった。私たちは、パスポートを窓から示して、無事病院にたどり着き、バグダードに運ぶために患者全員を診療所に避難させることができた。病院は絶望的状況にあった。基本的な医薬品のほとんどすべてが無くなっていた。

診療所に戻るとすぐに、医者の一人が私たちに、米軍の支配地域で早産しかけている妊婦を連れ出してくれないかと頼んできた。電気が遮断されていたので、彼女には、灯りも水もなかった。暗くなり始めていた。私は前座席の窓側に、英国のパスポートを掲げて乗った。救急車はサイレンを鳴らし、青い光を点滅させていた。

米軍の支配地域を進んでいたとき、一発の銃弾が発射された。サイドミラーにあたり、破片が窓から入ってきて、私の手に当たった。救急車を止め、進んでよいという合図を待ったが、そのかわりに続いて発砲された。何発の銃弾が発射されたかはわからないし、どれだけが救急車の車体にあたったかもわからない。できるだけ早く向きを変えて角を曲がり、発砲を逃れた。フロントタイヤが二つ破裂したため車輪が壊れ、救急車は使えなくなった。

米軍狙撃手たちが撃ってきたのは、私たちがイラク人だと思ったからだろうと私は考えている。私たちが持っていた外国のパスポートを見なかったため、イラク人の救急車運転手に対するように私たちにも振舞ったのだ。別の道を通って女性のところにいくことはできなかったため、私は彼女がどうなったか知らない。その夜は、もう一度出掛けることはできなかった。

翌朝、私たちはピックアップにのって同じ地域に行った。家の一つから、二人の病人を運んでくるよう頼まれたのだ。再び、私たちは米軍の制圧地域に歩いて入って叫んだ。その家に行くことを許された。家に近づくと、遺体が見えた。うつぶせだった。背中には血が丸く広がっており、体をひっくり返したとき、銃弾が完全に貫通していることを知った。胸が粉々に砕け、内蔵が外から見えた。背中の小さな傷と胸の大きな空洞から、私は、彼は背中から撃たれたのだと信じている。

息子が家から出てきて、父は、病人を二人診療所に連れて行こうと家を出たときに背中から撃たれたと行った。家の中には子どもがたくさんいた。女性と老人たち、少し若い男女のカップルがいた。その道の家々には、数家族が、食べ物も水もないままに閉じ込められていた。私たちは海兵隊のところに行って、全員を救出する許可を求めた。海兵隊員たちは、最初、女性と子ども、老人だけを連れていってよいといっていた。彼らはまた、屋根の上を自分たちが占拠している家々からも人々を連れ出すよう私たちに求めた。

私たちの通訳が、海兵隊二人と一緒にそれをやった。私たちは老人の遺体をピックアップの後ろに乗せ、病気の女性たちを、一番小さな子どもたちとともに運転室に乗せた。それから私たちは他の人々に付き添って安全なところまで連れていった。道の端には、戦士たちの遺体があってたくさんのハエが集まっていた。衛生を考えて、遺体を安全に持ち出すことができればそうしようと決めた。救急車が一台、遺体を運ぶためにやってきて、近づいたところ、海兵隊が救急車に銃を向けたため、道の端まで遺体を運ばなくてはならなかった。

それから、避難者たちとともにファルージャを離れ、バグダードの医療地区に彼女たちを連れていった。私たちのうち7人は4月14日、ファルージャに戻った。検問所でファルージャに入るのを待っているとき、トラットナー軍曹という米軍兵士が、ファルージャで「クソッタレ」をたくさん殺したと自慢した。救急車の車列が近づいてきた。兵士たちは全員、救急車に銃を向けた。米軍兵士たちに、通訳はいるのかと聞いたところ、トラットナー軍曹は、銃を示して、「世界一の通訳がここにあるさ」と言った。

赤新月社の救急車一台も含め、供給品は裏道を通って運ばれた。けれども、供給品を配ることはできなかった。海兵隊がイラク人の通過を認めなかったためだ。私たちは、供給品を届けにより小さな病院に戻ろうとした。私たちは、メガフォンで叫び、パスポートと赤新月社のマークの入った白旗を掲げた。青い手術服を着て、赤新月社の腕章をしていた。

道の向こう端に陣取る海兵隊たちに向かって、私たちは外国人で病院に医薬品を届けたいと叫んだ。お望みなら救急車を捜索してもよいと叫んだ。病院に向かって歩き----海兵隊から離れたところにあった----医薬品を積んだ救急車が鼻先を道に出したとき、海兵隊員たちは私たちの頭のすぐ上に発砲した。道を逃れてまた叫んだ。私たちは、とてもゆっくり、両手をあげて彼らの方に歩こうとしたが、海兵隊員たちは再び私たちに向けて発砲した。私たちを撃とうとはしていなかったが、明らかに、病院に医薬品を届けることは阻止しようとしていた。

病院に医薬品を届ける道はなかった。その夜、空襲があった。次の朝(15日)、停戦が発表された。私たちが立ち去る直前、男性の戦士の遺体が診療所に運び込まれた。足に重傷を負い、喉を切り裂かれていた。同じ日、あとになって、私たちが遺体を見たとは知らない別の男性から、友人が足を怪我して戦えない状態にあったとき、米軍海兵隊たちが来て、彼の喉を切り裂いたと教えてくれた。

4月15日の夜、とても特徴的な音の激しい爆撃があった。私はそれがクラスター爆弾だと信じている。その音は、一度に聞こえる一連の爆発音で、通常8回から10回の爆発音である。

私たちは4月16日の朝、ファルージャを離れた。米軍の検問所には、町を逃れようとする車がとても長い列をなしていた。車は検問所を離れていた。乗っていた人々は、検問所に近づこうとすると撃たれたと語った。私たちはパスポートを持って、メガフォンで自分たちは非武装の外国人でファルージャを出ようとしていると叫びながら、また検問所に向かって歩いた。兵士たちはようやく、手を下ろしてよい、「これ以上警告発砲はしない」と叫びかえした。

私たちは、多くの人がファルージャを出ようとしていると説明した。米兵たちは最初、女性と子ども、「戦闘年齢」より老いた男だけ、検問所を通過してよいと言った。私たちは、女性たちのほとんどは運転できず、運転者のほとんどは「戦闘年齢」の男性だと言った。兵士たちは、一台の車につき男一人だけ、運転手として家族と一緒なら通してよいと言った。夫や父がもちろん家族と一緒にいたがるし、多くの人は戦いたくないのだから、もっと多くの男性を逃れさせようと交渉した。名前を知らないある兵士が次のように言った:「奴ら全員を中に留めておきたいんだ。もっと簡単に殺せるようにな」。

それから私は4月の残りをファルージャを避難した子どもたちに劇を見せて過ごした。多くはバグダードのテント・キャンプや周辺の防空壕といった放棄された建物で暮らしていた。

この証言は2004年4月の米軍によるファルージャ侵略のもの。テレグラフ紙が「ファルージャからイラク各地に暴力を輸出する民兵を武力で追放した」という言葉で言及していたのは11月の米軍によるファルージャ侵略。このとき米軍は、4月よりもさらに大規模な暴力を密室化されたファルージャで行使しました。

ジョー・ワイルディングは『ファルージャ2004年4月』(現代企画室)の著者の一人。まだお読みになっていない方は、どうかあわせてお読みいただけると幸いです。また、土井敏邦さんの同名のDVDもぜひご覧下さい。

投稿者:益岡